10月が終わりました!
ついにいろいろ多くのことがあった10月が終わりました!
自分の中では5月と同じぐらいに重い1ヶ月になったと思います!
今月と言えば、やっぱり何と言っても母の入院と状態の悪化ですね。
10月3日に入院して、そこから10日ぐらい病院から連絡はなかったので、
「順調に回復してるのかな」と楽観的に思っていたら、
面会したときに意識が飛んでいて手や脚が凄まじく膨れ上がっていて、
「これはかなり厳しいと思わざるを得ない」となったのですよね。
正直なところ、回復するのは非常に難しいとは考えていますが、
ただ2回目の面会から今日で10日にはなっているのですよね。
その間は病院から連絡はないので、最悪の事態はまだ避けられていて、
とはいえ回復してるかどうかもわからない、状態は横ばいなのか、
改善しつつあるのか徐々に落ちているのか、何もわからない状態です。
最初に面会したときはもう諦める以外の選択肢がない感じでしたが、
今は「もしかしたら」とうっすらと奇跡を願いながら過ごしています。
覚悟はしつつ、ただ一方でかすかな希望を持っていたいと思っています。
-------------
そして今月はこのブログでもかなり大きな動きがありましたね!
ここ1年ぐらいはこのブログはほぼ完全に休止状態でしたが、
この1ヶ月はかなり復活して更新頻度も2日に1回を超えました!
事実上のブログの復活が達成できたと言ってもいいと思います!(●・ω・)
そのかわり、ブログのカラーはこれまでとは完全に変わりましたね!
カップ麺の記事はほとんどなく、ほぼ洋楽ロックブログになりました!
昔から洋楽ロックの記事はずっと書きたいとは思っていたのです!
とはいえ、カップ麺ブログとして運用しているときは、
「どう考えても今の読者の人達にはニーズはないよな」ということが気になり、
開設当初は「どんな話題でも扱おう」という意気込みではいたものの、
そのあたりが気になり洋楽ロックの記事は最小限にとどまっていました;
またカップ麺の記事に比べて、洋楽ロックの記事は書く手間が多く、
それゆえに記事を量産しにくいという問題もありましたからね!
ただもうこのブログは一度休止状態に陥ってしまいましたし、
「だったら別にニーズのない記事でも休止してるよりはマシでは?」
と思い、以前のような躊躇をせずに書けるようになりました!
またブロ友さん達がそれらを快く受け止めてくれたおかげでもあります!
この大きな方向性のチェンジのきっかけは先月の月末記事でした!(=゚ω゚)
ここでいつものように月末記事向けの洋楽ロックの動画を貼ったのですが、
いつもは「ニーズがないだろうから」とそこに説明をつけなかったのが、
今回はもう開き直って詳細な解説をつけることにしたのですよね!
それで一気に吹っ切れたというのが大きかったです!
そしてもう一つ大きかったのは以前に書いた「ロックの歴史」の文章ですね!
これはもともとブログと関係なく書いた文章だったのですが、
「洋楽ロックブログにするなら公開すればいいじゃん」と公開し、
これがちょうど洋楽ロックブログとして勢いをつけてくれました!
ブログで公開するにあたって不十分なところなどはいくつか書き直しましたが!
今後の更新で考えているのは、主に次の3つのタイプの記事なのですよね!
(1)それぞれのジャンルの成り立ちに関する解説
(2)それぞれのジャンルの音楽性の解説と大量プレイリスト
(3)洋楽ロックの曲の歌詞対訳
(3)はすでにやっているので説明は割愛するとして、
(1)は「フォークロックができるまで」みたいな記事のことですね!
他のジャンルについてもこのスタイルの記事を書きたいと思っています!
(2)は「(1)と何が違うんだ?」と思われてしまいそうですが、
(1)はあくまで成り立ちについてのみ焦点を当てたものなのに対し、
(2)はそのジャンルの全体像がはっきり見えるものにしたいのですね!
そして(2)はそのジャンルの楽曲を大量に集めたプレイリストをつけて、
「このプレイリストさえ聴けば、このジャンルの全体像はほぼわかるぞ」
というぐらいのものにしたいのですね!
だから(1)は「なるほどこのジャンルはこういうふうにできたのか」がわかるように、
(2)は「なるほどこのジャンルはこういう音なんだな」がとことんまでわかるように、
そんなふうに育てていきたいと思っています!
問題はどのジャンルについて(1)や(2)の記事を書くかですね!
サイケデリックロック、サンシャインポップ、サザンロック、
パンクロック、ポストパンク/ニューウェイブ、グランジ、
ファンクメタル、ドゥーム/ストーナー/スラッジ、
アメリカントラッド/アダルトオルタナティブと、
このあたりが候補に挙がってますが、さてさてどうしましょうか!
でもこんなふうに更新の方向性で悩めるのは楽しい悩みでもありますね!(*゚ー゚)
そして以前に紹介した「うちの家にお菓子をもらいに来る小学生姉妹」ちゃん達は
今も元気に自分と父に懐いていて、お菓子をもらいにやってきます!
この子達のおかげで、うちは年中ハロウィンみたいな感じになっています!笑
毎日「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!」と言われてる感じですね!
最近はお菓子を自由に貯められるように専用のボックスを用意してあげたのですが、
今はそのボックスを秘密の宝箱のように大事に扱ってお菓子などを貯め込んでいます!
小学生のときって自分も秘密基地みたいなのを作って楽しんでましたし、
こうした「自分達だけの秘密のもの」があると楽しいのでしょうね!(*・ω・)
こちらもこの子達のおかげで元気をもらうことができますしね!
人生に疲れているときでも子どもの無邪気な声や笑顔は楽しいですからね!
[今月の1曲]
さて、ここからは月末記事に貼る1曲の紹介をしたいと思います!
いつもはそのときの心境に近い曲を貼ることが多いのですが、
今月はそれとは特に関係なくDepeche Modeの曲を選びました!
Depeche Modeは今も活動は続けていますが、
80年代のポストパンク/ニューウェイブムーブメントを支えた
シンセポップ系のバンドの代表格と言っていいでしょう!
今回はそこから最大の代表曲の一つである"Enjoy the Silence"を選びました!
この曲は「ややダークな80年代シンセポップの完成形」とも呼べる曲で、
80年代のシンセサウンドが好きな人なら確実に気に入ると言えるほどだと思います!
そして同時にDepeche Modeは90年代のオルタナティブロック好きにも人気が高く、
実際にThe Smashing Pumpkinsなどの90年代のバンドに与えた影響も多大で、
90年代好きの人にもオススメできる、幅広い間口を持っている曲ですね!
「別に洋楽好きじゃないし、貼っている曲までは興味がないなぁ」という人でも、
「まぁそこまでオススメして、5分程度の曲なら聴いてやるか」ぐらいの気持ちで
ちょこっとボタンを押してもらえるとうれしいです!
ということで、11月もどうぞよろしくお願いいたします!(゚x/)モキシュール
Depeche Mode - Enjoy the Silence (1990) [Synth Pop / New Wave]
自分の中では5月と同じぐらいに重い1ヶ月になったと思います!
今月と言えば、やっぱり何と言っても母の入院と状態の悪化ですね。
10月3日に入院して、そこから10日ぐらい病院から連絡はなかったので、
「順調に回復してるのかな」と楽観的に思っていたら、
面会したときに意識が飛んでいて手や脚が凄まじく膨れ上がっていて、
「これはかなり厳しいと思わざるを得ない」となったのですよね。
正直なところ、回復するのは非常に難しいとは考えていますが、
ただ2回目の面会から今日で10日にはなっているのですよね。
その間は病院から連絡はないので、最悪の事態はまだ避けられていて、
とはいえ回復してるかどうかもわからない、状態は横ばいなのか、
改善しつつあるのか徐々に落ちているのか、何もわからない状態です。
最初に面会したときはもう諦める以外の選択肢がない感じでしたが、
今は「もしかしたら」とうっすらと奇跡を願いながら過ごしています。
覚悟はしつつ、ただ一方でかすかな希望を持っていたいと思っています。
-------------
そして今月はこのブログでもかなり大きな動きがありましたね!
ここ1年ぐらいはこのブログはほぼ完全に休止状態でしたが、
この1ヶ月はかなり復活して更新頻度も2日に1回を超えました!
事実上のブログの復活が達成できたと言ってもいいと思います!(●・ω・)
そのかわり、ブログのカラーはこれまでとは完全に変わりましたね!
カップ麺の記事はほとんどなく、ほぼ洋楽ロックブログになりました!
昔から洋楽ロックの記事はずっと書きたいとは思っていたのです!
とはいえ、カップ麺ブログとして運用しているときは、
「どう考えても今の読者の人達にはニーズはないよな」ということが気になり、
開設当初は「どんな話題でも扱おう」という意気込みではいたものの、
そのあたりが気になり洋楽ロックの記事は最小限にとどまっていました;
またカップ麺の記事に比べて、洋楽ロックの記事は書く手間が多く、
それゆえに記事を量産しにくいという問題もありましたからね!
ただもうこのブログは一度休止状態に陥ってしまいましたし、
「だったら別にニーズのない記事でも休止してるよりはマシでは?」
と思い、以前のような躊躇をせずに書けるようになりました!
またブロ友さん達がそれらを快く受け止めてくれたおかげでもあります!
この大きな方向性のチェンジのきっかけは先月の月末記事でした!(=゚ω゚)
ここでいつものように月末記事向けの洋楽ロックの動画を貼ったのですが、
いつもは「ニーズがないだろうから」とそこに説明をつけなかったのが、
今回はもう開き直って詳細な解説をつけることにしたのですよね!
それで一気に吹っ切れたというのが大きかったです!
そしてもう一つ大きかったのは以前に書いた「ロックの歴史」の文章ですね!
これはもともとブログと関係なく書いた文章だったのですが、
「洋楽ロックブログにするなら公開すればいいじゃん」と公開し、
これがちょうど洋楽ロックブログとして勢いをつけてくれました!
ブログで公開するにあたって不十分なところなどはいくつか書き直しましたが!
今後の更新で考えているのは、主に次の3つのタイプの記事なのですよね!
(1)それぞれのジャンルの成り立ちに関する解説
(2)それぞれのジャンルの音楽性の解説と大量プレイリスト
(3)洋楽ロックの曲の歌詞対訳
(3)はすでにやっているので説明は割愛するとして、
(1)は「フォークロックができるまで」みたいな記事のことですね!
他のジャンルについてもこのスタイルの記事を書きたいと思っています!
(2)は「(1)と何が違うんだ?」と思われてしまいそうですが、
(1)はあくまで成り立ちについてのみ焦点を当てたものなのに対し、
(2)はそのジャンルの全体像がはっきり見えるものにしたいのですね!
そして(2)はそのジャンルの楽曲を大量に集めたプレイリストをつけて、
「このプレイリストさえ聴けば、このジャンルの全体像はほぼわかるぞ」
というぐらいのものにしたいのですね!
だから(1)は「なるほどこのジャンルはこういうふうにできたのか」がわかるように、
(2)は「なるほどこのジャンルはこういう音なんだな」がとことんまでわかるように、
そんなふうに育てていきたいと思っています!
問題はどのジャンルについて(1)や(2)の記事を書くかですね!
サイケデリックロック、サンシャインポップ、サザンロック、
パンクロック、ポストパンク/ニューウェイブ、グランジ、
ファンクメタル、ドゥーム/ストーナー/スラッジ、
アメリカントラッド/アダルトオルタナティブと、
このあたりが候補に挙がってますが、さてさてどうしましょうか!
でもこんなふうに更新の方向性で悩めるのは楽しい悩みでもありますね!(*゚ー゚)
そして以前に紹介した「うちの家にお菓子をもらいに来る小学生姉妹」ちゃん達は
今も元気に自分と父に懐いていて、お菓子をもらいにやってきます!
この子達のおかげで、うちは年中ハロウィンみたいな感じになっています!笑
毎日「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!」と言われてる感じですね!
最近はお菓子を自由に貯められるように専用のボックスを用意してあげたのですが、
今はそのボックスを秘密の宝箱のように大事に扱ってお菓子などを貯め込んでいます!
小学生のときって自分も秘密基地みたいなのを作って楽しんでましたし、
こうした「自分達だけの秘密のもの」があると楽しいのでしょうね!(*・ω・)
こちらもこの子達のおかげで元気をもらうことができますしね!
人生に疲れているときでも子どもの無邪気な声や笑顔は楽しいですからね!
[今月の1曲]
さて、ここからは月末記事に貼る1曲の紹介をしたいと思います!
いつもはそのときの心境に近い曲を貼ることが多いのですが、
今月はそれとは特に関係なくDepeche Modeの曲を選びました!
Depeche Modeは今も活動は続けていますが、
80年代のポストパンク/ニューウェイブムーブメントを支えた
シンセポップ系のバンドの代表格と言っていいでしょう!
今回はそこから最大の代表曲の一つである"Enjoy the Silence"を選びました!
この曲は「ややダークな80年代シンセポップの完成形」とも呼べる曲で、
80年代のシンセサウンドが好きな人なら確実に気に入ると言えるほどだと思います!
そして同時にDepeche Modeは90年代のオルタナティブロック好きにも人気が高く、
実際にThe Smashing Pumpkinsなどの90年代のバンドに与えた影響も多大で、
90年代好きの人にもオススメできる、幅広い間口を持っている曲ですね!
「別に洋楽好きじゃないし、貼っている曲までは興味がないなぁ」という人でも、
「まぁそこまでオススメして、5分程度の曲なら聴いてやるか」ぐらいの気持ちで
ちょこっとボタンを押してもらえるとうれしいです!
ということで、11月もどうぞよろしくお願いいたします!(゚x/)モキシュール
Depeche Mode - Enjoy the Silence (1990) [Synth Pop / New Wave]
(クリックしてくださる際にはCtrlキーを押しながらすると非常に楽です。)
テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記
フォークロックができるまで 第2回
さて、前回の第1回記事でThe ByrdsやThe Turtlesといったバンドが
フォークの曲をロックのスタイルでカバーすることによって
フォークロックという両者の垣根を超えた音楽を確立したことを解説しました。
しかし、まだこの段階では「フォークを基盤にロックのスタイルで演奏する
新進気鋭のフォークロックと呼ばれるバンドが出てきた」というだけで、
あくまでそうした「新しいフォークロックバンド」のみの動きでした。
しかし、この動きは従来のフォークミュージシャンにも大きな刺激を与えます。
そしてフォークの第一人者であったボブ・ディランは
次のアルバム"Highway 61 Revisited"でその動きに明確に答えました。
ロックのスタイルを大幅に導入し、従来のフォークの殻を大きく破り、
それとともにフォークロックの傑作"Like a Rolling Stone"を発表したのです。
まずは何よりそれを実際に聴いていただきましょう。
Bob Dylan - Like a Rolling Stone (1965) [Folk Rock]
ボブ・ディランとしての個性を受け継ぎ、フォークの香りを残しながら、
一気に壁を壊しロックを取り入れフォークとの見事な融合を果たします。
この「フォークからのフォークロックへの回答」が生まれたことで、
真にフォークロックは確立したと言ってもいいでしょう。
さて、フォークを代表するもう一つのミュージシャンとして
あのサイモン&ガーファンクルもいます。
彼らはいったいフォークロックの動きにどのように答えたのでしょうか。
Simon & Garfunkelは1stの"Wednesday Morning, 3 A.M."ではほぼ純粋なフォークでした。
その収録曲である"The Sound of Silence"を聴いていただきましょう。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (1964) [Folk]
改めて聴くとフォークギターのみの非常にシンプルな構成ですよね。
この曲は教科書などにも載っているので多くの人が知っていますね。
しかしこの曲は次の2ndアルバムで再レコーディングされることになります。
なんとそこでは、この曲が一気にフォークロックへと生まれ変わったのです。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (1966) [Folk Rock]
エレクトリックギターになったことで厚みが増し、ドラムによってロックらしさが高まり、
まさにこの曲が基本の構成を変えずにフォークロックに生まれ変わったことがわかります。
これもまたフォークのロック化を象徴する曲の一つと言っていいでしょう。
もっともこれは純粋なフォークだった原曲の"The Sound of Silence"を受けて、
ボブ・ディランの"Like a Rolling Stone"にも関わったプロデューサーのトム・ウィルソンが
半ば勝手に行ったリミックスだったりもしたわけですが。
このバージョンはもともとシンプルなフォークだった曲を
エレクトリックなロックにアレンジしたというものでしたが、
この2ndアルバムでは他にも優秀なフォークロックがたくさんあります。
そんな新たに作られたフォークロックについても見ていきましょう。
Simon & Garfunkel - I Am a Rock (1966) [Folk Rock]
最初はフォークギター一本で始まりフォークらしいと思わせながら、
途中でドラムとエレクトリックギターやオルガンが入って、
一気に「フォークグループによるフォークロック」らしいサウンドになります。
これもまたフォークロックの確立に大きな役割を果たした曲と言えるでしょう。
フォークロックの誕生による影響はフォークミュージシャンのみにとどまりませんでした。
逆にロックバンドがフォークやフォークロックに接近する動きも生み出したのです。
その代表格とも言えるのが、The Beatlesの"Rubber Soul"というアルバムです。
ロックの歴史の中でも非常に重要視されているアルバムの一つですが、
これは実は「The Beatlesによるフォークロックへの回答」という側面を持っており、
明確にフォークやフォークロックに接近した曲が多く含まれています。
その中から1曲、いかにもThe Byrds流のフォークロックを意識した曲を紹介しましょう。
前回記事で紹介したThe Byrdsの"Mr. Tambourine Man"あたりを思い浮かべると、
その影響や共通性などをしっかりと感じ取ることができるだろうと思います。
The Beatles - Nowhere Man (1965) [Folk Rock]
このあたりの新しい音楽スタイルの昇華の仕方であったり、
それを新たに自分のものにする上手さはさすがThe Beatlesですね。
ということで、フォークロックの成り立ちについてのお話でした!(゚x/)
【関連記事】
・フォークロックができるまで 第2回
・フォークロックができるまで 第1回
フォークの曲をロックのスタイルでカバーすることによって
フォークロックという両者の垣根を超えた音楽を確立したことを解説しました。
しかし、まだこの段階では「フォークを基盤にロックのスタイルで演奏する
新進気鋭のフォークロックと呼ばれるバンドが出てきた」というだけで、
あくまでそうした「新しいフォークロックバンド」のみの動きでした。
しかし、この動きは従来のフォークミュージシャンにも大きな刺激を与えます。
そしてフォークの第一人者であったボブ・ディランは
次のアルバム"Highway 61 Revisited"でその動きに明確に答えました。
ロックのスタイルを大幅に導入し、従来のフォークの殻を大きく破り、
それとともにフォークロックの傑作"Like a Rolling Stone"を発表したのです。
まずは何よりそれを実際に聴いていただきましょう。
Bob Dylan - Like a Rolling Stone (1965) [Folk Rock]
ボブ・ディランとしての個性を受け継ぎ、フォークの香りを残しながら、
一気に壁を壊しロックを取り入れフォークとの見事な融合を果たします。
この「フォークからのフォークロックへの回答」が生まれたことで、
真にフォークロックは確立したと言ってもいいでしょう。
さて、フォークを代表するもう一つのミュージシャンとして
あのサイモン&ガーファンクルもいます。
彼らはいったいフォークロックの動きにどのように答えたのでしょうか。
Simon & Garfunkelは1stの"Wednesday Morning, 3 A.M."ではほぼ純粋なフォークでした。
その収録曲である"The Sound of Silence"を聴いていただきましょう。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (1964) [Folk]
改めて聴くとフォークギターのみの非常にシンプルな構成ですよね。
この曲は教科書などにも載っているので多くの人が知っていますね。
しかしこの曲は次の2ndアルバムで再レコーディングされることになります。
なんとそこでは、この曲が一気にフォークロックへと生まれ変わったのです。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence (1966) [Folk Rock]
エレクトリックギターになったことで厚みが増し、ドラムによってロックらしさが高まり、
まさにこの曲が基本の構成を変えずにフォークロックに生まれ変わったことがわかります。
これもまたフォークのロック化を象徴する曲の一つと言っていいでしょう。
もっともこれは純粋なフォークだった原曲の"The Sound of Silence"を受けて、
ボブ・ディランの"Like a Rolling Stone"にも関わったプロデューサーのトム・ウィルソンが
半ば勝手に行ったリミックスだったりもしたわけですが。
このバージョンはもともとシンプルなフォークだった曲を
エレクトリックなロックにアレンジしたというものでしたが、
この2ndアルバムでは他にも優秀なフォークロックがたくさんあります。
そんな新たに作られたフォークロックについても見ていきましょう。
Simon & Garfunkel - I Am a Rock (1966) [Folk Rock]
最初はフォークギター一本で始まりフォークらしいと思わせながら、
途中でドラムとエレクトリックギターやオルガンが入って、
一気に「フォークグループによるフォークロック」らしいサウンドになります。
これもまたフォークロックの確立に大きな役割を果たした曲と言えるでしょう。
フォークロックの誕生による影響はフォークミュージシャンのみにとどまりませんでした。
逆にロックバンドがフォークやフォークロックに接近する動きも生み出したのです。
その代表格とも言えるのが、The Beatlesの"Rubber Soul"というアルバムです。
ロックの歴史の中でも非常に重要視されているアルバムの一つですが、
これは実は「The Beatlesによるフォークロックへの回答」という側面を持っており、
明確にフォークやフォークロックに接近した曲が多く含まれています。
その中から1曲、いかにもThe Byrds流のフォークロックを意識した曲を紹介しましょう。
前回記事で紹介したThe Byrdsの"Mr. Tambourine Man"あたりを思い浮かべると、
その影響や共通性などをしっかりと感じ取ることができるだろうと思います。
The Beatles - Nowhere Man (1965) [Folk Rock]
このあたりの新しい音楽スタイルの昇華の仕方であったり、
それを新たに自分のものにする上手さはさすがThe Beatlesですね。
ということで、フォークロックの成り立ちについてのお話でした!(゚x/)
【関連記事】
・フォークロックができるまで 第2回
・フォークロックができるまで 第1回
フォークロックができるまで 第1回
さて、これまで「ロックの歴史」シリーズを通じて、
それぞれの時代ごとにどのようなスタイルの音楽が生まれ、
それがどのようなミュージックシーンを作ってきたか語ってきました。
しかしながら、それらがどのような音楽であるか言葉で語りながらも、
それを感覚として理解することは難しい文章でもありました。
このように「ロックの歴史」シリーズはそれだけで全体像をとらえるのは難しく、
歴史の流れをおおまかに知る点ではそれなりに役に立つとは思えるものの、
それを感覚として体や耳に染みつけるところにまでは至らないものでした。
なので、ここからは「ロックの歴史」の中で紹介した様々なジャンルを
それがどのように形成されていったか、どのように確立されていったかを
実際の音楽動画紹介も含めながら伝えていきたいと思っています。
まずは60年代中期に形成された「フォークロック」について見ていきましょう!
60年代前半まではフォークとロックは完全に別々の音楽として存在していました。
それが60年代中期にかけて、フォークとロックの間の垣根が崩れて、
フォークをロックのスタイルでもって演奏するようになったり、
フォークミュージシャンがロックを取り入れるケースが出てきました。
このようにして生まれたのが、フォークとロックを融合した
「フォークロック」というスタイルです。
これ以降はエレキギターやドラムなどを使わない純粋なフォークは少なくなり、
フォークを土台としたミュージシャンもロックの様式を取り入れるのが一般的となります。
さて、この「フォークロック」はどのようにして生まれていったのでしょう。
まずはフォークの第一人者であるボブ・ディランの
"Mr. Tambourine Man"という曲を聴いてもらいましょう。
(5thアルバム"Bringing It All Back Home"に収録)
これは紛うことなき、ドラムなども入らない実に純粋なフォークです。
Bob Dylan - Mr. Tambourine Man (1965) [Folk]
そしてこのボブ・ディランの"Mr. Tambourine Man"を
ロックのスタイルでカバーしたバンドがいました。
それがフォークロックのスタイルを確立したとも言える存在であるThe Byrdsです。
まずはそちらを実際に聴いていただきましょう。
原曲であるボブ・ディラン版との違いがはっきりと伝わると思います。
The Byrds - Mr. Tambourine Man (Bob Dylan cover) (1965) [Folk Rock]
このバージョンだけを聴くと、ほぼギター一本のみの
純粋なフォークのカバーだとは気付かないかもしれませんね。
それぐらいに上手くロックのスタイルへと落とし込んでいます。
一般的なロックに比べると、緊張したようなピリッとした感触をあえて減らし、
ややのんべんだらりとした雰囲気にしているところが特徴ではありますが。
いずれにしても、このカバーがフォークとロックの垣根を壊す大きなきっかけとなりました。
面白いのはカバー曲によってイノベーションを起こしたという点ですね。
普通は音楽的なイノベーションはオリジナル曲で起きることが多いですが、
「フォークをロックの手法でカバー」したからこそ音楽的な変革が起きたのですよね。
そしてこうした「フォークをロックの手法でカバーする」のは、
このThe Byrdsにとどまらず、他のバンドにも広がっていきました。
そのもう一つの代表とも言えるのが"It Ain't Me Babe"という曲です。
まずはオリジナルであるボブ・ディラン版を聴いてくださいませ。
(4thアルバム"Another Side of Bob Dylan"に収録)
Bob Dylan - It Ain't Me Babe (1964) [Folk]
これはもう非常に原初的なスタイルのフォークと言っていいでしょうね。
そしてこの曲をThe Turtlesというバンドがロックのスタイルでカバーしました。
The Byrdsとはまたちょっと違った切り口ですが、明確にロックになっていますね。
The Turtles - It Ain't Me Babe (Bob Dylan cover) (1965) [Folk Rock]
こうしたフォークとロックの垣根を壊す動きは、
The ByrdsやThe Turtlesのようなフォークロックのバンドを生むだけでなく、
ボブ・ディランをはじめとしたフォークのミュージシャンにも影響を与え、
さらに従来のロックバンドがフォークに接近するきっかけをも作りました。
次回の「フォークロックができるまで 第2回」ではその動きを見ていきましょう!(゚x/)
【関連記事】
・フォークロックができるまで 第2回
・フォークロックができるまで 第1回
それぞれの時代ごとにどのようなスタイルの音楽が生まれ、
それがどのようなミュージックシーンを作ってきたか語ってきました。
しかしながら、それらがどのような音楽であるか言葉で語りながらも、
それを感覚として理解することは難しい文章でもありました。
このように「ロックの歴史」シリーズはそれだけで全体像をとらえるのは難しく、
歴史の流れをおおまかに知る点ではそれなりに役に立つとは思えるものの、
それを感覚として体や耳に染みつけるところにまでは至らないものでした。
なので、ここからは「ロックの歴史」の中で紹介した様々なジャンルを
それがどのように形成されていったか、どのように確立されていったかを
実際の音楽動画紹介も含めながら伝えていきたいと思っています。
まずは60年代中期に形成された「フォークロック」について見ていきましょう!
60年代前半まではフォークとロックは完全に別々の音楽として存在していました。
それが60年代中期にかけて、フォークとロックの間の垣根が崩れて、
フォークをロックのスタイルでもって演奏するようになったり、
フォークミュージシャンがロックを取り入れるケースが出てきました。
このようにして生まれたのが、フォークとロックを融合した
「フォークロック」というスタイルです。
これ以降はエレキギターやドラムなどを使わない純粋なフォークは少なくなり、
フォークを土台としたミュージシャンもロックの様式を取り入れるのが一般的となります。
さて、この「フォークロック」はどのようにして生まれていったのでしょう。
まずはフォークの第一人者であるボブ・ディランの
"Mr. Tambourine Man"という曲を聴いてもらいましょう。
(5thアルバム"Bringing It All Back Home"に収録)
これは紛うことなき、ドラムなども入らない実に純粋なフォークです。
Bob Dylan - Mr. Tambourine Man (1965) [Folk]
そしてこのボブ・ディランの"Mr. Tambourine Man"を
ロックのスタイルでカバーしたバンドがいました。
それがフォークロックのスタイルを確立したとも言える存在であるThe Byrdsです。
まずはそちらを実際に聴いていただきましょう。
原曲であるボブ・ディラン版との違いがはっきりと伝わると思います。
The Byrds - Mr. Tambourine Man (Bob Dylan cover) (1965) [Folk Rock]
このバージョンだけを聴くと、ほぼギター一本のみの
純粋なフォークのカバーだとは気付かないかもしれませんね。
それぐらいに上手くロックのスタイルへと落とし込んでいます。
一般的なロックに比べると、緊張したようなピリッとした感触をあえて減らし、
ややのんべんだらりとした雰囲気にしているところが特徴ではありますが。
いずれにしても、このカバーがフォークとロックの垣根を壊す大きなきっかけとなりました。
面白いのはカバー曲によってイノベーションを起こしたという点ですね。
普通は音楽的なイノベーションはオリジナル曲で起きることが多いですが、
「フォークをロックの手法でカバー」したからこそ音楽的な変革が起きたのですよね。
そしてこうした「フォークをロックの手法でカバーする」のは、
このThe Byrdsにとどまらず、他のバンドにも広がっていきました。
そのもう一つの代表とも言えるのが"It Ain't Me Babe"という曲です。
まずはオリジナルであるボブ・ディラン版を聴いてくださいませ。
(4thアルバム"Another Side of Bob Dylan"に収録)
Bob Dylan - It Ain't Me Babe (1964) [Folk]
これはもう非常に原初的なスタイルのフォークと言っていいでしょうね。
そしてこの曲をThe Turtlesというバンドがロックのスタイルでカバーしました。
The Byrdsとはまたちょっと違った切り口ですが、明確にロックになっていますね。
The Turtles - It Ain't Me Babe (Bob Dylan cover) (1965) [Folk Rock]
こうしたフォークとロックの垣根を壊す動きは、
The ByrdsやThe Turtlesのようなフォークロックのバンドを生むだけでなく、
ボブ・ディランをはじめとしたフォークのミュージシャンにも影響を与え、
さらに従来のロックバンドがフォークに接近するきっかけをも作りました。
次回の「フォークロックができるまで 第2回」ではその動きを見ていきましょう!(゚x/)
【関連記事】
・フォークロックができるまで 第2回
・フォークロックができるまで 第1回
ロックをジャンルの視点から語る意義
私は洋楽ロックの様々なバンドについて語るときに、
必ずと言っていいほどその曲がどのジャンルに属するか、
という視点を盛り込むようにしています。
それを見て、
「なんでこの人はいちいちジャンルにこだわるのだろう」
と感じる人も少なからずいるかもしれません。
ミュージシャンの間ではジャンルで括られるのを嫌う人もいますし、
「音楽をジャンルという枠にはめるのは解釈を狭くする」
と考える人も少なくないと思います。
そこで、ここでは「ロックをあえてジャンルの視点から語る意義」
について語っていきたいと思います。
たとえばあるゲームに興味を持ったとき、
他の人に「これってどんなゲーム?」とたずねたとしましょう。
そうすると、聞かれた人の多くは「これはRPGだよ」とか、
「これはシューティングゲームだよ」といったように、
どういうタイプのゲームなのかをまず答えるでしょう。
そうすることで、聞いた側も「あぁ、おおよそその方向性のゲームなのだな」
と理解でき、そのゲームをプレイするかどうかの大きな手掛かりにできます。
さらに「このゲームはドラクエに近い」とか、
「このゲームはゼルダの伝説に近い」みたいに固有名詞付きで言われれば、
そのイメージはより明確なものになるでしょう。
これは様々なロックに触れるうえでも同様だと言えます。
「これはスラッシュメタルですよ」「これはパンクロックですよ」、
というふうに音のタイプを説明すると、イメージがしやすくなり、
実際に音を聴いたときにも「なるほどこういう音か」と解釈が容易になります。
さらに「このバンドはLed ZeppelinとBlack Sabbathの影響を受けてる」
のように固有名詞で聞くと、そのイメージはより明確になるでしょう。
ただし、ゲームと違ってロックではいくぶん弱点を含むのも事実です。
まず第一にジャンルがあまりに細分化されすぎているうえに、
各々のジャンルについてよく知らない人のほうが多数派なため、
「これはプログレですよ」とか言っても、
これからロックを聴き始めようとしている人には通じません。
かといって、「プログレとは何か」を説明しようとすると、
時代背景や成立の流れまで含めたりすると長くなりすぎるなど、
ジャンルの情報を提供しても理解してもらえることに難しさがあります。
これはバンド名の固有名詞を挙げて説明する場合はさらに問題になります。
すでにそのバンドを聴いている人にしか理解ができないですからね。
そして何より厄介なのが、ゲームの分類と比べて、
音楽のジャンルの分類はその境界線がかなりの曖昧さを含んでいます。
「AのバンドもBのバンドもどっちも同じジャンルなの?」とか、
「Aのバンドはこの2つのどちらのジャンルになるの?」とか、
ゲームのジャンルほどスパッと切れない難しさがあります。
そうすると、やはりロックのジャンル分けは一長一短に見えます。
それでもあえてジャンルで語ることの意義はいったい何なのでしょう。
ロックの歴史を見ていくと、音楽は決して単発でポツポツ生まれてはいないのです。
ある時代に「こういう方向性の音楽を作るべきではないだろうか」
と考えるミュージシャンが同時多発的に表れ、
それぞれの人達が似た方向を向いて音楽を作り、
それが一つの音楽文化を形成していくという経緯があることが、
ロックの歴史を見ていくと非常にはっきりと伝わってきます。
この事実を踏まえると、
「この都市とあの都市などが集まって、この国はできたんですよ」
と語ることであったり、
「この都市はこの国が成立する経緯の中で生まれたんですよ」
と見ることが意義を持ってきます。
「ジャンル」とだけ聞くと、まるで本来は関係ない別々の都市を
無理やり「ジャンル」という枠でくくっているように聞こえます。
しかし実はそうではなく、様々なバンドが似通った目標を持って
新たなミュージックシーンを形成することでジャンルが成立しているのです。
なので、実は私が「ジャンル」として語っているのは、
本当は「(時代なども踏まえた)ミュージックシーン」のことなのです。
このようにバンドは決して単体で存在しているのではなく、
「様々な都市が似通った目標や文化背景を持って成立し国を形成した」
というふうにとらえると、1つの都市(=バンド)に触れたときに
得られるイメージが横の厚みを持ってくることになるのですね。
時代背景も見えてくるし、同じミュージックシーンを形成した
他のバンドも聴くことで、国全体のイメージも頭の中にできていきます。
バンドだけをぶつ切りで聴くと、世界中の各都市だけの知識が
バラバラに断片的に頭に入ってくることだけで終わってしまいますが、
ジャンルというかミュージックシーンを意識しながら聴いていくと、
各都市の知識が有機的に結びつき、さらには国もイメージも見えてきて、
まるで「音楽による地図」のようなものがどんどん広がっていくのです。
どんな知識も断片的なつまみ食いでは見えてこないものがあります。
その横の繋がりや、まとまりなどを意識することによって、
知識はネットワークとなり、頭の中に世界地図のように完成します。
ジャンル、すなわちミュージックシーンを考える意義はそこにあります。
前節で「ジャンルというより、むしろミュージックシーンとして理解しよう」
ということを説明しました。
しかしそうすると、「音のタイプで分類するジャンル」と違って、
ミュージックシーンは時代なども大きく影響してくるはずで、
ではジャンルの分類も時代によって変えるべきなのか、
という問いが出てくることになります。
その答えですが、私は迷わず「Yes」と答えます。
私としては「ジャンルはむしろミュージックシーンを指す言葉であり、
たとえ音が近くあっても、時代やミュージックシーンが異なるのであれば、
また別のジャンル名をつけたほうがいい」というスタンスでいます。
たとえば「サイケデリックロック」と言えば、
自分は60年代中盤から70年代前半までの
サイケデリックシーンのバンドのみを指すようにしています。
その時代以降のサイケ風の音楽は「ネオサイケ」のように呼んだり、
「サイケデリック・リバイバル」のように呼ぶほうが適切だと見ています。
全てのジャンルについてそうすることを求めるのは難しいですが、
本来ならこのようにジャンルの名前を聴けば、
「あぁ、あの時代にあのような音で文化を形成したシーンのことだな」
と思い浮かぶ、そのほうが実際にはわかりやすいと考えています。
「ジャンルをミュージックシーンとしてとらえ、
各バンドの音楽をミュージックシーンを意識しつつ聴くことで、
頭の中の音楽の世界の地図が有機的に完成していく」
と述べてきましたが、そのためには大きなハードルがあります。
「それぞれのジャンル、ミュージックシーンがどの時代に
どのように形成されたのか」がわからないと、理解のしようがないことです。
しかし、それについてはこのブログの「ロックの歴史」シリーズで詳しく触れてきました。
あのシリーズはまさに「それぞれのミュージックシーンが
どの時代にどのような背景を持って形成され、それがどのような音楽だったか」
をあらゆる角度から解説したものです。
もちろん洋楽ロックに詳しくない人から見れば、
あまりに固有名詞が多くて全ての理解は非常に困難でしょう。
でもあの文章をいつでも読めるような状態にしておけば、
新たに聴いたバンドのジャンルを見て、
それをあの文章と照らし合わせることでバンドを「断片的な都市」ではなく、
「その都市の背景とどんな国を形成することに寄与したか」が見えてきて、
これによって一気にバンドの理解というものが厚みを持ってくるのですね。
あの「ロックの歴史」の文章を何となく頭の中に入れつつ、
音楽を聴くことで知識を有機的に結び付けやすくなるでしょう。
そのための入口という意味を込めた文章でもあったのですね。
なので、音楽に入るときはミュージックシーンも意識しながら聴くと、
「その音楽が目指したもの」なども見えてきて、より深く楽しめますよ。
必ずと言っていいほどその曲がどのジャンルに属するか、
という視点を盛り込むようにしています。
それを見て、
「なんでこの人はいちいちジャンルにこだわるのだろう」
と感じる人も少なからずいるかもしれません。
ミュージシャンの間ではジャンルで括られるのを嫌う人もいますし、
「音楽をジャンルという枠にはめるのは解釈を狭くする」
と考える人も少なくないと思います。
そこで、ここでは「ロックをあえてジャンルの視点から語る意義」
について語っていきたいと思います。
◎理解を助けるためのジャンルという手がかり
たとえばあるゲームに興味を持ったとき、
他の人に「これってどんなゲーム?」とたずねたとしましょう。
そうすると、聞かれた人の多くは「これはRPGだよ」とか、
「これはシューティングゲームだよ」といったように、
どういうタイプのゲームなのかをまず答えるでしょう。
そうすることで、聞いた側も「あぁ、おおよそその方向性のゲームなのだな」
と理解でき、そのゲームをプレイするかどうかの大きな手掛かりにできます。
さらに「このゲームはドラクエに近い」とか、
「このゲームはゼルダの伝説に近い」みたいに固有名詞付きで言われれば、
そのイメージはより明確なものになるでしょう。
これは様々なロックに触れるうえでも同様だと言えます。
「これはスラッシュメタルですよ」「これはパンクロックですよ」、
というふうに音のタイプを説明すると、イメージがしやすくなり、
実際に音を聴いたときにも「なるほどこういう音か」と解釈が容易になります。
さらに「このバンドはLed ZeppelinとBlack Sabbathの影響を受けてる」
のように固有名詞で聞くと、そのイメージはより明確になるでしょう。
ただし、ゲームと違ってロックではいくぶん弱点を含むのも事実です。
まず第一にジャンルがあまりに細分化されすぎているうえに、
各々のジャンルについてよく知らない人のほうが多数派なため、
「これはプログレですよ」とか言っても、
これからロックを聴き始めようとしている人には通じません。
かといって、「プログレとは何か」を説明しようとすると、
時代背景や成立の流れまで含めたりすると長くなりすぎるなど、
ジャンルの情報を提供しても理解してもらえることに難しさがあります。
これはバンド名の固有名詞を挙げて説明する場合はさらに問題になります。
すでにそのバンドを聴いている人にしか理解ができないですからね。
そして何より厄介なのが、ゲームの分類と比べて、
音楽のジャンルの分類はその境界線がかなりの曖昧さを含んでいます。
「AのバンドもBのバンドもどっちも同じジャンルなの?」とか、
「Aのバンドはこの2つのどちらのジャンルになるの?」とか、
ゲームのジャンルほどスパッと切れない難しさがあります。
そうすると、やはりロックのジャンル分けは一長一短に見えます。
それでもあえてジャンルで語ることの意義はいったい何なのでしょう。
◎都市が集まって文化を中心に国を作るイメージでとらえる
ロックの歴史を見ていくと、音楽は決して単発でポツポツ生まれてはいないのです。
ある時代に「こういう方向性の音楽を作るべきではないだろうか」
と考えるミュージシャンが同時多発的に表れ、
それぞれの人達が似た方向を向いて音楽を作り、
それが一つの音楽文化を形成していくという経緯があることが、
ロックの歴史を見ていくと非常にはっきりと伝わってきます。
この事実を踏まえると、
「この都市とあの都市などが集まって、この国はできたんですよ」
と語ることであったり、
「この都市はこの国が成立する経緯の中で生まれたんですよ」
と見ることが意義を持ってきます。
「ジャンル」とだけ聞くと、まるで本来は関係ない別々の都市を
無理やり「ジャンル」という枠でくくっているように聞こえます。
しかし実はそうではなく、様々なバンドが似通った目標を持って
新たなミュージックシーンを形成することでジャンルが成立しているのです。
なので、実は私が「ジャンル」として語っているのは、
本当は「(時代なども踏まえた)ミュージックシーン」のことなのです。
このようにバンドは決して単体で存在しているのではなく、
「様々な都市が似通った目標や文化背景を持って成立し国を形成した」
というふうにとらえると、1つの都市(=バンド)に触れたときに
得られるイメージが横の厚みを持ってくることになるのですね。
時代背景も見えてくるし、同じミュージックシーンを形成した
他のバンドも聴くことで、国全体のイメージも頭の中にできていきます。
バンドだけをぶつ切りで聴くと、世界中の各都市だけの知識が
バラバラに断片的に頭に入ってくることだけで終わってしまいますが、
ジャンルというかミュージックシーンを意識しながら聴いていくと、
各都市の知識が有機的に結びつき、さらには国もイメージも見えてきて、
まるで「音楽による地図」のようなものがどんどん広がっていくのです。
どんな知識も断片的なつまみ食いでは見えてこないものがあります。
その横の繋がりや、まとまりなどを意識することによって、
知識はネットワークとなり、頭の中に世界地図のように完成します。
ジャンル、すなわちミュージックシーンを考える意義はそこにあります。
◎ジャンルという言葉へのイメージを変えよう
前節で「ジャンルというより、むしろミュージックシーンとして理解しよう」
ということを説明しました。
しかしそうすると、「音のタイプで分類するジャンル」と違って、
ミュージックシーンは時代なども大きく影響してくるはずで、
ではジャンルの分類も時代によって変えるべきなのか、
という問いが出てくることになります。
その答えですが、私は迷わず「Yes」と答えます。
私としては「ジャンルはむしろミュージックシーンを指す言葉であり、
たとえ音が近くあっても、時代やミュージックシーンが異なるのであれば、
また別のジャンル名をつけたほうがいい」というスタンスでいます。
たとえば「サイケデリックロック」と言えば、
自分は60年代中盤から70年代前半までの
サイケデリックシーンのバンドのみを指すようにしています。
その時代以降のサイケ風の音楽は「ネオサイケ」のように呼んだり、
「サイケデリック・リバイバル」のように呼ぶほうが適切だと見ています。
全てのジャンルについてそうすることを求めるのは難しいですが、
本来ならこのようにジャンルの名前を聴けば、
「あぁ、あの時代にあのような音で文化を形成したシーンのことだな」
と思い浮かぶ、そのほうが実際にはわかりやすいと考えています。
◎ミュージックシーンをどう理解するか
「ジャンルをミュージックシーンとしてとらえ、
各バンドの音楽をミュージックシーンを意識しつつ聴くことで、
頭の中の音楽の世界の地図が有機的に完成していく」
と述べてきましたが、そのためには大きなハードルがあります。
「それぞれのジャンル、ミュージックシーンがどの時代に
どのように形成されたのか」がわからないと、理解のしようがないことです。
しかし、それについてはこのブログの「ロックの歴史」シリーズで詳しく触れてきました。
あのシリーズはまさに「それぞれのミュージックシーンが
どの時代にどのような背景を持って形成され、それがどのような音楽だったか」
をあらゆる角度から解説したものです。
もちろん洋楽ロックに詳しくない人から見れば、
あまりに固有名詞が多くて全ての理解は非常に困難でしょう。
でもあの文章をいつでも読めるような状態にしておけば、
新たに聴いたバンドのジャンルを見て、
それをあの文章と照らし合わせることでバンドを「断片的な都市」ではなく、
「その都市の背景とどんな国を形成することに寄与したか」が見えてきて、
これによって一気にバンドの理解というものが厚みを持ってくるのですね。
あの「ロックの歴史」の文章を何となく頭の中に入れつつ、
音楽を聴くことで知識を有機的に結び付けやすくなるでしょう。
そのための入口という意味を込めた文章でもあったのですね。
なので、音楽に入るときはミュージックシーンも意識しながら聴くと、
「その音楽が目指したもの」なども見えてきて、より深く楽しめますよ。
ロックの歴史 第6回(2000年代前半まで)
前回の「ロックの歴史 第5回(1990年代前半)」までで、
1991年からのオルタナティブロックムーブメントを紹介しましたが、
その「オルタナティブ後」のシーンの変遷を今回は見ていきます!
オルタナティブロックの流れを受け継ぎつつ、
同時に90年代前半の音楽への反動という側面も持つ、
そうした音楽がいろいろと浮上してくることになります!
-------------
Nirvanaの大きなヒットは、それまでアメリカではあまり広がることのなかった、パンクを直接的なルーツとするバンドが強く認知されたことでもあり、パンク色の強いサウンドが受け入れられやすくなる素地を作ったという側面も持っていた。その一方で、グランジやオルタナティブロックの隆盛によって、メインストリームの音楽シーンがダークでシリアスなムードに覆われることとなったため、その反動としてポップで明るい曲調を求めるようなニーズも徐々に高まりつつあった。
そうした流れの中から、グランジからの影響を一定程度受けながらも、ポップで受け入れやすさを持ったパンクバンドが90年代中期からアメリカで浮上してくることとなる。Green Day[グリーン・デイ]のヒットを皮切りに、The Offspring[オフスプリング]、Rancid[ランシド]などのバンドがヒットを飛ばしていく。また90年代後半から2000年代にかけて、新たにBlink-182[ブリンク182]やSum 41[サム41]などのバンドがシーンを活性化させていった。パンクロックはもともと社会的でシリアスなテーマを取り入れることが多かったが、これらのバンドはもっと楽観的なテーマ性を持っていたのも大きな特徴であった。そのため、従来のパンクファンからは嫌われることも少なくなかった。これらのバンドはポップパンク(Pop Punk)と呼ばれることになる。ただし、Green Dayは後に"American Idiot"(アメリカン・イディオット)で社会的なテーマを大きく扱うなど、つねにポップなテーマだけを維持していたわけではなかった。
また、イギリスでもオルタナティブロックの波は訪れてはいたものの、グランジはアメリカほど強く受け入れられていたわけではなかった。そうした中からThe Beatlesを代表とする60年代のイギリスのロックとパンクロックなどをミックスし、オルタナティブな要素を持ちながらイギリス的なポップ感覚を持ち合わせたサウンドとして、ブリットポップ(Britpop)と呼ばれるジャンルが浮上してくる。その最大の立役者となったのはOasis[オアシス]で、リリースしたアルバムが続けざまにイギリスで巨大なセールスを記録していき、さらにBlur[ブラー]やSuede[スウェード]やPulp[パルプ]といったバンドもヒットを飛ばしていった。この時期はアメリカとイギリスのシーンの乖離が激しく、グランジがイギリスでそれほど受け入れられなかった一方で、ブリットポップもまたアメリカではそれほど浸透することはなかった。
ブリットポップではないものの、イギリスではRadiohead[レディオヘッド]が革新的な音楽を模索する動きを見せていた。彼らの3rdアルバムである"OK Computer"(オーケー・コンピューター)は極めて高い評価を受け、エレクトロニカの要素を取り入れていくバンドが増える大きなきっかけを生み出した。
しばしば1994年に起きたNirvanaのカート・コバーンの死去をもってグランジムーブメントが終息したと言われるが、実際のところはそれ以後もグランジの勢いは少なからず維持されていた。Pearl Jam、Soundgarden、Stone Temple Pilots、The Smashing Pumpkinsなどの主要なバンドはその後も大きなヒットを飛ばしており、また新たなバンドとしてイギリス出身のBush[ブッシュ]やオーストラリア出身のSilverchair[シルヴァーチェアー]などが注目を集めていた。また、カート・コバーンの妻であるコートニー・ラヴによるHole[ホール]もカートの死後に大きな成功を収めている。
一方で1996年あたりになると、グランジそのものといった音を鳴らすバンドの数は減っていき、そのかわりに「グランジ直系のサウンドではあるものの、歌モノとしての要素が強まっている」バンドがシーンに数多く浮上してくることになる。その最大のきっかけとなったのはCreed[クリード]であろう。Creedはいかにもグランジ直系といったサウンドで、もし90年代初期に登場していればほぼ間違いなくグランジにくくられたと言えるような音楽性を持っていた。その音楽性はPearl JamとStone Temple Pilotsに非常に近く、そこにAlice in ChainsとMetallicaの91年のアルバムをミックスしたような、典型的な90年代ヘヴィロックサウンドであった。このCreedのヒット以来、グランジ直系のサウンドも「グランジ」そのものとは呼ばれることはほとんどなくなり、ポストグランジ(Post-Grunge)の中にくくられることが一般的になっていく。こうした流れからは、Nickelback[ニッケルバック]、Staind[ステインド]、3 Doors Down[スリー・ドアーズ・ダウン]、Puddle of Mudd[パドル・オブ・マッド]などが浮上してくる。90年代中期までもLiveやCollective Soulなど、ポストグランジと呼ばれるバンドはあったが、Creed以降はジャンル名こそ同じであるものの、その性質は大幅に変化したと言っていいだろう。
また、一方で90年代中期までのポストグランジをさらにポップ化したようなサウンドも浮上してくる。その代表格として挙げられるのがMatchbox Twenty[マッチボックス・トゥエンティ]である。彼らのヒットによって、ポストグランジは「グランジ直系の歌モノ系ロック」から「グランジの香りがするポップロック」まで幅広いものを指す用語へと変化していくこととなった。このラインからはLifehouse[ライフハウス]などのバンドも浮上している。
また、90年代中期からはオルタナティブメタルバンドであったKornを起点に新たな音楽が浮上してくることになる。Kornは前身バンドがファンクメタルだったこともあり、アルバムを重ねるにつれてラップの要素を高めていくことになるが、このラップとヘヴィな重低音サウンドをミックスしたスタイルが支持を集めていくこととなった。こうしたサウンドはニューメタル(Nu Metal)やラップメタル(Rap Metal)と呼ばれるようになり、Limp Bizkit[リンプ・ビズキット]の登場に伴って、一気にメインストリームの中心へと躍り出ていくことになった。さらにSlipknot[スリップノット]やLinkin Park[リンキン・パーク]などもこのラインから浮上してくる。この時期のヘヴィロックはポストグランジ、ニューメタル、オルタナティブメタルなどが混在しており、しかもそれぞれの境界も曖昧であった。たとえばStaindやGodsmack[ゴッドスマック]などはポストグランジであるとともに、ニューメタルとしても語られることがあった。また、ラップとメタルの融合はファンクメタルでも行われていたが、それらがよりダイレクトな形でニューメタルに取り込まれたこともあり、ファンクメタルはその後急速に収束していくこととなった。
こうしてダークなサウンドではありながらもエンターテインメント色が強いニューメタルや、グランジ本来の激しさを失ってしまったポストグランジがシーンの中心を占めるようになったことに対して強い不満をおぼえる動きも表面化してくることになる。90年代後期頃からグランジやパンクのストレートな攻撃性を受け継ぎ、60年代ガレージロックのような荒々しさを内包したガレージロックリバイバル(Garage Rock Revival)/ポストパンクリバイバル(Post-Punk Revival)といった動きが浮上してくる。The White Stripes[ホワイト・ストライプス]を先頭にThe Strokes[ストロークス]、The Libertines[リバティーンズ]、Jet[ジェット]などのバンドがこの中から浮上してくることとなった。
--------------
1991年からのオルタナティブロックムーブメントによって、
音楽シーン全体がシリアスでダークなムードに覆われましたが、
そうした流れを受け継ぎつつもいろいろな変化が起きてきました!
さて、それでは2000年代以降はどうなっていくのかということですが、
実はこの「ロックの歴史」シリーズは今回で終わりだったりします;
というのも、これ以降のロックのシーンの変遷をあまり詳しく追ってなくて、
流れをイマイチ把握しきれていないというのが最大の理由です;
いずれこのあたりの時代についても把握できれば記事にしたいですが、
とりあえずこれで1960年代から2000年代の始まりまでは紹介できたので、
これでそれなりに歴史の流れを読み取ることはできるかなと思います!
今後もここで紹介した様々なロックのスタイルに関する記事を書いていくので、
この「ロックの歴史」シリーズと合わせて読んでくださると幸いです!
【関連記事】
・ロックの歴史 第6回(2000年代前半まで)
・ロックの歴史 第5回(1990年代前半)
・ロックの歴史 第4回(1980年代のアンダーグラウンドシーン)
・ロックの歴史 第3回(1980年代のメインストリームシーン)
・ロックの歴史 第2回(1970年代)
・ロックの歴史 第1回(1960年代)
1991年からのオルタナティブロックムーブメントを紹介しましたが、
その「オルタナティブ後」のシーンの変遷を今回は見ていきます!
オルタナティブロックの流れを受け継ぎつつ、
同時に90年代前半の音楽への反動という側面も持つ、
そうした音楽がいろいろと浮上してくることになります!
-------------
◎ポップパンクの浮上とイギリスにおけるブリットポップ(90年代中盤)
Nirvanaの大きなヒットは、それまでアメリカではあまり広がることのなかった、パンクを直接的なルーツとするバンドが強く認知されたことでもあり、パンク色の強いサウンドが受け入れられやすくなる素地を作ったという側面も持っていた。その一方で、グランジやオルタナティブロックの隆盛によって、メインストリームの音楽シーンがダークでシリアスなムードに覆われることとなったため、その反動としてポップで明るい曲調を求めるようなニーズも徐々に高まりつつあった。
そうした流れの中から、グランジからの影響を一定程度受けながらも、ポップで受け入れやすさを持ったパンクバンドが90年代中期からアメリカで浮上してくることとなる。Green Day[グリーン・デイ]のヒットを皮切りに、The Offspring[オフスプリング]、Rancid[ランシド]などのバンドがヒットを飛ばしていく。また90年代後半から2000年代にかけて、新たにBlink-182[ブリンク182]やSum 41[サム41]などのバンドがシーンを活性化させていった。パンクロックはもともと社会的でシリアスなテーマを取り入れることが多かったが、これらのバンドはもっと楽観的なテーマ性を持っていたのも大きな特徴であった。そのため、従来のパンクファンからは嫌われることも少なくなかった。これらのバンドはポップパンク(Pop Punk)と呼ばれることになる。ただし、Green Dayは後に"American Idiot"(アメリカン・イディオット)で社会的なテーマを大きく扱うなど、つねにポップなテーマだけを維持していたわけではなかった。
また、イギリスでもオルタナティブロックの波は訪れてはいたものの、グランジはアメリカほど強く受け入れられていたわけではなかった。そうした中からThe Beatlesを代表とする60年代のイギリスのロックとパンクロックなどをミックスし、オルタナティブな要素を持ちながらイギリス的なポップ感覚を持ち合わせたサウンドとして、ブリットポップ(Britpop)と呼ばれるジャンルが浮上してくる。その最大の立役者となったのはOasis[オアシス]で、リリースしたアルバムが続けざまにイギリスで巨大なセールスを記録していき、さらにBlur[ブラー]やSuede[スウェード]やPulp[パルプ]といったバンドもヒットを飛ばしていった。この時期はアメリカとイギリスのシーンの乖離が激しく、グランジがイギリスでそれほど受け入れられなかった一方で、ブリットポップもまたアメリカではそれほど浸透することはなかった。
ブリットポップではないものの、イギリスではRadiohead[レディオヘッド]が革新的な音楽を模索する動きを見せていた。彼らの3rdアルバムである"OK Computer"(オーケー・コンピューター)は極めて高い評価を受け、エレクトロニカの要素を取り入れていくバンドが増える大きなきっかけを生み出した。
◎ポストグランジへの移行とニューメタルの勃興(90年代後半から2000年代前半)
しばしば1994年に起きたNirvanaのカート・コバーンの死去をもってグランジムーブメントが終息したと言われるが、実際のところはそれ以後もグランジの勢いは少なからず維持されていた。Pearl Jam、Soundgarden、Stone Temple Pilots、The Smashing Pumpkinsなどの主要なバンドはその後も大きなヒットを飛ばしており、また新たなバンドとしてイギリス出身のBush[ブッシュ]やオーストラリア出身のSilverchair[シルヴァーチェアー]などが注目を集めていた。また、カート・コバーンの妻であるコートニー・ラヴによるHole[ホール]もカートの死後に大きな成功を収めている。
一方で1996年あたりになると、グランジそのものといった音を鳴らすバンドの数は減っていき、そのかわりに「グランジ直系のサウンドではあるものの、歌モノとしての要素が強まっている」バンドがシーンに数多く浮上してくることになる。その最大のきっかけとなったのはCreed[クリード]であろう。Creedはいかにもグランジ直系といったサウンドで、もし90年代初期に登場していればほぼ間違いなくグランジにくくられたと言えるような音楽性を持っていた。その音楽性はPearl JamとStone Temple Pilotsに非常に近く、そこにAlice in ChainsとMetallicaの91年のアルバムをミックスしたような、典型的な90年代ヘヴィロックサウンドであった。このCreedのヒット以来、グランジ直系のサウンドも「グランジ」そのものとは呼ばれることはほとんどなくなり、ポストグランジ(Post-Grunge)の中にくくられることが一般的になっていく。こうした流れからは、Nickelback[ニッケルバック]、Staind[ステインド]、3 Doors Down[スリー・ドアーズ・ダウン]、Puddle of Mudd[パドル・オブ・マッド]などが浮上してくる。90年代中期までもLiveやCollective Soulなど、ポストグランジと呼ばれるバンドはあったが、Creed以降はジャンル名こそ同じであるものの、その性質は大幅に変化したと言っていいだろう。
また、一方で90年代中期までのポストグランジをさらにポップ化したようなサウンドも浮上してくる。その代表格として挙げられるのがMatchbox Twenty[マッチボックス・トゥエンティ]である。彼らのヒットによって、ポストグランジは「グランジ直系の歌モノ系ロック」から「グランジの香りがするポップロック」まで幅広いものを指す用語へと変化していくこととなった。このラインからはLifehouse[ライフハウス]などのバンドも浮上している。
また、90年代中期からはオルタナティブメタルバンドであったKornを起点に新たな音楽が浮上してくることになる。Kornは前身バンドがファンクメタルだったこともあり、アルバムを重ねるにつれてラップの要素を高めていくことになるが、このラップとヘヴィな重低音サウンドをミックスしたスタイルが支持を集めていくこととなった。こうしたサウンドはニューメタル(Nu Metal)やラップメタル(Rap Metal)と呼ばれるようになり、Limp Bizkit[リンプ・ビズキット]の登場に伴って、一気にメインストリームの中心へと躍り出ていくことになった。さらにSlipknot[スリップノット]やLinkin Park[リンキン・パーク]などもこのラインから浮上してくる。この時期のヘヴィロックはポストグランジ、ニューメタル、オルタナティブメタルなどが混在しており、しかもそれぞれの境界も曖昧であった。たとえばStaindやGodsmack[ゴッドスマック]などはポストグランジであるとともに、ニューメタルとしても語られることがあった。また、ラップとメタルの融合はファンクメタルでも行われていたが、それらがよりダイレクトな形でニューメタルに取り込まれたこともあり、ファンクメタルはその後急速に収束していくこととなった。
こうしてダークなサウンドではありながらもエンターテインメント色が強いニューメタルや、グランジ本来の激しさを失ってしまったポストグランジがシーンの中心を占めるようになったことに対して強い不満をおぼえる動きも表面化してくることになる。90年代後期頃からグランジやパンクのストレートな攻撃性を受け継ぎ、60年代ガレージロックのような荒々しさを内包したガレージロックリバイバル(Garage Rock Revival)/ポストパンクリバイバル(Post-Punk Revival)といった動きが浮上してくる。The White Stripes[ホワイト・ストライプス]を先頭にThe Strokes[ストロークス]、The Libertines[リバティーンズ]、Jet[ジェット]などのバンドがこの中から浮上してくることとなった。
--------------
1991年からのオルタナティブロックムーブメントによって、
音楽シーン全体がシリアスでダークなムードに覆われましたが、
そうした流れを受け継ぎつつもいろいろな変化が起きてきました!
さて、それでは2000年代以降はどうなっていくのかということですが、
実はこの「ロックの歴史」シリーズは今回で終わりだったりします;
というのも、これ以降のロックのシーンの変遷をあまり詳しく追ってなくて、
流れをイマイチ把握しきれていないというのが最大の理由です;
いずれこのあたりの時代についても把握できれば記事にしたいですが、
とりあえずこれで1960年代から2000年代の始まりまでは紹介できたので、
これでそれなりに歴史の流れを読み取ることはできるかなと思います!
今後もここで紹介した様々なロックのスタイルに関する記事を書いていくので、
この「ロックの歴史」シリーズと合わせて読んでくださると幸いです!
【関連記事】
・ロックの歴史 第6回(2000年代前半まで)
・ロックの歴史 第5回(1990年代前半)
・ロックの歴史 第4回(1980年代のアンダーグラウンドシーン)
・ロックの歴史 第3回(1980年代のメインストリームシーン)
・ロックの歴史 第2回(1970年代)
・ロックの歴史 第1回(1960年代)
にゃんこが旅立ってから2年が経ちました
17年飼っていたにゃんこが空に旅立ってから2年が経ちました。
今年はこの記事を書くべきかどうか少し迷ったのですよね。
どうしても今は母のことで頭が一杯になっていますし、
その中でにゃんこのことをどう語れるのかなと思って、
結果的に母の話にばかりなっても意味がないということで、
「ちゃんとした記事が書けるかな」と迷いがあったのですね。
ただ今日になってこの記事について頭を巡らせているうち、
言葉にしたいものがいくつかポンポンと思いついてきたので、
「じゃあそれで記事にしよう」というふうになりました。
自分は他の人以上に金魚さんやにゃんこへの思い入れが強いというか、
この子達が亡くなったことを強く引きずっているところがありますが、
それはこの子達が自分にとって大きな「死なない理由」だったからなのですよね。
自分はもう根幹の人生観の部分において、
「生きていることには意味はなくて、
自分が生きていなくても特に何も変わらない」
と思っているのですが、そんな中でも金魚さんやにゃんこは
「でもこの子達は自分のことを純粋に必要としてくれるし、
自分がいなくなるとこの子達は生きていけなくなるんだよな」
と「生き続けておく理由」になってくれていたのですよね。
その自覚があったから、失うことがものすごく怖かったし、
にゃんこさんを失ってから強烈な虚無感に覆われ続けたのですよね。
その問題自体は何も解決はしていないのですが、
まぁまだ自分としてやっておきたいことはいろいろありますし、
にゃんこがいたときのような確固たる「死なない理由」はないのですが、
そうしたものを探している中でその理由が見つかるかもしれないですし、
自分の中で「もうやるべきことは何もないかな」と思うまでは
フラフラしながらも何とかやっていくだろうとは思っています。
一方でにゃんこを失ったことで生じていた強烈な虚無感は
今年5月の巨大な転落から回復して以降はマシになった感覚はあります。
昨年のこの日の記事を見ると、その虚無感に覆われてる感じが強いですが、
今年は特にそういうこともなく、にゃんこを思い出しても辛くなるというよりは
「あの子はほんと面白かったよなぁ」と楽しい思い出が出てくる感じですね。
なので、その点については一歩前に進んだと言っていいのでしょう。
自分がにゃんこを失ったことへの辛い気持ちが解消されてきて、
楽しかった日々を思い起こせるようになった大きなきっかけの一つは
最近とあるにゃんこのyoutubeチャンネルを見てるのが大きいですね。
そのにゃんこはもう超をいくらつけても足りないほどの甘えん坊で、
その子を見てると「あぁ、うちの子もほんと甘えん坊だったなぁ」って、
うちの子がくれた楽しかった日々をいい意味でよみがえらせてくれるのですよね!
いろんな人のコメントとかを見てると、甘えん坊のにゃんこもいれば、
やはり一般に思われるような甘えないタイプのにゃんこもいるようで、
それを思うとうちの子がものすごい甘えん坊だったのは
すごく幸せなことだったんだなというふうに思いますね。
甘えん坊のにゃんこって、本当にかわいいんですよ。
「猫は甘えない」なんてのは本当に全く違っていて、
でも犬の甘え方のようなくどさはあまりないというか、
甘えん坊の猫の甘え方ってものすごくストレートなのですよね。
足音に反応してストーニャーしてくるのは定番中の定番ですし、
こちらの行動が終わるのを見計らってなでなでを催促したり、
まぁもう思い出すだけでかわいさがあふれかえってきますね。
そのチャンネルのおかげで、
「あぁやっぱり甘えん坊のにゃんこって最高だな」と
にゃんこの良さを再確認できています。

こちらは今日の日に合わせて買ってきたアレンジフラワーです。
もちろんこれはにゃんこに捧げるためのものですね。
数日前は花を買ってくるかどうか少し迷いもあったのですが、
やっぱりこの日は花で彩ってあげたいというのがありますね。
なので、買ってきて良かったなと思っています。
自分にとってにゃんこの特別な日はずっと
保護して家に連れて帰ってきた9月8日だったのですが、
やはり旅立って以降は命日のほうが大事になってきますね。
一緒に暮らしていた頃は9月8日が近づくとそわそわしてきて、
「よし、ことしも周年記念日を一緒に過ごせたぞ」
という感じだったのですが、
やはり空に旅立って以降はその感じ方は変わってきますね。
そのかわり、この10月22日はすごく大事な日になりました。
これからも「あいつはかわいかったなぁ」と思っていってあげたいですね。
今年はこの記事を書くべきかどうか少し迷ったのですよね。
どうしても今は母のことで頭が一杯になっていますし、
その中でにゃんこのことをどう語れるのかなと思って、
結果的に母の話にばかりなっても意味がないということで、
「ちゃんとした記事が書けるかな」と迷いがあったのですね。
ただ今日になってこの記事について頭を巡らせているうち、
言葉にしたいものがいくつかポンポンと思いついてきたので、
「じゃあそれで記事にしよう」というふうになりました。
自分は他の人以上に金魚さんやにゃんこへの思い入れが強いというか、
この子達が亡くなったことを強く引きずっているところがありますが、
それはこの子達が自分にとって大きな「死なない理由」だったからなのですよね。
自分はもう根幹の人生観の部分において、
「生きていることには意味はなくて、
自分が生きていなくても特に何も変わらない」
と思っているのですが、そんな中でも金魚さんやにゃんこは
「でもこの子達は自分のことを純粋に必要としてくれるし、
自分がいなくなるとこの子達は生きていけなくなるんだよな」
と「生き続けておく理由」になってくれていたのですよね。
その自覚があったから、失うことがものすごく怖かったし、
にゃんこさんを失ってから強烈な虚無感に覆われ続けたのですよね。
その問題自体は何も解決はしていないのですが、
まぁまだ自分としてやっておきたいことはいろいろありますし、
にゃんこがいたときのような確固たる「死なない理由」はないのですが、
そうしたものを探している中でその理由が見つかるかもしれないですし、
自分の中で「もうやるべきことは何もないかな」と思うまでは
フラフラしながらも何とかやっていくだろうとは思っています。
一方でにゃんこを失ったことで生じていた強烈な虚無感は
今年5月の巨大な転落から回復して以降はマシになった感覚はあります。
昨年のこの日の記事を見ると、その虚無感に覆われてる感じが強いですが、
今年は特にそういうこともなく、にゃんこを思い出しても辛くなるというよりは
「あの子はほんと面白かったよなぁ」と楽しい思い出が出てくる感じですね。
なので、その点については一歩前に進んだと言っていいのでしょう。
自分がにゃんこを失ったことへの辛い気持ちが解消されてきて、
楽しかった日々を思い起こせるようになった大きなきっかけの一つは
最近とあるにゃんこのyoutubeチャンネルを見てるのが大きいですね。
そのにゃんこはもう超をいくらつけても足りないほどの甘えん坊で、
その子を見てると「あぁ、うちの子もほんと甘えん坊だったなぁ」って、
うちの子がくれた楽しかった日々をいい意味でよみがえらせてくれるのですよね!
いろんな人のコメントとかを見てると、甘えん坊のにゃんこもいれば、
やはり一般に思われるような甘えないタイプのにゃんこもいるようで、
それを思うとうちの子がものすごい甘えん坊だったのは
すごく幸せなことだったんだなというふうに思いますね。
甘えん坊のにゃんこって、本当にかわいいんですよ。
「猫は甘えない」なんてのは本当に全く違っていて、
でも犬の甘え方のようなくどさはあまりないというか、
甘えん坊の猫の甘え方ってものすごくストレートなのですよね。
足音に反応してストーニャーしてくるのは定番中の定番ですし、
こちらの行動が終わるのを見計らってなでなでを催促したり、
まぁもう思い出すだけでかわいさがあふれかえってきますね。
そのチャンネルのおかげで、
「あぁやっぱり甘えん坊のにゃんこって最高だな」と
にゃんこの良さを再確認できています。

こちらは今日の日に合わせて買ってきたアレンジフラワーです。
もちろんこれはにゃんこに捧げるためのものですね。
数日前は花を買ってくるかどうか少し迷いもあったのですが、
やっぱりこの日は花で彩ってあげたいというのがありますね。
なので、買ってきて良かったなと思っています。
自分にとってにゃんこの特別な日はずっと
保護して家に連れて帰ってきた9月8日だったのですが、
やはり旅立って以降は命日のほうが大事になってきますね。
一緒に暮らしていた頃は9月8日が近づくとそわそわしてきて、
「よし、ことしも周年記念日を一緒に過ごせたぞ」
という感じだったのですが、
やはり空に旅立って以降はその感じ方は変わってきますね。
そのかわり、この10月22日はすごく大事な日になりました。
これからも「あいつはかわいかったなぁ」と思っていってあげたいですね。
入院中の母に面会してきました
一昨日に病院の看護師さんから
「むくみが起きているので、気を付けながら体勢を少し変えたりします」
と連絡があり、また昨日に担当の医師から
「血液検査の結果から重い貧血なので、輸血をしようと思うので、
輸血の同意書を書くために病院に来てほしい」
と連絡があったので、急遽病院へと足を運んできました。
そして病院で輸血の同意書を書き、その際に看護師さんに状態を聞き、
「状態は少しずつ落ちている」ということと、
「尿があまり出なくなっており、それがむくみにつながっている」
ということを伝えられました。
面会は本来事前にネットで空いている日に予約しないといけないのですが、
以前に「面会できるようになった」と連絡を受けたときに、
「前日や当日に希望を伝えてくれても面会できます」と言われていたので、
無理を承知でそこで「面会することは可能ですか」と尋ねてみました。
すると特別に許可が出たので、病室に行って母と面会してきました。
そこで会った母は自分が想像しているよりも遥かに悪い状態でした。
目は開いているものの、意識は完全にどこかに飛んでしまっていて、
父と自分が病室に入ってきたことも全く認識できず、
話しかけても何の反応もなく、何も認識できていないような状態でした。
以前の連絡で「意識がはっきりしている日とそうでない日でムラがある」
とは聞いていて、自分はそれをコロナにかかっていた頃の
反応が鈍い状態がまだ治り切っていないのかなと思っていましたが、
そのときよりも遥かに悪く、意識がそこにないような感覚でした。
ただいわゆる昏睡状態とも違っていて、
「起きてはいるようだけど意識が飛んでいる」ような感じでした。
意識がもうろうとした状態が極限まで行っているような感じです。
そして手は普段の2倍ぐらいはあるほどに膨らんでしまっていて、
ひざのあたりも大きな水ぶくれがあるような状態になっていました。
「むくみ」という言葉で想像するレベルよりも遥かに上のものでした。
また普段は酸素吸入は鼻につけるカニューラというもので行っていますが、
このときはもうカニューラではなく酸素マスク的なものになっていました。
この母の状態は「たしかに呼吸はしているし心臓も動いているのだろうけど、
これは果たしてまだ生きていると言っていいのだろうか」と迷うほどのもので、
「これはもう良くてあと数週間だろうし、退院に至る可能性はもうほぼゼロで、
はっきりとした意識を取り戻す可能性もないだろう」と確信するものでした。
入院直後で何かの明確な病気があって、そこで意識混濁状態であるなら、
「今の病気が治れば回復する可能性もある」と思うこともできますが、
入院の直接の原因だったコロナと高度脱水はすでに治っているはずで、
そうでありながら意識などの回復が見られず、むしろ状態の悪化が続き、
尿が出にくくなってるなどの腎機能などにも影響が出ているような
症状が出ていることなどを考えると、回復を期待するのは非常に困難です。
この母の状態を見て、これまでの病院からの連絡などを聞いて、
「なぜだろう?」と感じていたことの全部が頭の中で繋がりました。
「面会ができるようになった」と伝えられたときに、
本来はダメなはずの前日や当日での連絡でもいいと言われたこと、
そこでむしろ病院の側がいやに面会を促すような言い方をしたこと、
これは状態が非常に悪く、いつ何があってもおかしくないがゆえの特別措置だったのでしょう。
そしてむくみの連絡を受けたとき、
自分は最初「なぜむくみぐらいのことで連絡を?」と思ったのですが、
母の姿を見て「あぁ、連絡が必要なほどのむくみだったのか」と納得できました。
「貧血なので輸血」という話を聞いたときも、
「輸血が必要なほどに重度の貧血?」という疑問が湧きましたが、
まさしくそれが必要なぐらいに血液の状態が悪いのでしょう。
面会の直前に「家から病院までかかる時間はどれくらいなのか」
「いつでも連絡を受け取れる状態にしておいてください」と言われたのも、
もういつ亡くなる瞬間が来てもおかしくないからだったのでしょう。
入院する前から要介護5で、入院するたびにいつも状態が一段階落ちることから、
ある程度の危険性があることは理解していましたが、
もうすでに「あと1回入院したらアウト」の状態だったのでしょうね。
ましてや肺に持病のある人のコロナ感染だからなおさらだったのでしょう。
すでにある程度の覚悟は持ってはいましたが、
実際に母に会って「もうほぼ間違いなく近いうちにその日が来る」
ことは完全に確信させられました。
ある意味ではもうすでに心の中で死を受け入れているに近い状態で、
「意識がはっきりしていた時期の母に会えたのは入院直前が最後だったのだな」
と飲み込むところに達しています。
病院からは余命がどれくらいということは聞いてないですが、
おそらくはそう遠くない時期に悲しい報告をすることになりそうです。
「むくみが起きているので、気を付けながら体勢を少し変えたりします」
と連絡があり、また昨日に担当の医師から
「血液検査の結果から重い貧血なので、輸血をしようと思うので、
輸血の同意書を書くために病院に来てほしい」
と連絡があったので、急遽病院へと足を運んできました。
そして病院で輸血の同意書を書き、その際に看護師さんに状態を聞き、
「状態は少しずつ落ちている」ということと、
「尿があまり出なくなっており、それがむくみにつながっている」
ということを伝えられました。
面会は本来事前にネットで空いている日に予約しないといけないのですが、
以前に「面会できるようになった」と連絡を受けたときに、
「前日や当日に希望を伝えてくれても面会できます」と言われていたので、
無理を承知でそこで「面会することは可能ですか」と尋ねてみました。
すると特別に許可が出たので、病室に行って母と面会してきました。
そこで会った母は自分が想像しているよりも遥かに悪い状態でした。
目は開いているものの、意識は完全にどこかに飛んでしまっていて、
父と自分が病室に入ってきたことも全く認識できず、
話しかけても何の反応もなく、何も認識できていないような状態でした。
以前の連絡で「意識がはっきりしている日とそうでない日でムラがある」
とは聞いていて、自分はそれをコロナにかかっていた頃の
反応が鈍い状態がまだ治り切っていないのかなと思っていましたが、
そのときよりも遥かに悪く、意識がそこにないような感覚でした。
ただいわゆる昏睡状態とも違っていて、
「起きてはいるようだけど意識が飛んでいる」ような感じでした。
意識がもうろうとした状態が極限まで行っているような感じです。
そして手は普段の2倍ぐらいはあるほどに膨らんでしまっていて、
ひざのあたりも大きな水ぶくれがあるような状態になっていました。
「むくみ」という言葉で想像するレベルよりも遥かに上のものでした。
また普段は酸素吸入は鼻につけるカニューラというもので行っていますが、
このときはもうカニューラではなく酸素マスク的なものになっていました。
この母の状態は「たしかに呼吸はしているし心臓も動いているのだろうけど、
これは果たしてまだ生きていると言っていいのだろうか」と迷うほどのもので、
「これはもう良くてあと数週間だろうし、退院に至る可能性はもうほぼゼロで、
はっきりとした意識を取り戻す可能性もないだろう」と確信するものでした。
入院直後で何かの明確な病気があって、そこで意識混濁状態であるなら、
「今の病気が治れば回復する可能性もある」と思うこともできますが、
入院の直接の原因だったコロナと高度脱水はすでに治っているはずで、
そうでありながら意識などの回復が見られず、むしろ状態の悪化が続き、
尿が出にくくなってるなどの腎機能などにも影響が出ているような
症状が出ていることなどを考えると、回復を期待するのは非常に困難です。
この母の状態を見て、これまでの病院からの連絡などを聞いて、
「なぜだろう?」と感じていたことの全部が頭の中で繋がりました。
「面会ができるようになった」と伝えられたときに、
本来はダメなはずの前日や当日での連絡でもいいと言われたこと、
そこでむしろ病院の側がいやに面会を促すような言い方をしたこと、
これは状態が非常に悪く、いつ何があってもおかしくないがゆえの特別措置だったのでしょう。
そしてむくみの連絡を受けたとき、
自分は最初「なぜむくみぐらいのことで連絡を?」と思ったのですが、
母の姿を見て「あぁ、連絡が必要なほどのむくみだったのか」と納得できました。
「貧血なので輸血」という話を聞いたときも、
「輸血が必要なほどに重度の貧血?」という疑問が湧きましたが、
まさしくそれが必要なぐらいに血液の状態が悪いのでしょう。
面会の直前に「家から病院までかかる時間はどれくらいなのか」
「いつでも連絡を受け取れる状態にしておいてください」と言われたのも、
もういつ亡くなる瞬間が来てもおかしくないからだったのでしょう。
入院する前から要介護5で、入院するたびにいつも状態が一段階落ちることから、
ある程度の危険性があることは理解していましたが、
もうすでに「あと1回入院したらアウト」の状態だったのでしょうね。
ましてや肺に持病のある人のコロナ感染だからなおさらだったのでしょう。
すでにある程度の覚悟は持ってはいましたが、
実際に母に会って「もうほぼ間違いなく近いうちにその日が来る」
ことは完全に確信させられました。
ある意味ではもうすでに心の中で死を受け入れているに近い状態で、
「意識がはっきりしていた時期の母に会えたのは入院直前が最後だったのだな」
と飲み込むところに達しています。
病院からは余命がどれくらいということは聞いてないですが、
おそらくはそう遠くない時期に悲しい報告をすることになりそうです。
(クリックしてくださる際にはCtrlキーを押しながらすると非常に楽です。)
テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記
母の病状経過と今後の介護方針
母が入院している病院から現在の病状の経過の連絡がありました。
10月3日に入院してから病院から連絡がなかったので、
どのように病状が推移してるのかわからなかったのですよね。
病状経過の連絡で良かった点と心配な点をまとめると次のようになります。
[良かった点]
・コロナは治った
・隔離の必要が無くなったので大部屋に移ることになった
・短時間の面会もできるようになった
[心配な点]
・意識がはっきりとしているかが日によってムラがある
・呼吸(酸素飽和度)に一定の波がある
・心臓の状態にもちょっと波がある
・急変が起きる可能性もまだ否定できない
トータルとして見ると、入院の直接の原因となった
コロナと高度の脱水状態については治ったと思われますが、
まだ退院して自宅で過ごせる状態にはなっていないと見られます。
急変の可能性がなくはないこと、そしてコロナになる前より
全体的に状態が一段階ほど悪くなっていることを考えるに、
そろそろ寿命というのもありえることは覚悟が必要なのでしょう。
その可能性を頭に入れておくことももちろん大事ではあるのですが、
より大きな課題として立ちはだかるのが
「退院することになったときにどう対処すればいいのか」
という点です。
今回の連絡を受けたときの不安感にはその点もありました。
自分として考えるほぼベストな状態は、
・飲み物を飲んでも特にむせない状態に回復すること
・自分の意思で飲み物が飲めるようになること
・介助すればベッドの横の椅子に移動させられること
の3つなのですよね。
もうすでに要介護5なので、それ以上のことを求めるつもりはないのです。
この3つさえできれば、栄養と水分に関しては
医師から処方される高栄養ドリンクで全て賄えるのです。
なので、生きるうえでの最低限のことは何とかなるのですよね。
ここで入院に至るまでの経緯を振り返ると、
最大の失敗はコロナにかかったことそのものよりも、
脱水への対策が全くもって上手くできなかったことなのです。
コロナによる発熱などで体力や意識が弱まる
→ ベッドの横の椅子への移動やドリンクを飲むことが難しくなる
→ 脱水と低栄養が進む
→ さらに回復が遅れ、意識も弱まることで悪循環に入る
この結果、高度の脱水状態に至って入院せざるを得なくなったのですよね。
そうすると、退院後に最も重要なのは「脱水への対策」になるわけです。
コロナになって以降はドリンクなどを飲むのが難しくなったため、
ゼリーなら何とか飲めることから、それで対処しようとしたのです。
しかしこれは実際にはかなり非現実的な対応でした。
自分の意思でドリンクを飲んだりゼリーを食べたりできる状態ではなかったので、
ゼリーを食べるには、誰かが介助して口に運んであげるしかないわけです。
それで人間が1日に必要とする水分、1.5Lぐらいの水分量を
与えることができるかと言えば、これは非常に難しいわけです。
しかも当時はこちらも脱水に対する意識がかなり低かったため、
実際には1日に200mLの水分ぐらいしか取れていなかったと思います。
意識がボヤッとしていて、体力も落ちてしまっている状態では、
ゼリーを1日1.5Lぐらい摂取させるなんて現実的には難しいのですよね。
なので、退院することになったときに最も不安なのは、
心臓の状態や酸素の状態よりも、意識がはっきりしているかどうかなのですよね。
意識がはっきりしていて、先に触れた3点が何とかできるならば、
水分もカロリーもきちんと取らせることはできるのですが、
それが難しい状態で退院した場合にどう対応するかについては
あらかじめ考えておかないと、こちら側が潰れてしまいかねません。
そのことについて頭の中で整理したところ、対応は次の2つのどちらかになりそうです。
・介護施設に入ってもらって、そこに任せる
・在宅点滴を導入する
母はさみしがりやなので、本当はできるだけ施設には入れたくないのですが、
家にいると脱水になってしまうのが確実視されてしまう状況であるなら、
施設に入れて介護士さんや看護師さんに対応してもらうほうが遥かにいいでしょう。
では、在宅では何ができるか、ということを考えてきたときに、
思いついたのが「在宅で点滴はできないだろうか」ということでした。
これは調べてみると、ちゃんとできるみたいですね。
普通の点滴から、24時間単位での高栄養の点滴も在宅で可能なようです。
点滴が在宅でできるなら、これと高栄養ゼリーなどを組み合わせながら、
在宅で脱水を防ぎつつ最低限の生活をさせることも何とか可能になります。
すでに要介護5なので、介護費用の枠はかなり大きな方ですから、
このあたりの対応も介護保険の中で何とか実行はできるでしょう。
もちろん理想としては意識がはっきりした状態まで回復してからの退院ですが、
やはりそうならない場合の対応策が頭の中できちんと決めておかないと、
こちらの不安感なども増大してしまって動きが取れなくなりますからね。
とりあえず在宅点滴の選択肢があるのを知ることができたのは収穫でした。
このあたりは退院時にケアマネさんや訪問看護師さんと相談しつつ、
回復度合いに合わせてどんな介護計画を立てるかによるでしょうね。
自分達も潰れず、母にも少しでも長生きできるようにさせてあげたいです。
10月3日に入院してから病院から連絡がなかったので、
どのように病状が推移してるのかわからなかったのですよね。
病状経過の連絡で良かった点と心配な点をまとめると次のようになります。
[良かった点]
・コロナは治った
・隔離の必要が無くなったので大部屋に移ることになった
・短時間の面会もできるようになった
[心配な点]
・意識がはっきりとしているかが日によってムラがある
・呼吸(酸素飽和度)に一定の波がある
・心臓の状態にもちょっと波がある
・急変が起きる可能性もまだ否定できない
トータルとして見ると、入院の直接の原因となった
コロナと高度の脱水状態については治ったと思われますが、
まだ退院して自宅で過ごせる状態にはなっていないと見られます。
急変の可能性がなくはないこと、そしてコロナになる前より
全体的に状態が一段階ほど悪くなっていることを考えるに、
そろそろ寿命というのもありえることは覚悟が必要なのでしょう。
その可能性を頭に入れておくことももちろん大事ではあるのですが、
より大きな課題として立ちはだかるのが
「退院することになったときにどう対処すればいいのか」
という点です。
今回の連絡を受けたときの不安感にはその点もありました。
自分として考えるほぼベストな状態は、
・飲み物を飲んでも特にむせない状態に回復すること
・自分の意思で飲み物が飲めるようになること
・介助すればベッドの横の椅子に移動させられること
の3つなのですよね。
もうすでに要介護5なので、それ以上のことを求めるつもりはないのです。
この3つさえできれば、栄養と水分に関しては
医師から処方される高栄養ドリンクで全て賄えるのです。
なので、生きるうえでの最低限のことは何とかなるのですよね。
ここで入院に至るまでの経緯を振り返ると、
最大の失敗はコロナにかかったことそのものよりも、
脱水への対策が全くもって上手くできなかったことなのです。
コロナによる発熱などで体力や意識が弱まる
→ ベッドの横の椅子への移動やドリンクを飲むことが難しくなる
→ 脱水と低栄養が進む
→ さらに回復が遅れ、意識も弱まることで悪循環に入る
この結果、高度の脱水状態に至って入院せざるを得なくなったのですよね。
そうすると、退院後に最も重要なのは「脱水への対策」になるわけです。
コロナになって以降はドリンクなどを飲むのが難しくなったため、
ゼリーなら何とか飲めることから、それで対処しようとしたのです。
しかしこれは実際にはかなり非現実的な対応でした。
自分の意思でドリンクを飲んだりゼリーを食べたりできる状態ではなかったので、
ゼリーを食べるには、誰かが介助して口に運んであげるしかないわけです。
それで人間が1日に必要とする水分、1.5Lぐらいの水分量を
与えることができるかと言えば、これは非常に難しいわけです。
しかも当時はこちらも脱水に対する意識がかなり低かったため、
実際には1日に200mLの水分ぐらいしか取れていなかったと思います。
意識がボヤッとしていて、体力も落ちてしまっている状態では、
ゼリーを1日1.5Lぐらい摂取させるなんて現実的には難しいのですよね。
なので、退院することになったときに最も不安なのは、
心臓の状態や酸素の状態よりも、意識がはっきりしているかどうかなのですよね。
意識がはっきりしていて、先に触れた3点が何とかできるならば、
水分もカロリーもきちんと取らせることはできるのですが、
それが難しい状態で退院した場合にどう対応するかについては
あらかじめ考えておかないと、こちら側が潰れてしまいかねません。
そのことについて頭の中で整理したところ、対応は次の2つのどちらかになりそうです。
・介護施設に入ってもらって、そこに任せる
・在宅点滴を導入する
母はさみしがりやなので、本当はできるだけ施設には入れたくないのですが、
家にいると脱水になってしまうのが確実視されてしまう状況であるなら、
施設に入れて介護士さんや看護師さんに対応してもらうほうが遥かにいいでしょう。
では、在宅では何ができるか、ということを考えてきたときに、
思いついたのが「在宅で点滴はできないだろうか」ということでした。
これは調べてみると、ちゃんとできるみたいですね。
普通の点滴から、24時間単位での高栄養の点滴も在宅で可能なようです。
点滴が在宅でできるなら、これと高栄養ゼリーなどを組み合わせながら、
在宅で脱水を防ぎつつ最低限の生活をさせることも何とか可能になります。
すでに要介護5なので、介護費用の枠はかなり大きな方ですから、
このあたりの対応も介護保険の中で何とか実行はできるでしょう。
もちろん理想としては意識がはっきりした状態まで回復してからの退院ですが、
やはりそうならない場合の対応策が頭の中できちんと決めておかないと、
こちらの不安感なども増大してしまって動きが取れなくなりますからね。
とりあえず在宅点滴の選択肢があるのを知ることができたのは収穫でした。
このあたりは退院時にケアマネさんや訪問看護師さんと相談しつつ、
回復度合いに合わせてどんな介護計画を立てるかによるでしょうね。
自分達も潰れず、母にも少しでも長生きできるようにさせてあげたいです。
(クリックしてくださる際にはCtrlキーを押しながらすると非常に楽です。)
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Nirvana - Come As You Are 歌詞和訳
この洋楽ロックの歌詞対訳コーナーを始めて以来、
ずっと「いずれNirvanaの歌詞対訳をしたい」と言っていましたが、
やっと第4回記事である今回になってNirvanaの和訳に挑戦しました。
自分がずっと和訳をしたいと思っていたNirvanaの曲が
この"Come As You Are"で、ただ自分の和訳の解釈が正しいと言えるのか、
という点に多少の不安がありましたが、当時のカート・コバーンなどの発言から、
適切な解釈ができそうだとの確信に至り、Nirvanaの和訳第1弾に選びました。
「Nirvanaの歌詞対訳をしたい」と思っていた最大の理由は、
日本においてNirvanaのソングライターでありフロントマンであった
カート・コバーンの人となりへの理解があまりに誤解に満ちていると感じていたためです。
英語圏の人達ならリアルタイムにカートの発言を多く聞いていて、
そこからカートの社会的な問題への見解や価値観を理解していたでしょうが、
日本だとそうした情報はどうしても伝わりにくくはなってしまうため、
日本盤のCDについている和訳ぐらいしか情報がないのですよね。
しかし、大抵の場合はCDについてる和訳はひどく雑で、
そこに込められた本当は意図は全然伝わらないのがほとんどです。
しかもカート・コバーンはわざと表面的にわかりにくい歌詞を書いたり、
彼の価値観を理解していないと逆の意味に理解しかねない曲も多いのです。
さらにカートは若くして自殺したこともあって、
変に物語化されて受け止められてしまうことも多く、
生身の彼の生き方や考え方が日本ではあまり伝わってないのですよね。
自分はそのことに対して以前から強い不満を持っていて、
それを変えるためにもカートの人となりや価値観をちゃんと伝えるため、
カートの本来の意図に沿った和訳をしたいと思っていたのです。
日本盤のCDの和訳では、カートは「何だか危ない人」にばかり見えますが、
彼はあえて極端な言葉を使うことがあれど、決してそういう人ではありません。
まずはこの"Come As You Are"の和訳で、多少なりともそれが伝わればと思っています。

この曲はキーフレーズとなっている
"I don't have a gun"という言葉に関しては、
何を意図しているかはけっこう簡単に読むことができます。
しかし問題はそれ以外の部分の歌詞です。
ひたすら矛盾するような複数の要求が投げかけられるわけですが、
これは以下のように様々な解釈を取ることができます。
(1) カートがその相手に矛盾した複数の要求をしている
(2) その相手が(カート以外の)他人から複数の矛盾した要求をされていることの描写
(3) 複数の選択肢を提示し、それをどのように選ぶか委ねている
この疑問を解くのが、この曲に関するカート・コバーン本人と
アルバム"Nevermind"のプロデューサーをしたブッチ・ヴィグの発言です。
カート・コバーンの発言
>about people, and what they're expected to act like.
「これは人々についてのことで、彼らがどのように振る舞うかを期待されてることについての歌だ」
ということが語られている。
すなわち、「誰もが様々な人間から『こう振る舞え』と要求を投げつけられている」
というテーマが含まれていることがここから読み取れます。
これによって歌詞の大半の部分がどのような意図で書かれているかがわかります。
ブッチ・ヴィグの発言
>I think that song is about acceptance, and about misfits
>You're cool no matter how screwed up you are.
>‘Come As You Are’ is an ode to accepting someone for who they are.
「この歌は『受け入れる』ことについての歌であり、社会に適応できない人についてでもある」
「君がどんなに混乱させられていたとしても問題なんてないんだよ」
「'Come As You Are'はあるがままでいたいとする人を受け入れる歌なんだ」
この2人の発言によって、歌詞の読み取り方のピースはきれいに埋まります。
それをもとにしながら、実際の歌詞対訳へと取りかかっていきましょう。
Nirvana - Come As You Are (1991) [Grunge]
Come as you are, as you were
今のおまえのままでいろよ いや、昔のおまえへと戻れよ
As I want you to be
とにかく俺が望むように振る舞ってくれ
As a friend, as a friend
友達のように、友達のようになってくれ
As an old enemy
いや、昔からの敵のようになってくれよ
Take your time, hurry up
ゆっくりしろ いや、急げよ
Choice is yours
どうするかはおまえが選べ
Don't be late, take a rest
遅れるな いや、休憩しろよ
As a friend, as an old memoria
友達のようになれ いや、昔の思い出のようになれよ
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Come doused in mud, soaked in bleach
泥に浸かって黒くなれ いや、漂白剤に浸かって白くなれよ
As I want you to be
とにかく俺が望むようになれよ
As a trend, as a friend
流行り物のようになれ いや、友達のようになれ
As an old memoria
いや、昔の思い出のようになれよ
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
And I swear that I don't have a gun
ああ、誓うよ 俺はおまえに何か要求するつもりなんてないよ
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
そうさ、俺はおまえを責めるつもりなんてないんだ
Memoria
思い出のようになれよ
Memoria
思い出のようになれ
Memoria
思い出のようになれ
Memoria
思い出のようになれ
(No, I don't have a gun)
(気にするな 俺はおまえを責めるつもりなんてないから)
And I swear that I don't have a gun
誓うよ 俺はおまえに何か要求するつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
そうさ、俺はおまえを責めるつもりなんてないんだ
まずこの曲は全体の大きな意味をとらえないといけません。
そのために事前に触れたカート・コバーンとブッチ・ヴィグの発言趣旨をもとに
全体の持つ大きな流れと意味を探っていきましょう。
ヴァースの"Come as ~"と何度も連続して語られている部分は、
「ある人物が多くの他人から様々な要求や期待をぶつけられている」
場面の描写だと解釈することができます。
「今のおまえのままでいろ」、「昔のおまえのようになれ」、
「俺の望むようになれ」などと人によって相反する要求をぶつけられるわけです。
「友達のようになれ」「宿敵のようになれ」もそうですし、
「泥にまみれて黒くなれ」「漂白剤で白くなれ」もそうです。
そしてこうした様々な相反する期待や要求をぶつけられることで、
その人物は疲弊し、社会への適応が難しくなっている状況なわけです。
そこでカートがその人物にこう語りかけるわけです。
「俺は銃なんか持っていないよ(=I don't have a gun)」と。
これはどういうことかと言うと、
「俺はおまえのことを攻撃しようなんて全く考えていない」
ということであり、「俺はおまえを受け止める」という言葉です。
なので、ヴァースとコーラスで場面が切り替わっているのですね。
ヴァースではある人物が他人から要求をぶつけられている場面が書かれ、
コーラスではカートがその人物に対して「受容」の姿勢を示すわけです。
なのでヴァースとコーラスの行間に
「こうしていろんな要求をぶつけられてきたんだろ」
のようなニュアンスが込められていると理解すると読みやすくなるでしょう。
さらにここでタイトルの"Come As You Are"が効いてくるわけです。
「俺はおまえに何も要求する気なんてない。あるがままでいればいい(=come as you are)」と。
カートが言っていた「期待されている人についての歌」という話と、
ブッチ・ヴィグの「そうした人を受け止める歌」という話がきれいに繋がるわけです。
カートは一見すると繋がりが見えにくい歌詞をあえて書きますが、
この曲における大事な2点を踏まえると、一気に解釈がクリアになります。
なので、この曲はカートがNirvanaの中で書いた歌詞の中でも
最も優しさを持ったものであると言ってもいいでしょう。
こうしたカートの側面は日本ではあまり知られてないところですよね。
そしてこの曲の歌詞は、ものすごく90年代らしいとも思わせてくれます。
90年代のミュージシャンは総じて「飾らない」という特徴がありました。
これは派手さや虚飾をアピールしがちだった80年代とは実に対照的です。
そしてこの曲では聴く者に「あるがままでいいんだよ。それを責める気なんてない」
と受け入れる姿勢を示すわけです。
「飾る必要なんてない。そのままでいい。弱くても混乱していてもいい。
俺はそのままで受け入れるよ」と語りかけているわけですね。
そう考えると、まさに90年代的なテーマを内包していることを実感しますね。
この曲を読むうえで重要になってくるのは、やはりasの扱いでしょう。
asは接続詞として、後ろに文の形(節)を取ることもできるし、
as a friendのようにシンプルに名詞を取ることもできます。
細かいことを言えば前者は接続詞で後者は前置詞だと言えますが、
それよりも「asは文の形も名詞も後ろに取ることができる」と理解するのがいいでしょう。
>Come as you are, as you were
そして和訳が最も難しいと感じられがちなのはこの部分でしょう。
asが「~のように」となるのはいいとして、その後ろが「主語+be動詞」だけなので、
慣れていない人はこれをどう解釈すればいいかを迷ってしまうのですよね。
この場合は時制に合わせて「(そのとき)主語がそうであったように」と考えればいいです。
as you wereと過去形なら「あなたがかつてそうだったように」と考え、
as you areと現在形なら「あなたが今そうであるように」と考えることができます。
この文では現在と過去をあえて並べていることから、
「今のおまえのままでいろ」「昔お前のようになれ」と解釈できます。
しかし、単独でcome as you areと出てくると、解釈に幅が生まれます。
というのも、現在形には「普遍的な変わらないもの」というイメージがあるため、
「今に限定した話」ではなく「本質についての話」という意味も持ちえます。
すなわち、「あるがままのおまえでいればいい」という訳にもなります。
タイトルとしてのcome as you areはこちらでとらえるのが適切でしょう。
そう考えると、この曲ではcome as you areという言葉の2つのニュアンスを上手く使っているわけですね。
>Come doused in mud, soaked in bleach
ここは直訳すると「泥の中に浸かれ、漂白剤に浸かれ」となりますが、
これだけでは何が言いたいのかわからず、単なる怖い言葉に見えます。
でもここの趣旨は「泥(=黒)」と「漂白剤(=白)」との対比にあります。
「黒くなれ」と「白くなれ」という要求が同時に浴びせられるという描写ですね。
>As a trend, as a friend
「なぜここで急に流行り物(=trend)が?」と思われるでしょうが、
これは単にtrendとfriendで韻を踏んだ言葉遊びの類いでしょう。
カート・コバーンは意外とこうした言葉遊びをしますからね。
なので、訳についてはあまり深く考えなくていいでしょう。
何の予備知識もなしにこの曲の歌詞を見た人は、
「なんだか矛盾した要求をひたすらぶつけてるわ、泥や漂白剤に浸かれとか言ってるわ、
唐突に銃は持ってないと言いだすわ、なんだかよくわからないけど怖い曲だな」
みたいになりがちですが、実際には怖い曲でも何でもないわけですね。
むしろ「俺はおまえがあるがままでいることを受け入れるよ」という受容の歌なのです。
今回のこの"Come As You Are"の和訳を読むことによって、
カート・コバーンの人となりへのイメージが変わった人もいると思います。
カートはしばしば単語だけを見るとギョッとする歌詞を書く人ですが、
そこに込められた意図を読んで理解すると実は深い言葉が多いのです。
今後もNirvanaのそうした歌詞の姿について伝えていきたいと思います。
ずっと「いずれNirvanaの歌詞対訳をしたい」と言っていましたが、
やっと第4回記事である今回になってNirvanaの和訳に挑戦しました。
自分がずっと和訳をしたいと思っていたNirvanaの曲が
この"Come As You Are"で、ただ自分の和訳の解釈が正しいと言えるのか、
という点に多少の不安がありましたが、当時のカート・コバーンなどの発言から、
適切な解釈ができそうだとの確信に至り、Nirvanaの和訳第1弾に選びました。
◎カート・コバーンの人となり
「Nirvanaの歌詞対訳をしたい」と思っていた最大の理由は、
日本においてNirvanaのソングライターでありフロントマンであった
カート・コバーンの人となりへの理解があまりに誤解に満ちていると感じていたためです。
英語圏の人達ならリアルタイムにカートの発言を多く聞いていて、
そこからカートの社会的な問題への見解や価値観を理解していたでしょうが、
日本だとそうした情報はどうしても伝わりにくくはなってしまうため、
日本盤のCDについている和訳ぐらいしか情報がないのですよね。
しかし、大抵の場合はCDについてる和訳はひどく雑で、
そこに込められた本当は意図は全然伝わらないのがほとんどです。
しかもカート・コバーンはわざと表面的にわかりにくい歌詞を書いたり、
彼の価値観を理解していないと逆の意味に理解しかねない曲も多いのです。
さらにカートは若くして自殺したこともあって、
変に物語化されて受け止められてしまうことも多く、
生身の彼の生き方や考え方が日本ではあまり伝わってないのですよね。
自分はそのことに対して以前から強い不満を持っていて、
それを変えるためにもカートの人となりや価値観をちゃんと伝えるため、
カートの本来の意図に沿った和訳をしたいと思っていたのです。
日本盤のCDの和訳では、カートは「何だか危ない人」にばかり見えますが、
彼はあえて極端な言葉を使うことがあれど、決してそういう人ではありません。
まずはこの"Come As You Are"の和訳で、多少なりともそれが伝わればと思っています。
◎Nirvana “Come As You Are”の概要

この曲はキーフレーズとなっている
"I don't have a gun"という言葉に関しては、
何を意図しているかはけっこう簡単に読むことができます。
しかし問題はそれ以外の部分の歌詞です。
ひたすら矛盾するような複数の要求が投げかけられるわけですが、
これは以下のように様々な解釈を取ることができます。
(1) カートがその相手に矛盾した複数の要求をしている
(2) その相手が(カート以外の)他人から複数の矛盾した要求をされていることの描写
(3) 複数の選択肢を提示し、それをどのように選ぶか委ねている
この疑問を解くのが、この曲に関するカート・コバーン本人と
アルバム"Nevermind"のプロデューサーをしたブッチ・ヴィグの発言です。
カート・コバーンの発言
>about people, and what they're expected to act like.
「これは人々についてのことで、彼らがどのように振る舞うかを期待されてることについての歌だ」
ということが語られている。
すなわち、「誰もが様々な人間から『こう振る舞え』と要求を投げつけられている」
というテーマが含まれていることがここから読み取れます。
これによって歌詞の大半の部分がどのような意図で書かれているかがわかります。
ブッチ・ヴィグの発言
>I think that song is about acceptance, and about misfits
>You're cool no matter how screwed up you are.
>‘Come As You Are’ is an ode to accepting someone for who they are.
「この歌は『受け入れる』ことについての歌であり、社会に適応できない人についてでもある」
「君がどんなに混乱させられていたとしても問題なんてないんだよ」
「'Come As You Are'はあるがままでいたいとする人を受け入れる歌なんだ」
この2人の発言によって、歌詞の読み取り方のピースはきれいに埋まります。
それをもとにしながら、実際の歌詞対訳へと取りかかっていきましょう。
Nirvana - Come As You Are (1991) [Grunge]
Nirvana - Come As You Are lyrics 歌詞和訳
Come as you are, as you were
今のおまえのままでいろよ いや、昔のおまえへと戻れよ
As I want you to be
とにかく俺が望むように振る舞ってくれ
As a friend, as a friend
友達のように、友達のようになってくれ
As an old enemy
いや、昔からの敵のようになってくれよ
Take your time, hurry up
ゆっくりしろ いや、急げよ
Choice is yours
どうするかはおまえが選べ
Don't be late, take a rest
遅れるな いや、休憩しろよ
As a friend, as an old memoria
友達のようになれ いや、昔の思い出のようになれよ
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Come doused in mud, soaked in bleach
泥に浸かって黒くなれ いや、漂白剤に浸かって白くなれよ
As I want you to be
とにかく俺が望むようになれよ
As a trend, as a friend
流行り物のようになれ いや、友達のようになれ
As an old memoria
いや、昔の思い出のようになれよ
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
Memoria
思い出のように
And I swear that I don't have a gun
ああ、誓うよ 俺はおまえに何か要求するつもりなんてないよ
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
そうさ、俺はおまえを責めるつもりなんてないんだ
Memoria
思い出のようになれよ
Memoria
思い出のようになれ
Memoria
思い出のようになれ
Memoria
思い出のようになれ
(No, I don't have a gun)
(気にするな 俺はおまえを責めるつもりなんてないから)
And I swear that I don't have a gun
誓うよ 俺はおまえに何か要求するつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
ああ、俺はおまえを責めるつもりなんてない
No, I don't have a gun
そうさ、俺はおまえを責めるつもりなんてないんだ
◎Nirvana “Come As You Are”の歌詞和訳の解説
まずこの曲は全体の大きな意味をとらえないといけません。
そのために事前に触れたカート・コバーンとブッチ・ヴィグの発言趣旨をもとに
全体の持つ大きな流れと意味を探っていきましょう。
ヴァースの"Come as ~"と何度も連続して語られている部分は、
「ある人物が多くの他人から様々な要求や期待をぶつけられている」
場面の描写だと解釈することができます。
「今のおまえのままでいろ」、「昔のおまえのようになれ」、
「俺の望むようになれ」などと人によって相反する要求をぶつけられるわけです。
「友達のようになれ」「宿敵のようになれ」もそうですし、
「泥にまみれて黒くなれ」「漂白剤で白くなれ」もそうです。
そしてこうした様々な相反する期待や要求をぶつけられることで、
その人物は疲弊し、社会への適応が難しくなっている状況なわけです。
そこでカートがその人物にこう語りかけるわけです。
「俺は銃なんか持っていないよ(=I don't have a gun)」と。
これはどういうことかと言うと、
「俺はおまえのことを攻撃しようなんて全く考えていない」
ということであり、「俺はおまえを受け止める」という言葉です。
なので、ヴァースとコーラスで場面が切り替わっているのですね。
ヴァースではある人物が他人から要求をぶつけられている場面が書かれ、
コーラスではカートがその人物に対して「受容」の姿勢を示すわけです。
なのでヴァースとコーラスの行間に
「こうしていろんな要求をぶつけられてきたんだろ」
のようなニュアンスが込められていると理解すると読みやすくなるでしょう。
さらにここでタイトルの"Come As You Are"が効いてくるわけです。
「俺はおまえに何も要求する気なんてない。あるがままでいればいい(=come as you are)」と。
カートが言っていた「期待されている人についての歌」という話と、
ブッチ・ヴィグの「そうした人を受け止める歌」という話がきれいに繋がるわけです。
カートは一見すると繋がりが見えにくい歌詞をあえて書きますが、
この曲における大事な2点を踏まえると、一気に解釈がクリアになります。
なので、この曲はカートがNirvanaの中で書いた歌詞の中でも
最も優しさを持ったものであると言ってもいいでしょう。
こうしたカートの側面は日本ではあまり知られてないところですよね。
そしてこの曲の歌詞は、ものすごく90年代らしいとも思わせてくれます。
90年代のミュージシャンは総じて「飾らない」という特徴がありました。
これは派手さや虚飾をアピールしがちだった80年代とは実に対照的です。
そしてこの曲では聴く者に「あるがままでいいんだよ。それを責める気なんてない」
と受け入れる姿勢を示すわけです。
「飾る必要なんてない。そのままでいい。弱くても混乱していてもいい。
俺はそのままで受け入れるよ」と語りかけているわけですね。
そう考えると、まさに90年代的なテーマを内包していることを実感しますね。
◎文法事項の解説
この曲を読むうえで重要になってくるのは、やはりasの扱いでしょう。
asは接続詞として、後ろに文の形(節)を取ることもできるし、
as a friendのようにシンプルに名詞を取ることもできます。
細かいことを言えば前者は接続詞で後者は前置詞だと言えますが、
それよりも「asは文の形も名詞も後ろに取ることができる」と理解するのがいいでしょう。
>Come as you are, as you were
そして和訳が最も難しいと感じられがちなのはこの部分でしょう。
asが「~のように」となるのはいいとして、その後ろが「主語+be動詞」だけなので、
慣れていない人はこれをどう解釈すればいいかを迷ってしまうのですよね。
この場合は時制に合わせて「(そのとき)主語がそうであったように」と考えればいいです。
as you wereと過去形なら「あなたがかつてそうだったように」と考え、
as you areと現在形なら「あなたが今そうであるように」と考えることができます。
この文では現在と過去をあえて並べていることから、
「今のおまえのままでいろ」「昔お前のようになれ」と解釈できます。
しかし、単独でcome as you areと出てくると、解釈に幅が生まれます。
というのも、現在形には「普遍的な変わらないもの」というイメージがあるため、
「今に限定した話」ではなく「本質についての話」という意味も持ちえます。
すなわち、「あるがままのおまえでいればいい」という訳にもなります。
タイトルとしてのcome as you areはこちらでとらえるのが適切でしょう。
そう考えると、この曲ではcome as you areという言葉の2つのニュアンスを上手く使っているわけですね。
>Come doused in mud, soaked in bleach
ここは直訳すると「泥の中に浸かれ、漂白剤に浸かれ」となりますが、
これだけでは何が言いたいのかわからず、単なる怖い言葉に見えます。
でもここの趣旨は「泥(=黒)」と「漂白剤(=白)」との対比にあります。
「黒くなれ」と「白くなれ」という要求が同時に浴びせられるという描写ですね。
>As a trend, as a friend
「なぜここで急に流行り物(=trend)が?」と思われるでしょうが、
これは単にtrendとfriendで韻を踏んだ言葉遊びの類いでしょう。
カート・コバーンは意外とこうした言葉遊びをしますからね。
なので、訳についてはあまり深く考えなくていいでしょう。
◎まとめ
何の予備知識もなしにこの曲の歌詞を見た人は、
「なんだか矛盾した要求をひたすらぶつけてるわ、泥や漂白剤に浸かれとか言ってるわ、
唐突に銃は持ってないと言いだすわ、なんだかよくわからないけど怖い曲だな」
みたいになりがちですが、実際には怖い曲でも何でもないわけですね。
むしろ「俺はおまえがあるがままでいることを受け入れるよ」という受容の歌なのです。
今回のこの"Come As You Are"の和訳を読むことによって、
カート・コバーンの人となりへのイメージが変わった人もいると思います。
カートはしばしば単語だけを見るとギョッとする歌詞を書く人ですが、
そこに込められた意図を読んで理解すると実は深い言葉が多いのです。
今後もNirvanaのそうした歌詞の姿について伝えていきたいと思います。
ロックの歴史 第5回(1990年代前半)
前回の「ロックの歴史 第4回」で1980年代のアンダーグラウンドシーンについて
解説しましたが、これが基盤となって90年代の音楽が大きく動き始めます!
オルタナティブロックが徐々にメインストリームへと進出していく中、
1991年についにある曲がシーンを動かし、音楽界は一気に変わります!
今回はロックの歴史に残る巨大なムーブメントの流れを見ていきましょう!(`・ω・´)
---------------
1991年が始まった頃はまだメインストリームシーンにおいてはポップメタルが隆盛を極めていたが、そこに風穴を開けるような動きが出始めてくる。オルタナティブロックの先駆者でもあるR.E.M.がその年にリリースしたアルバム"Out of Time"(アウト・オブ・タイム)は発売されてすぐに大きなヒットを記録し、最終的にアメリカ国内だけで400万枚のセールスを獲得した。
また、スラッシュメタルの元祖であったMetallicaは、それまでのスピード重視のメタルから方向性を変え、ヘヴィネスを強調したどっしりとしたサウンドを軸に据えたアルバムである"Metallica"を発表し、これが巨大なセールスを収めることに成功する。こうした流れを通じて、「オルタナティブでヘヴィなサウンドを求めるニーズ」が顕在化されつつあった。
そこに登場したのがNirvanaの"Smells Like Teen Spirit"(スメルズ・ライク・ティーン・スピリット)であった。この曲はMTVなどを通じてミュージックビデオが公開されるや否や人気が爆発し、アルバム"Nevermind"(ネヴァーマインド)も急速にチャートを駆け上がっていくことになった。これによって、シーンの主流はあっという間にオルタナティブロックが席巻していくこととなる。
Nirvanaのヒットに次いで、同じくシアトルシーンの出身であるPearl Jam[パール・ジャム]も大きなヒットを獲得し、さらにAlice in Chains[アリス・イン・チェインズ]やSoundgardenも成功を収めていった。シアトルのミュージックシーンは80年代後期まではBlack Flagからの影響を受けた「テンポが遅い地下臭の漂うハードコアパンクにメタルをミックスしたもの」が主流であったが、そこから音楽性が広がっていき、「音楽的なルーツはそれぞれ異なるものの、ダークでヘヴィなサウンドとシリアスなテーマ性」という共通性を帯びた緩やかなつながりを持つようになり、これらのサウンドがグランジ(Grunge)と総称されるようになっていく。
シアトル以外からも同様の音楽性を持ったバンド達がメインストリームに侵攻していき、グランジムーブメントはさらに進行していった。サンディエゴのStone Temple Pilots[ストーン・テンプル・パイロッツ]、シカゴのThe Smashing Pumpkins[スマッシング・パンプキンズ]、ロサンゼルスのBlind Melon[ブラインド・メロン]なども大きな成功を収めていく。
そしてこのグランジムーブメントを皮切りに、様々なオルタナティブロックがシーンに浮上していくこととなる。ファンクメタルの先駆者だったRed Hot Chili Peppersも1991年のアルバム"Blood Sugar Sex Magik"(ブラッド・シュガー・セックス・マジック)で巨大なセールスを収め、ファンクメタルもグランジと並ぶオルタナティブロックの主流としてシーンに定着していく。その流れで他のファンクメタルバンドもシーンに浮上すると同時に、変態ベーシストであるレス・クレイプール率いるPrimus[プライマス]やラップとLed Zeppelin的なハードロックを融合させ、社会的なテーマを扱ったRage Against the Machine[レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン]なども大きなセールスを収めていった。
さらにコンピュータサウンドを多用しつつダークでヘヴィなサウンドを構築するインダストリアル・メタル(Industrial Metal)もシーンに大きく浮上していく。Ministry[ミニストリー]によって完成させられたこうしたサウンドは、その音楽性を受け継いだNine Inch Nails[ナイン・インチ・ネイルズ]のヒットによって、完全にシーンへと定着することに成功する。その後もNine Inch Nailsのトレント・レズナーの助力を得たMarilyn Manson[マリリン・マンソン]やWhite Zombie[ホワイトゾンビ]などのバンドが人気を獲得した。
またそれら以外に90年代に浮上したオルタナティブロックのミュージシャンとしてはBeck[ベック]やJeff Buckley[ジェフ・バックリー]などを挙げることができるだろう。
オルタナティブロックは全体的に攻撃的で実験的なサウンドを持つバンドが支配的ではあったが、その中にはThe Replacementsなどの流れを汲んだ、オーガニックで土の香りがするような温かいサウンドを持ったバンドも大きく含まれており、これらのバンドもシーンへと浮上していくこととなった。
Soul Asylum[ソウル・アサイラム]やThe Goo Goo Dolls[グー・グー・ドールズ]はその好例で、いずれももともとはハードコアパンクバンドだったが、徐々にそうした温かみのあるパンク由来のサウンドへ移行し、新たなアメリカンロックの形を提示することになった。パンクからの影響がそれほど強くないバンドとしてはCounting Crows[カウンティング・クロウズ]やDave Matthews Band[デイヴ・マシューズ・バンド]、Gin Blossoms[ジン・ブロッサムズ]などが大きなセールスを獲得していくことになる。また、80年代後期からThe Black Crowes[ブラック・クロウズ]やBlues Traveler[ブルース・トラベラー]、Spin Doctors[スピン・ドクターズ]などのルーツ志向の強いジャム系のバンドがポツポツと生まれており、これらのバンドを総称してアメリカン・トラッド・ロック(American Trad Rock)や大人向けのオルタナティブロックという意味でアダルト・オルタナティブ(Adult Alternative)と呼ぶようになっていった。また、90年代中盤に大きな人気を獲得した女性シンガーのSheryl Crow[シェリル・クロウ]もこのラインを代表する存在として語ることができるだろう。
またグランジムーブメントの拡大に伴い、グランジそのものとは言い難いものの、グランジからの影響を少なからず感じさせるオルタナティブロックバンドも数多く生まれていた。これらのバンドはポストグランジ(Post-Grunge)と呼ばれるようになる。その代表格であるLive[ライヴ]は2ndアルバムである"Throwing Copper"(スローイング・コッパー)で800万枚という巨大なセールスを収めることに成功する。また女性ヴォーカリストのAlanis Morissette[アラニス・モリセット]は1995年の"Jagged Little Pill"(ジャグド・リトル・ピル)で1000万枚を遥かに超えるセールスを記録する。他にもCollective Soul[コレクティヴ・ソウル]などもこのラインから浮上していく。また、Nirvanaの解散後に結成されたFoo Fighters[フー・ファイターズ]もこうした流れの中にあると見ることができる。
オルタナティブロックの中にはメタルの要素を強く取り入れたバンドも数多く存在していた。グランジの枠組みで浮上したAlice in ChainsやSoundgardenもそうであったし、またプログレッシブかつオルタナティブな感性とメタリックなサウンドを融合させたTool[トゥール]、ノイジーでありながら整合性を持ったメタリックなサウンドを鳴らしたHelmet[ヘルメット]、90年代中期以降の実験的なメタルを主導したDeftones[デフトーンズ]、ファンクメタル的な要素に重低音を強く効かせたゴリゴリとしたヘヴィサウンドを提示したKorn[コーン]などのバンドは、オルタナティブメタル(Alternative Metal)と呼ばれるようになっていく。
また、グランジやオルタナティブロックの浮上によって、80年代に主流を極めたポップメタルはメインストリームのシーンからの退場を余儀なくされることとなった。それに伴い、メタルの分野においても主流となるサウンドに大きな変化が起きてくる。Pantera[パンテラ]が90年のアルバム"Cowboys from Hell"(カウボーイズ・フロム・ヘル)でスラッシュメタルにさらなる重さと咆哮的なヴォーカルを重ね合わせたアルバムを発表したのを皮切りに、さらにMetallicaが1991年に示したヘヴィなサウンドの影響も加わり、80年代のポップメタルとは全く異なった、ヘヴィでザクザクとしたメタルサウンドがメタルシーンの中核を担っていくことになる。こうしたサウンドはグルーヴメタル(Groove Metal)と呼ばれるようになっていく。
シーンの先駆者であるPanteraだけにとどまらず、Machine Head[マシーン・ヘッド]やブラジルのSepultura[セパルトゥラ]などのバンドもシーンに浮上し、さらに80年代のメタルバンドもこうしたサウンドへと移行していくケースが数多く見られることとなった。シーンそのものはそこまで大きくならなかったものの、90年代中期以降のヘヴィロックに多大な影響を残したことは特筆されるべき点であろう。
また80年代中期から地下シーンにおいて様々な実験的なサウンドが試みられてきたことに伴い、メタルとパンクの双方において音楽性の極端化を目指す動きも顕在化してくる。その先鞭ともなったのがNapalm Death[ナパーム・デス]で、ハードコアパンクのスピードを極端なレベルにまで速め、もはや音楽と評していいのかわからないレベルのエクストリームなサウンドを完成させる。これはグラインドコア(Grindcore)と呼ばれることになる。こうした動きはメタルにも派生し、グラインドコアと同様の要素をメタルに持ち込んだデスメタル(Death Metal)が生まれることとなった。
これらはテンポをひたすら速めることによって攻撃性を高めることを狙う方向性であったが、同時にそれとは全く逆の方向の極端化を目指す動きも登場してくる。そうした流れの中から生まれたのがドゥームメタル(Doom Metal)、ストーナーロック(Stoner Rock)、スラッジメタル(Sludge Metal)であった。
ドゥームメタルは端的に言えば、Black Sabbath直系のドロドロとしたスローなヘヴィメタルである。ドゥームメタルは80年代中期からTrouble[トラブル]、Candlemass[キャンドルマス]、Saint Vitus[セイント・ヴィータス]といったバンドによってシーンが形成されていったが、そこに最も大きなインパクトを与えたのはCathedral[カテドラル]であろう。CathedralはNapalm Deathにいたリー・ドリアンによって結成されたバンドで、Black Sabbathを徹底して煮詰めたようなドロドロとしたサウンドを構築していく。リー・ドリアンはNapalm Deathという速さを追求したバンドから、今度は逆に遅さと重さを追求する方向へと向かったのである。
ストーナーロックは「マリファナ中毒者のロック」を意味したもので、ドゥームメタルと同様にBlack Sabbathからの影響を受けてはいるものの、それ以上に60年代ヘヴィサイケを代表するBlue Cheerや70年代にスペーシーなサウンドを指向したHawkwind[ホークウィンド]からの影響が強く、強い酩酊感とドライブ感をともなったサウンドを特徴としている。その直接的な開祖はKyuss[カイアス]とされ、他にもMonster Magnet[モンスター・マグネット]やFu Manchu[フー・マンチュ]などがその代表的なバンドとして数えられる。また、Kyussの解散後に結成されたQueens of the Stone Age[クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ]はストーナー的なサウンドを継承しながら、商業的な成功を収めている。
スラッジメタルは名前こそメタルではあるものの、むしろハードコアパンクの流れから生まれたジャンルである。グランジと同様にBlack Flagが提示した「遅くてヘヴィなハードコア」を直接的なルーツとしており、ここにノイジーなポストパンクであったSwans[スワンズ]やFlipper[フリッパー]の影響を重ね合わせたサウンドとなっている。スラッジメタルを語るうえで欠かせない存在といえば、まずはMelvinsであろう。グランジの黎明期を支えたバンドでもあるMelvinsは、他のグランジバンドとは異なり、その後も大衆的な要素を取り入れていこうとはせず、ひたすらアンダーグラウンド的なヘヴィネスを追求し、このスラッジメタルの直接的なルーツとなっていく。その後はEyehategod[アイヘイトゴッド]などもこのジャンルを代表する存在として浮上していく。
これらのジャンルからはさらなる極端化を目指し、徹底的に遅く弛緩したサウンドを追求するバンドも生まれてきた。その代表格がEarth[アース]であり、彼らの1993年の作品である"Earth 2 -special low frequency version-"はそうした極端化の究極の形として語られることも多い。このあたりになると、もはや相当なマニアでもない限りは受け入れることが難しくなってくるであろう。
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こうして音楽の歴史に残る最大のムーブメントの一つである
オルタナティブロックによるシーンの変革が巻き起こりました!
そしてそれに沿う形でメタルの世界も大きな変化が起こりました!
これによって90年代の音楽シーンは80年代とは一気に変わります!
次回はこの「オルタナティブムーブメント後のシーン」を見ていきます!(゚x/)
【関連記事】
・ロックの歴史 第6回(2000年代前半まで)
・ロックの歴史 第5回(1990年代前半)
・ロックの歴史 第4回(1980年代のアンダーグラウンドシーン)
・ロックの歴史 第3回(1980年代のメインストリームシーン)
・ロックの歴史 第2回(1970年代)
・ロックの歴史 第1回(1960年代)
解説しましたが、これが基盤となって90年代の音楽が大きく動き始めます!
オルタナティブロックが徐々にメインストリームへと進出していく中、
1991年についにある曲がシーンを動かし、音楽界は一気に変わります!
今回はロックの歴史に残る巨大なムーブメントの流れを見ていきましょう!(`・ω・´)
---------------
◎グランジムーブメントとオルタナティブロックの隆盛(90年代前半)
1991年が始まった頃はまだメインストリームシーンにおいてはポップメタルが隆盛を極めていたが、そこに風穴を開けるような動きが出始めてくる。オルタナティブロックの先駆者でもあるR.E.M.がその年にリリースしたアルバム"Out of Time"(アウト・オブ・タイム)は発売されてすぐに大きなヒットを記録し、最終的にアメリカ国内だけで400万枚のセールスを獲得した。
また、スラッシュメタルの元祖であったMetallicaは、それまでのスピード重視のメタルから方向性を変え、ヘヴィネスを強調したどっしりとしたサウンドを軸に据えたアルバムである"Metallica"を発表し、これが巨大なセールスを収めることに成功する。こうした流れを通じて、「オルタナティブでヘヴィなサウンドを求めるニーズ」が顕在化されつつあった。
そこに登場したのがNirvanaの"Smells Like Teen Spirit"(スメルズ・ライク・ティーン・スピリット)であった。この曲はMTVなどを通じてミュージックビデオが公開されるや否や人気が爆発し、アルバム"Nevermind"(ネヴァーマインド)も急速にチャートを駆け上がっていくことになった。これによって、シーンの主流はあっという間にオルタナティブロックが席巻していくこととなる。
Nirvanaのヒットに次いで、同じくシアトルシーンの出身であるPearl Jam[パール・ジャム]も大きなヒットを獲得し、さらにAlice in Chains[アリス・イン・チェインズ]やSoundgardenも成功を収めていった。シアトルのミュージックシーンは80年代後期まではBlack Flagからの影響を受けた「テンポが遅い地下臭の漂うハードコアパンクにメタルをミックスしたもの」が主流であったが、そこから音楽性が広がっていき、「音楽的なルーツはそれぞれ異なるものの、ダークでヘヴィなサウンドとシリアスなテーマ性」という共通性を帯びた緩やかなつながりを持つようになり、これらのサウンドがグランジ(Grunge)と総称されるようになっていく。
シアトル以外からも同様の音楽性を持ったバンド達がメインストリームに侵攻していき、グランジムーブメントはさらに進行していった。サンディエゴのStone Temple Pilots[ストーン・テンプル・パイロッツ]、シカゴのThe Smashing Pumpkins[スマッシング・パンプキンズ]、ロサンゼルスのBlind Melon[ブラインド・メロン]なども大きな成功を収めていく。
そしてこのグランジムーブメントを皮切りに、様々なオルタナティブロックがシーンに浮上していくこととなる。ファンクメタルの先駆者だったRed Hot Chili Peppersも1991年のアルバム"Blood Sugar Sex Magik"(ブラッド・シュガー・セックス・マジック)で巨大なセールスを収め、ファンクメタルもグランジと並ぶオルタナティブロックの主流としてシーンに定着していく。その流れで他のファンクメタルバンドもシーンに浮上すると同時に、変態ベーシストであるレス・クレイプール率いるPrimus[プライマス]やラップとLed Zeppelin的なハードロックを融合させ、社会的なテーマを扱ったRage Against the Machine[レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン]なども大きなセールスを収めていった。
さらにコンピュータサウンドを多用しつつダークでヘヴィなサウンドを構築するインダストリアル・メタル(Industrial Metal)もシーンに大きく浮上していく。Ministry[ミニストリー]によって完成させられたこうしたサウンドは、その音楽性を受け継いだNine Inch Nails[ナイン・インチ・ネイルズ]のヒットによって、完全にシーンへと定着することに成功する。その後もNine Inch Nailsのトレント・レズナーの助力を得たMarilyn Manson[マリリン・マンソン]やWhite Zombie[ホワイトゾンビ]などのバンドが人気を獲得した。
またそれら以外に90年代に浮上したオルタナティブロックのミュージシャンとしてはBeck[ベック]やJeff Buckley[ジェフ・バックリー]などを挙げることができるだろう。
オルタナティブロックは全体的に攻撃的で実験的なサウンドを持つバンドが支配的ではあったが、その中にはThe Replacementsなどの流れを汲んだ、オーガニックで土の香りがするような温かいサウンドを持ったバンドも大きく含まれており、これらのバンドもシーンへと浮上していくこととなった。
Soul Asylum[ソウル・アサイラム]やThe Goo Goo Dolls[グー・グー・ドールズ]はその好例で、いずれももともとはハードコアパンクバンドだったが、徐々にそうした温かみのあるパンク由来のサウンドへ移行し、新たなアメリカンロックの形を提示することになった。パンクからの影響がそれほど強くないバンドとしてはCounting Crows[カウンティング・クロウズ]やDave Matthews Band[デイヴ・マシューズ・バンド]、Gin Blossoms[ジン・ブロッサムズ]などが大きなセールスを獲得していくことになる。また、80年代後期からThe Black Crowes[ブラック・クロウズ]やBlues Traveler[ブルース・トラベラー]、Spin Doctors[スピン・ドクターズ]などのルーツ志向の強いジャム系のバンドがポツポツと生まれており、これらのバンドを総称してアメリカン・トラッド・ロック(American Trad Rock)や大人向けのオルタナティブロックという意味でアダルト・オルタナティブ(Adult Alternative)と呼ぶようになっていった。また、90年代中盤に大きな人気を獲得した女性シンガーのSheryl Crow[シェリル・クロウ]もこのラインを代表する存在として語ることができるだろう。
またグランジムーブメントの拡大に伴い、グランジそのものとは言い難いものの、グランジからの影響を少なからず感じさせるオルタナティブロックバンドも数多く生まれていた。これらのバンドはポストグランジ(Post-Grunge)と呼ばれるようになる。その代表格であるLive[ライヴ]は2ndアルバムである"Throwing Copper"(スローイング・コッパー)で800万枚という巨大なセールスを収めることに成功する。また女性ヴォーカリストのAlanis Morissette[アラニス・モリセット]は1995年の"Jagged Little Pill"(ジャグド・リトル・ピル)で1000万枚を遥かに超えるセールスを記録する。他にもCollective Soul[コレクティヴ・ソウル]などもこのラインから浮上していく。また、Nirvanaの解散後に結成されたFoo Fighters[フー・ファイターズ]もこうした流れの中にあると見ることができる。
◎オルタナティブロック時代のメタルやパンクの変化(80年代後半から90年代前半)
オルタナティブロックの中にはメタルの要素を強く取り入れたバンドも数多く存在していた。グランジの枠組みで浮上したAlice in ChainsやSoundgardenもそうであったし、またプログレッシブかつオルタナティブな感性とメタリックなサウンドを融合させたTool[トゥール]、ノイジーでありながら整合性を持ったメタリックなサウンドを鳴らしたHelmet[ヘルメット]、90年代中期以降の実験的なメタルを主導したDeftones[デフトーンズ]、ファンクメタル的な要素に重低音を強く効かせたゴリゴリとしたヘヴィサウンドを提示したKorn[コーン]などのバンドは、オルタナティブメタル(Alternative Metal)と呼ばれるようになっていく。
また、グランジやオルタナティブロックの浮上によって、80年代に主流を極めたポップメタルはメインストリームのシーンからの退場を余儀なくされることとなった。それに伴い、メタルの分野においても主流となるサウンドに大きな変化が起きてくる。Pantera[パンテラ]が90年のアルバム"Cowboys from Hell"(カウボーイズ・フロム・ヘル)でスラッシュメタルにさらなる重さと咆哮的なヴォーカルを重ね合わせたアルバムを発表したのを皮切りに、さらにMetallicaが1991年に示したヘヴィなサウンドの影響も加わり、80年代のポップメタルとは全く異なった、ヘヴィでザクザクとしたメタルサウンドがメタルシーンの中核を担っていくことになる。こうしたサウンドはグルーヴメタル(Groove Metal)と呼ばれるようになっていく。
シーンの先駆者であるPanteraだけにとどまらず、Machine Head[マシーン・ヘッド]やブラジルのSepultura[セパルトゥラ]などのバンドもシーンに浮上し、さらに80年代のメタルバンドもこうしたサウンドへと移行していくケースが数多く見られることとなった。シーンそのものはそこまで大きくならなかったものの、90年代中期以降のヘヴィロックに多大な影響を残したことは特筆されるべき点であろう。
また80年代中期から地下シーンにおいて様々な実験的なサウンドが試みられてきたことに伴い、メタルとパンクの双方において音楽性の極端化を目指す動きも顕在化してくる。その先鞭ともなったのがNapalm Death[ナパーム・デス]で、ハードコアパンクのスピードを極端なレベルにまで速め、もはや音楽と評していいのかわからないレベルのエクストリームなサウンドを完成させる。これはグラインドコア(Grindcore)と呼ばれることになる。こうした動きはメタルにも派生し、グラインドコアと同様の要素をメタルに持ち込んだデスメタル(Death Metal)が生まれることとなった。
これらはテンポをひたすら速めることによって攻撃性を高めることを狙う方向性であったが、同時にそれとは全く逆の方向の極端化を目指す動きも登場してくる。そうした流れの中から生まれたのがドゥームメタル(Doom Metal)、ストーナーロック(Stoner Rock)、スラッジメタル(Sludge Metal)であった。
ドゥームメタルは端的に言えば、Black Sabbath直系のドロドロとしたスローなヘヴィメタルである。ドゥームメタルは80年代中期からTrouble[トラブル]、Candlemass[キャンドルマス]、Saint Vitus[セイント・ヴィータス]といったバンドによってシーンが形成されていったが、そこに最も大きなインパクトを与えたのはCathedral[カテドラル]であろう。CathedralはNapalm Deathにいたリー・ドリアンによって結成されたバンドで、Black Sabbathを徹底して煮詰めたようなドロドロとしたサウンドを構築していく。リー・ドリアンはNapalm Deathという速さを追求したバンドから、今度は逆に遅さと重さを追求する方向へと向かったのである。
ストーナーロックは「マリファナ中毒者のロック」を意味したもので、ドゥームメタルと同様にBlack Sabbathからの影響を受けてはいるものの、それ以上に60年代ヘヴィサイケを代表するBlue Cheerや70年代にスペーシーなサウンドを指向したHawkwind[ホークウィンド]からの影響が強く、強い酩酊感とドライブ感をともなったサウンドを特徴としている。その直接的な開祖はKyuss[カイアス]とされ、他にもMonster Magnet[モンスター・マグネット]やFu Manchu[フー・マンチュ]などがその代表的なバンドとして数えられる。また、Kyussの解散後に結成されたQueens of the Stone Age[クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ]はストーナー的なサウンドを継承しながら、商業的な成功を収めている。
スラッジメタルは名前こそメタルではあるものの、むしろハードコアパンクの流れから生まれたジャンルである。グランジと同様にBlack Flagが提示した「遅くてヘヴィなハードコア」を直接的なルーツとしており、ここにノイジーなポストパンクであったSwans[スワンズ]やFlipper[フリッパー]の影響を重ね合わせたサウンドとなっている。スラッジメタルを語るうえで欠かせない存在といえば、まずはMelvinsであろう。グランジの黎明期を支えたバンドでもあるMelvinsは、他のグランジバンドとは異なり、その後も大衆的な要素を取り入れていこうとはせず、ひたすらアンダーグラウンド的なヘヴィネスを追求し、このスラッジメタルの直接的なルーツとなっていく。その後はEyehategod[アイヘイトゴッド]などもこのジャンルを代表する存在として浮上していく。
これらのジャンルからはさらなる極端化を目指し、徹底的に遅く弛緩したサウンドを追求するバンドも生まれてきた。その代表格がEarth[アース]であり、彼らの1993年の作品である"Earth 2 -special low frequency version-"はそうした極端化の究極の形として語られることも多い。このあたりになると、もはや相当なマニアでもない限りは受け入れることが難しくなってくるであろう。
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こうして音楽の歴史に残る最大のムーブメントの一つである
オルタナティブロックによるシーンの変革が巻き起こりました!
そしてそれに沿う形でメタルの世界も大きな変化が起こりました!
これによって90年代の音楽シーンは80年代とは一気に変わります!
次回はこの「オルタナティブムーブメント後のシーン」を見ていきます!(゚x/)
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