自分の人生観と哲学 その5

こうして毎日「死にたい」と考えながら過ごしていた20歳の秋頃、
自分の中で「そこから脱出したい」という意識が強く出てきたのですね。

自分がいる心理状態の客観的な危険性に自分なりに気付いて、
「ここから何とかして出ないといけない」と思うようになったのです。

ただそこでもどうしても壁にぶつからざるをえないわけです。

「この絶望から脱出しようとするとして、
じゃあこれからの人生、自分は何に楽しさを見出せばいいの?
何を楽しめるものが、救いになるものがあるっていうの?」という、
価値観の変化による「楽しいと思えるものが見つからない」問題が横たわるのです。

ただこれはこの時期に何となく見えてきたのですよね。

「自分が20歳の大人という視点にこだわるからダメなのではないか。
思えば子どもの頃はもっといろんなことを純粋さを持って楽しめたじゃないか。
だったら、子どもの頃のような楽しさを大人でも手にすればいいじゃないか。」
というようなところにたどり着いたのですね。

要は自分が絶望していたことは、
いわゆる「大人の楽しみ」みたいに形容されるものだったわけです。

本当なら人間は成長するにつれて、大人になるにつれて、
より動物的だった子どもから理性的な存在になっていくべきなのに、
実際にはより欲望のタガを外して、より下品な物事の楽しみ方ばかり手にしてしまう、
そうした人間のあり方に対する絶望だったわけです。

「大人になったから、大人らしい物事の楽しみ方をしなければならない。
でもそんなものは楽しいどころか、人間の愚かさとしか思えない。」
と、自分はここでストップしてしまっていたわけですね。

そこを逆転させて「大人らしい物事の楽しみ方なんて捨ててしまえばいい。
いっそ子どもの価値観を取り戻して、子どもの頃にいくつか持っていた
純粋な物事の楽しみ方をできる大人になればいい」と考えたわけです。

もちろん子どもの物事の楽しみ方が全部純粋なわけではないです。
子どもであるがゆえの残酷さもありますし、良くない部分も多いです。

でも無邪気に探検したり、公園で遊んだり、ただ走り回ったり、
それも欲求の一つであることはたしかではあるものの、
「大人の楽しみ」のようなドロドロとした汚い欲望とは全くの別物です。

そうした物事の楽しみ方は大人だって、別にやったっていいはずです。

そう考えたときに、
「あぁ、今の自分にも物事を楽しむ方法はある」と気付けたのですね。

だからそうした発想に至ってまずやったことが、
近くの大きな公園に行ってのんびりと歩いて過ごしたり、
芝生の上に寝転んで延々と空を眺めたりすることだったのですよね。

子ども達が無邪気に遊んでるのを見たりするのも好きでした。

今でもときどき公園に出向いて一人でいろんなところを散歩したり、
花を見たり写真を撮るのが好きなのはそうしたところから来ています。

遊具で遊んでもいいのですが、さすがにそれは恥ずかしいですからね。
というか、大人になると遊具ってけっこう怖かったりしますからね。

そうした考えを得た後に帰省したときには、
子どものときに歩いた道が今どうなってるかを
一人で散歩しながら探検するなんてこともしましたね。

「あぁ、こういう楽しみ方でいいんだな」って思えましたね。

「人間は自分も含めてひどく愚かな存在だ」といった価値観は
これ以降も特に変わってはいないのですが、
「そんな絶望の淵に落ちた自分でもそれなりに何かを楽しむことはできる」
ということが大きな救いになったことは間違いなかったですね。

ただそうしてるうちに20歳の頃ほど極端にストイックではなくなりましたが。
根本的な哲学は当時と同じですが、良くも悪くも丸くなったところはありますね。

どうしても20歳のときほど強固な価値観だと、あまりに生きにくくもありますし。

ただやっぱり今でも「自分は完全に理性的な存在を目指したい」という意識や、
「自分が愛を実践するなら、無私の愛になるように徹底的に努める」という意識は
変わらず持っていますけども。

世の中の恋愛をひどく冷ややかな目で見てることなんかは変わらないですからね。

自分達の恋愛関係を神秘的な永遠の愛かのように称揚しつつ、
良くて数年しかもたないくせに
「自分のやってることは本当に愛と呼ぶに値するのだろか」
とは考えもせず、それを真に愛と呼べるものにしようとも努めない、
にもかかわらず自分のしてることを愛と呼ぶことはやめようとはしない、
という人間の行動については今もやっぱり軽蔑の念しか持ってないですし。

ただ自分は「だから愛なんて幻想なんだ」と言いたいわけではなく、
「それでも自分は無私の愛があると信じてそれを人間として実践したい」
とずっと願い続けてはいるのですけどもね。

そしてやっぱり先に述べた通り、「大人の楽しみ」的なものは腹の底から嫌悪してます。

キャバクラとかに行きたいと思う人の気持ちは1ピコメートルたりとも理解できませんし、
性接待的なものとか、興味がないどころかもし自分がそんなものを得たら
ひたすら自己嫌悪に駆られて「死にたい」としか思えなくなるでしょうね。

そういうものは「本当は欲しいと思うけど我慢してる」とかではなくて、
「そんなものを欲しいと思う人間になんて死んでもなりたくない」
という意識なのですよね。

今でもやっぱり自分の意識の根幹には、
「なんで人間は大人になるほど理性を磨くどころか、欲望まみれになっていくわけ?」
という強烈な疑問はありますからね。

たぶん原理的に言えば子どものほうが本能的で、
大人のほうが理性は成長してるはずなのですよね。

でもその理性を欲望を抑制する方向で使うどころか、
欲望を満たすため、増強させるために人間は使ってるのですよね。

やっぱりこういう生き方は自分としては愚かだとしか思えないのは変わらないです。

もう今更この記事で本音を隠しても仕方ないからストレートに言いますが、
70代とか80代にもなって精力増強剤とかバイアグラとか欲しがる奴等、
心底「頭腐ってんじゃねーの」としか思えませんからね。

せっかく年齢を重ねて無駄な欲望が減って行ってくれるにもかかわらず、
わざわざそれに抗して欲望を増強させようとするなんて自分には理解できません。

幸い自分は性欲がゼロといっていいぐらいの状態に達しつつあるので、
「やった!やっとそういう境地に達してきた!」と心から喜んでいます。

なんか記事の後半になって書きたいことをひたすら書き殴りましたが、
とりあえず今回の記事に関してはこのあたりで締めようと思います。

このシリーズそのものはたぶんもうちょっと続くと思いますが、
次の記事で何を書くかはちょっと頭の中で練りたいと思います。

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テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記

コメント

 
ニンゲンは歪な生き物だよね~頭でっかちになりすぎてにっちもさっちもいかなくなちゃう的な。猫や鳥と一緒に暮らして感じたのは、よく遊ぶ青年期までを過ぎたら穏やかな平穏な毎日を好み、繁殖期以外はそう争うこともなく、本能というかDNAに忠実に生きている。生きがいや生きる目標なんてなく、子孫を残すことが生存意義なんだろうなぁと。まぁ、人間界でそれをすれば社会が成り立たなくなるんだけれどね。
鳥天さん、こんにちは。

人間は頭(理性)と体(本能)がチグハグな存在だなとは思いますね。自分は頭でっかちを超えて、「人間は頭(=理性)100%になればいいんだ」とまで思っていますが。頭(=理性)が大きくなることでもがくのなら、ある意味でそれは幸せなことだと思うんですよ。たとえその結果が希死念慮であったとしても。だってそれって、「人間だけにできること」を追求しようとした結果ですから。

生き甲斐や生きる目標はある意味では自分にとってどうでもいいのですけど、生きる意義というか意味というか、それを考えられるのって、人間だけに与えられた特権でもあるのですよね。だからたとえ苦しくても自分はそれと向き合っていたいなって思っていますね。

動物に理性があるのかどうかはよくわからないですけど、でも理性がないはずの動物のほうが「人間的な」視点から見ても純粋なところってありますよね。動物が飼い主に抱く愛情って、本当に寸分の嘘もない永遠の愛じゃないですか。それを考えると、人間的な視点から見ても、決してあらゆる面で人間が動物より優れてるとは言えないよなって感じます。「どうして動物は永遠の愛を貫けるのに、人間にはそれができないんだろう」というのは自分の中で一つの課題としていつも感じていますね。

それでは、コメントありがとうございました!

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