自分の人生観と哲学 その4

前回までの記事で自分が「人間とは理性的な存在を目指すべきだ」という
価値観に至るまでの過程を書きつつ、その副作用が生じてきたことに触れました。

自分が「まぁ人間なんて欲望で動いてるもんだし、自分もそうだし」と
それに疑問を持たずに受け入れているときは普通に見えていたものが、
「たしかに人間は欲望を持っているが、理性を持っているのだから、
生きていく中でそれを克服していくべきだ」という価値観に達すると、
その「普通に見えていたもの」が「人間がいかに愚かで欲望から脱することができないか」
を示すものとしてしか映らなくなっていってしまうのですね。

これは「その2」の記事でアルコールへの忌避感を持つようになったことで、
飲み会などで人が理性を飛ばしている姿を見ると苦痛をおぼえるようになった、
という話と根っこの部分では繋がっています。

「まぁ人間いろいろあるし、たまには理性のタガを外したくなるさ」と思っていれば、
別に他人がアルコールで理性を飛ばしていてもどうとも思わないわけですね。

でも「いかに理性的な存在になろうとするか」にのめり込むようになると、
その理性の飛んだ姿は「人は年齢を重ねても愚かさから逃れられない」という
現実をただただ突き付けられているようにしか感じず、絶望ばかりが募るのです。

こういう現象があらゆるところで起きるようになっていったのですね。

たとえばこのあたりの時期から、
自分はバラエティ番組などのテレビを見られなくなっていきました。

よくおぼえているのが、以前は普通に笑って見ていた
当時の人気番組だった「恋のから騒ぎ」が全く笑えなくなったのですね。

要は恋愛に関する馬鹿げた話を笑うような番組ですが、
「人間とは無償の愛を目指すべきであるはずなのに、
愛という言葉を弄んでるだけで実際には剥き出しのエゴの綱引きでしかなく、
永遠の無償の愛なんてものとは程遠いことしかできていない」
という価値観が生まれている自分には、もはや恋愛にまつわる与太話は
「いかに人間とは愚かか」を見せつけられてる気分にしかならなくなったのですね。

だからそれを笑い話にできる出演者の姿も、それを笑って眺める視聴者も
そうした構図全体がもう自分には耐え難いものになってしまったのです。

あらゆるテレビ番組についてそうした心境になったわけではないですが、
「以前は普通に感じたものに絶望する」という現象はどんどん拡大していきました。

そしてこうした現象が起きると、友人関係にも一定の問題が生じてきます。
それまで笑えた話が笑えなくなってくるみたいな現象が起きてきますからね。

ただそこは折り合いをつけるために、特に心境の変化はないように振る舞い、
以前の自分の“フリ”をすることに徹していたところがありましたね。

だから顔で笑って心は完全に冷え切っている、みたいなことが増えていきました。

でも19歳ぐらいのときにはだんだんとそれを隠せなくなっていってましたが。
それでもまだ他人から見れば「それなりに普通に見える」範疇だったとは思います。

その状態が一線を超え始めたのがちょうど20歳になったあたりでした。

このときに自分の環境が非常に大きく変わったのですよね。
なので、従来の人間関係などもリセットする機会を得たのです。

18歳から19歳にかけて、いかに自分の欲望と向き合うかなども努力し、
でもやっぱり自分も所詮人間なのでそれはあまり上手くいかないわけです。

そうしたこともあって、自分も含むあらゆる人間への絶望が深まっていて、
人間という存在であることが嫌になり、人間を全く信じられなくなっていました。

そういう状態で環境の変化が訪れれば、
当然ながら友人を作ろうなんていうことすら考えなくなります。

自分から孤独を選び、ほぼ人間関係をシャットアウトした状態に入っていきます。

先に価値観の変化から以前笑えたものを笑えなくなったということを書きましたが、
それに連動して「自分はいったい何を楽しめばいいのか」がわからなくなってきました。

20歳の大学生がやる遊びとして連想されるものは、
ことごとく「人間の欲望の発散に過ぎない」としか見えなくなり、
楽しめるどころか強烈な嫌悪の対象にしかならなくなってるわけです。

「じゃあそうすれば、自分は何を楽しむことができるのか」と
自分に問うたときに、何も答えが出なくなってしまったのですね。

こういう状態が加速すれば、行き着く先は希死念慮しかありません。

実際に20歳のときは「死にたい」ということしか頭にありませんでした。

先にも書いたように自分が人間という愚かな存在であることが耐えられなかったし、
自分以外の人間という存在に囲まれながら生きることにも耐えられなかったですからね。

この頃の自分は他人から見てもおそらくはっきりと危険な状態だったと思います。

もう24時間つねに目があからさまに死んでる状態でしたからね。

友人と電話してるときに「死にたい」って言ったら絶句されて、
そのときは「あれ、そんな変なこと言ったっけ」と思ってましたが、
それぐらい感覚が他の人とはズレてしまっていたのですよね。

自分でもおぼえてるのは夏休みに帰省してきたときに
兄の家の部屋の隅でただずっとうつむいていて、
何の用事もないのに3日ぐらいで独り暮らし先に戻ったときですね。

親族も含めて、とにかく人との関わりを避けたかったのでしょうね。

別に用事も何もなかったので夏休みの間ずっと大阪にいても良かったのに、
逃げるように3日ぐらいで独りでの生活に逃げ帰ったような感じでしたね。

このときに大阪の駅にいるときに電車が通過するときに
ふらふらと無意識に電車に近づきかけてハッとしたのですよね。

もう体が無意識に死を望んでいるという、そんな状態でした。

そんなメチャクチャとしか言いようのない状態でしたが、
こうした状態が進んだ18~20歳の時期に大きくプラスに変化したこともありました。

それは自分が他人やいろんな生き物にものすごく優しくなったことです。
人に対して心は閉ざしてるけど、優しさは明らかに大きく増しました。

これはもちろん「理性的な存在でありたい」という価値観からきたものですね。
言い換えれば「慈愛に満ちた存在でありたい」ということでもありますので。

これは今も続いていて、たとえば懐いてくれる近所の小学生姉妹に対して
やたらと優しくするのも、こうしたところが出発点にあるわけですね。

この後も自分の基本的な価値観に関しては変わらないものの、
この強烈な絶望と希死念慮からは脱出する方向に向かっていきます。

次回はそのあたりの心境の変化などについて書いていきたいと思います。

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テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記

コメント

 
ニンゲンに期待しすぎちゃうと生きづらいかもだよね。アホでだらしなく、かっこ悪い無様な生き物、でも必死に良くあろうともがいている、まぁ、もがかず流されている人もいるけれど。
もうあんまり残された時間は多くはないけれど、鳥天、無様に這いつくばっても心は高く、しぶとく生きていくわ!
鳥天さん、こんにちは。

この当時に比べると人間への期待はかなり低くはなりましたね。

「人間はどうあるべきか」ということへの価値観は特に変わってないですし、
今でもあまりにひどい人達に対しては強い軽蔑の念を抱いてはいますが、
今はもう他人よりも自分がどうあるべきかのほうへお関心が遥かに強いですね。

ウンザリはするけど、他人はまぁどうでもいいやという感じと言いますか。

あとはまぁ比較的最近の話ではありますけど、
自分ほど過度ではないにしろ、人間の善性を追求したいと考えている人が
自分以外にも少なからずいることがわかって救われたところも多少はありますね。

ではでは、コメントありがとうございました!(゚x/)

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