母の葬儀が終わりました

11月4日に母の葬儀が終わりました。

これから母の死去に伴う市役所などでの手続きが必要になりますが、
とりあえずは葬儀が終わったことで一段落はついたと思います。

母が亡くなった11月1日から葬儀のあった4日までは、
精神的な面よりも肉体的な疲れのほうが大きかったですね。

打ちひしがれてる暇もないぐらいに予定が立て込んでいる感じで、
特に1日は午前3時に病院に電話があって昼の12時から葬儀会社との打ち合わせと、
全く寝ることなくひたすら何かに対応していないといけなかったですからね。

2日も3日の葬儀にかかわる用事があり、
また葬儀当日にお棺に入れるためのものを探しに行ったりと、
この2日間もまたゆっくりできるような感じではなかったですからね。

そして葬儀当日はその後のイベントも含めて時間が非常に長かったですし、
家に帰ったときにはもう完全に疲れ果ててしまっていました。

ただ今後は手続きなどの予定は残ってはいるものの、
この数日のような忙しさになることはないので、
少しは落ち着くことができるだろうなとは思います。

2日は亡くなった母の体をお風呂に入れてあげて、
化粧をほどこしてあげるという儀式だったのですが、
最初はかなり複雑な気持ちでそれを見ていたのですよね。

亡くなった体をバスタブに動かすような場面を見てると、
「遺体には酷なことなのではなかろうか」と思ったのですが、
最終的に髪の毛などもきれいに整えられたことを見て、
「あぁ、天国に出発させてあげられる準備ができたな」と
安堵するような気持ちにたどり着きました。

3日は1時間ほど母のなきがらと時間を共にできる機会でしたが、
1日も2日も4日も葬儀関連のイベントとしてしか母を見られないのに対して、
この日はほぼフリーで母と接することができたので、
自分としてはけっこう貴重な時間を過ごせたと感じました。

4日の葬儀当日はお棺に花を入れたりする場面も印象的でしたが、
最も記憶に残っているのは火葬する直前ですね。

いくらもう命がないとはいえ、まだこの段階では体はありますし、
火葬場に入るということは身体を焼くということですから、
「あぁ、ここに入るともうこの顔は見てあげられないんだな」
「これによって身体はもう完全にこの世からなくなるんだな」
と、そうした感情が強く湧き上がってきたのは事実ですね。

そして葬儀が終わって家に帰ると、
今度は母のものを処分いていく段階に入るわけです。

今はまだ母の生活のためのものが家に多く残っていて、
家での生活そのものは母の入院中とほぼ変わらないのですが、
ものを処分していくと母の生活の面影が家からなくなっていくので、
そのときは否応なく「母のいない生活」の実感が湧いてくるのでしょう。

かといって、もう使わないことがわかっているものを
いつまでも家に置いておくのも違和感がありますからね。

いずれにしても時間というのは進んでいかざるをえないですからね。

この記事をアップしたのが11月7日と葬儀から3日経ちましたが、
葬儀が終わってからもやはり肉体的な疲れが残っていたのでしょうね。

すぐに記事を書く力が出ず、無意識に時間が経ってしまいました。

気付いたら思っていた以上に長時間眠っていたこともありましたし、
やはり11月1日から葬儀までの4日間に疲れがたまっていたのでしょう。

とはいえ、まだ全てが片付いたというわけでもないのですよね。

これから入院費の支払い、役所での手続き、お墓の下見、
仏壇仏具について、介護用品の返却など、やるべきことが多くあります。

それが進むにつれてさみしさも出てくると同時に、
新しい生活への一歩一歩踏み出すことにもなるのでしょう。

ブログについても徐々に更新を復活させていきたいと思っています。

今の段階では決してものすごく塞ぎこんでるとかいうことはなく、
どちらかと言えば肉体的な疲れが残っているという感じなので、
あと数日もすれば再び元気に活動できるようになると思います。

それでは、これからも自分なりに何とかやっていきます。

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テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記

コメント

 
おはようございます。葬儀お疲れさまでした。親を亡くした時の喪失感は確かに大きいですね。その際、心の準備が出来ているか、否かの違いは大きい気がします。
私事で恐縮ですが、遺骨については本人が海洋散骨を希望ということで、未だに私の部屋に置いたままになっています。
遺品は結構ありましたが、少しずつ処分しています。徐々に親としての母でなく、人としての母がどんな人物であったのかを実感できる気がします。形而上の思い出は、時の経過とともに徐々に浄化するのだろうというくらいの気持ちでおります。
かーとさんにおかれましては、無理をなさらずに、先ずはゆっくりと心身をお休めになってください。
◎まとめ◎
近況をお知らせ頂き感謝申し上げます。ありがとうございます。
葬儀お疲れ様です。
今は 体の疲れの方が強いとのこと なかなかゆっくりと休むことは出来ないでしょうが、 無理をせず 少しでも休んでください。

  駐在おやじ
かーとさま
葬儀終わったとのこと大変お疲れさまでした、とにかくやることが一杯でしょうから精神的な部分より肉体的疲れをずいぶん感じるでしょうね。
そちらでは沐浴の習慣があるんですね。私もだいぶ前名古屋の親戚の葬儀にいって沐浴に立ち合ったんですが残された家族にとってはありがたいものですね。こういう儀式を経て亡くなった方に対する心の整理ができていくと強く感じました。
火葬の直前は形として最後に見れる瞬間ですからやはりいろいろな思いがこみあげてきますね。
葬儀後、お母さまのものの処分とかいろいろあるんでしょうが、今はいつもそこにすわってたお母さまだけがいなくなったという空虚感がなんか嘘か夢のように感じられてるかもしれません。
いろいろ処分とか手続きを進めていくと思い入れのある品々を眺めながらさらに寂しさも感じることと思います。それも心の整理をするためのおこないですね。やがてはお母さまとの思いでを笑って語らえる日がきっと来ると思います。

今はずいぶん体の疲れがたまってるようですので休めるときは十分お休みくださいね。


今はまだやらないといけないことが多くて、気持ちも張っているでしょうけれど、落ち着いてきたころにどっと疲れが出たり寂しががこみ上げてくるものですから・・・。
お風呂のことや火葬のこと、父が亡くなった時のことを思い出しました。父とよく喧嘩していた私ですが、亡くなってから葬儀の間も火葬の時も、まぁとにかくよく泣きました。家族も「あんなにお父さんのことみそくそ言ってたのに、一番泣いてたね」と驚くくらい。家族ってそういうものですからね。
とにかくお疲れが出ませんように。少しでも時間見つけて身体を休めてくださいね。
横町さん、こんにちは。

自分の場合、横町さんのおっしゃるように
心の準備ができていたというのは大きかった気がします。

もしこれが交通事故とかだったら受け止めきれなかったかもしれません。

母の件は10月19日の面会が非常にショッキングで、
嫌でも死を意識せざるをえなくなってしまいましたからね。

>私事で恐縮ですが、遺骨については本人が海洋散骨を希望ということで、未だに私の部屋に置いたままになっています。

これは難しいですよね。

どのような機会に海洋散骨すればいいかなども難しいですし、
なかなかその機会を作るのも大変でしょうからね。

母は私が12歳のときにくも膜下出血になったことで、
そこから性格がずいぶんとやわらかくなったのですよね。

それゆえ親でありながら、親というよりは優しく接してあげる対象という、
不思議な関係であったことがどこか大きな意味を持っている気もします。

自分が接してこなかった母の側面もこれから体感することにもなるのでしょうね。

それでは、温かいお言葉をありがとうございました。
駐在おやじさん、こんにちは。

葬儀も終わって、やっと一息つけるようになってきた気がします。

身体の疲れも今日あたりから徐々に軽くはなってきましたね。
とはいえ、まだまだ用事はいろいろと残ってはいるのですが。

ただ毎日がバタバタしてる状態からは解放されそうです。

それでは、温かいお言葉をありがとうございました。
とら次郎のとうちゃんさん、こんにちは。

なんだか悲しんだり感傷に浸っている暇すらないような、
ただただ物事の流れに追われているような日々でしたね。

沐浴についてはもともとの予定には入っていなかったのですが、
昨年退院してきてから介護の関係で風呂に一度も入れてあげられず、
それゆえせめて亡くなった後ぐらいはと考えてしてあげました。

でもそれによってきれいな姿で天国に行かせられたのは良かったと思います。

火葬の直前、火葬場に入る瞬間はやはり感じるものがありましたね。
命はなくとも、身体はまだそこにあるというのは多少の救いにはなりますからね。

母に関するものの処分は徐々に進めていってはいるのですが、
まだやはり母のいない生活への実感がないといいますか、
「母の入院中」の延長線上がどこか続いている感覚ですね。

でもどこかでそれとは違う感覚が生まれてくるときがあるのでしょうね。

以前は疲れたときは24時間一気に寝るなどの豪快なこともできましたが、
最近は長くてもその半分くらいしか連続で寝られないですが、
それでもゆっくりと体を休めていきたいと思います。

それでは、温かいお言葉をありがとうございました。
leaves先生、こんにちは。

やっぱり今はまだ「あとはこの用事とこの用事を」というように、
todoリストばかりが頭の中を駆け巡っているという感じですね。

母がいない生活そのものは入院中に何度か体験はしているものの、
今回はもう入院ではなく、完全にこの世にいないわけですから、
その違いをどこかではっきりと実感する瞬間が来るのでしょうね。

実は私と兄は葬儀などのときに全然泣かなかったのですよね。

自分については抗うつ剤による緩和効果も影響していると思いますが。

おそらく兄も自分も面会のときのほうがショックだったと思います。

あのときに「これはもう数週間もてばいいほう」と痛感しましたからね。
どこか冷静というか、受け入れる構えはできていたように思いますね。

とはいえ、実感がまだないという側面も大きいように思います。
そこが今後どうなってくるのかは正直不安でもありますね。

そして同時に「父の気持ちを支えてあげないとな」という思いも強いです。

それでは、温かい言葉をありがとうございました。
葬儀って亡くなったことを実感するとともに、慌ただしくすることで悲しみを紛らわせるって面もあるよね。次々とお別れの準備が進んでいき、お骨になるのを待つ間、本当にお別れなんだって思うよね。まだまだ手続きや片付けなど忙しいだろうけれど、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、身体にも十分気を配るのよ!本当にお疲れさまでした。
鳥天さん、こんばんは。

>慌ただしくすることで悲しみを紛らわせるって面もあるよね

なるほど、忙しいがゆえにその間に少し気持ちが和らぐというか、
そういう側面もあるんだなというのは初めて気づきました。

たしかにあまりに死と向き合い過ぎると精神的に疲弊しますし、
ある意味では忙しい時間がそのクッションになっているのかもしれませんね。

火葬の直前もそうですが、最近は遺影を飾ってあるリビングに行くと、
やはり「もう母はいないんだな」という実感が出てきますね。

「もう生きて帰ってくることはない」と突き付けられる感覚があります。

とにかく今は睡眠をしっかり取ることには気を遣っていますね。
睡眠不足になってしまうといろいろと不安定になりますからね。

それでは、コメントありがとうございました。

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