11年目の「いのちの日」を迎えました
この6月4日で、11年目の「いのちの日」を迎えました。
「いのちの日」は簡潔に言うと、飼っていた金魚さんが亡くなった日で、
その日から11年が経ったということになります。
その6月4日を「いのちの日」と呼ぶようになったのは昨年からで、
今年もその「いのちの日」という呼び方を継承しています。
例年はこの記事の冒頭で金魚さんが亡くなるまでの経過を
詳しく書いていたのですが、今年はそれについては割愛します。
またいつもはこの6月4日の1週間ぐらい前から、
当時書いた文章などを読み返すことによって、
自分の気持ちを当時の状態に引き戻して行って、
そこから湧き上がってくる感情と向き合うことで、
新たな発見をするという流れで過ごしていたのですが、
今年はあえてそれはしないという選択を取りました。
それにはいくつか理由があるのですが、
その最大の理由は今ちょうど精神面が非常に安定していることもあり、
自分の気持ちをあえて深いところ、暗いところに潜らせていくような
そうしたことは避けたいと思ったということがあります。
もともとこの時期はそのプログラムをこなすことで
1週間ほどかなりバタバタした過ごし方になっていましたし、
そうした過ごし方を避けたかったというのもあります。
要するに今は気持ちの安定の継続を優先したかったのですね。
もちろん自分にとって6月4日やその日までのプログラムというのは
非常に重要ではあるのですが、あえて違う選択肢を取りました。
そして第二の理由はこの時期に湧き出てくる感情が
ここ数年ほど停滞気味になっていたということがあります。
この時期はとにかく過去に書いた文章などを読み直しつつ、
この時期の意義などについていろいろ考えを巡らせていたのですが、
5年目と6年目に非常に多くの発見があったことによって、
考えることがもう出尽くしてしまった感があったのですよね。
そのため7年目からは何か他の出来事と絡めて考えることが多く、
純粋に金魚さんとの記憶を振り返る感じではなくなってきていました。
特に9年目のときは他に絡めて考えることもあまりなかったため、
過去の文章などを読んでもそこまで気持ちが揺れ動くこともなく、
非常に淡々とした過ごし方になったりしていたのですね。
昨年の6月4日の記事はそれなりに重いものにはなっていましたが、
金魚さんというよりはにゃんこの死と向かい合ったという感覚が強く、
やっぱり6年目までとはかなり違っていたことは否めないのですよね。
昨年は「にゃんこを亡くしたことへの虚無感によって、
この日の感情の動きが弱まってしまった」と書いていましたが、
これも今読み直すと「昨年はそう解釈した」という感じが強く、
実際には9年目の時点で感情の動きが弱まっていたことを考えると、
本当は直接的な要因は9年目と特に変わらなかったと思います。
このようにプログラムをこなしても感情の揺れ動きが弱く、
気持ちを当時に引き戻すことが上手くいかなくなってくると、
この時期を毎年同じように過ごす意義も薄れてくるのですよね。
それでいったん例年の流れを変えてみる試みを考えたわけです。
それが「あえてプログラムをこなさない」ということに繋がりました。
第3の理由は、今年あえて例年と違う過ごし方をすることによって、
来年以降の選択肢を増やしたかったということもあります。
自分の感じ方などが大きく変わってきているのに、
過ごし方だけはずっと例年と同じようにしていると、
どうしても形骸化していくことは否めないですからね。
7年目からずっと停滞気味になっていたことを考えると、
どこかで一度違う過ごし方をすることは必要だったように思います。
もっとも来年のこの時期をどのように過ごすことになるかはわかりません。
これまでのプログラム通りに過ごすということもあり得ますし、
今年のようにあえて何もせずに過ごすというのもありますし、
さらに第三の選択肢を考えるということもあり得るでしょう。
また毎年書いているこの6月4日の記事についても、
来年以降も続けるべきなのかどうかは決めていません。
どうしてもさすがに11年目ということになると、
見ている方からは「いつまで引きずっているんだ」
という感覚はどうしても出てくるでしょうし、
そのあたりも改めて考える必要はあるのでしょうね。
しかも7年目からはだんだんと内容も薄まってきていますし。
さて、そうしたことから今年はお庭の写真もなしです。
今年はお花を飾ってないので写真を撮っても仕方ないですしね。
6月3日には「お花を買いに行こうかな」と思ったりもしましたが、
「いや、今年はあえてそうしない選択をしたのだからやめておこう」と、
なんだか微妙に転倒したような考えでもありますが、それを貫きました。
やっぱり6月4日がすぐそこに近づいてくると、
いつものように過ごしたいという気持ちも湧いては来ますね。
そして例年はここで金魚草の紹介もしていたのですが、
今は金魚草を庭に植えていないのでその写真もないです。
ただこれは意図したものではなく、不運が理由ではあるのですが。
本当は5月の初旬に金魚草を買いに行って植える予定だったのです。
でも5月13日頃から精神転落期になって記憶がおぼろげになったことで、
金魚草を買いに行くタイミングを逸してしまったのですね。
5月20日ぐらいになると、金魚草も残り物ぐらいしかなくなるので、
「仕方ないから、次に金魚草を買ういいタイミングになる10月にするか」
と金魚草を買う時期を先送りすることになったのです。
本当ならせめて金魚草の写真ぐらいはこの記事に載せたかったのですが。
そうしたこともあり、ほんと今年のこの記事は特に何もなくなっちゃいました。
来年どのようにするかは、来年のこの時期にどのような感情が湧いてくるか、
それによって来年改めて考えて決めようと思います。
ただ今年のように「あえて何もしない」ことにはならないように思います。
せめてお花は飾って、金魚草は普通に育てるようにしたい気持ちがありますね。
やっぱり何もしないというのは、どこかさみしい気持ちも湧いてきますし。
ということで、「あえて何もしない」ということにした今年の6月4日でした。
The Beach Boys - Passing By (1968)
「いのちの日」は簡潔に言うと、飼っていた金魚さんが亡くなった日で、
その日から11年が経ったということになります。
その6月4日を「いのちの日」と呼ぶようになったのは昨年からで、
今年もその「いのちの日」という呼び方を継承しています。
例年はこの記事の冒頭で金魚さんが亡くなるまでの経過を
詳しく書いていたのですが、今年はそれについては割愛します。
またいつもはこの6月4日の1週間ぐらい前から、
当時書いた文章などを読み返すことによって、
自分の気持ちを当時の状態に引き戻して行って、
そこから湧き上がってくる感情と向き合うことで、
新たな発見をするという流れで過ごしていたのですが、
今年はあえてそれはしないという選択を取りました。
それにはいくつか理由があるのですが、
その最大の理由は今ちょうど精神面が非常に安定していることもあり、
自分の気持ちをあえて深いところ、暗いところに潜らせていくような
そうしたことは避けたいと思ったということがあります。
もともとこの時期はそのプログラムをこなすことで
1週間ほどかなりバタバタした過ごし方になっていましたし、
そうした過ごし方を避けたかったというのもあります。
要するに今は気持ちの安定の継続を優先したかったのですね。
もちろん自分にとって6月4日やその日までのプログラムというのは
非常に重要ではあるのですが、あえて違う選択肢を取りました。
そして第二の理由はこの時期に湧き出てくる感情が
ここ数年ほど停滞気味になっていたということがあります。
この時期はとにかく過去に書いた文章などを読み直しつつ、
この時期の意義などについていろいろ考えを巡らせていたのですが、
5年目と6年目に非常に多くの発見があったことによって、
考えることがもう出尽くしてしまった感があったのですよね。
そのため7年目からは何か他の出来事と絡めて考えることが多く、
純粋に金魚さんとの記憶を振り返る感じではなくなってきていました。
特に9年目のときは他に絡めて考えることもあまりなかったため、
過去の文章などを読んでもそこまで気持ちが揺れ動くこともなく、
非常に淡々とした過ごし方になったりしていたのですね。
昨年の6月4日の記事はそれなりに重いものにはなっていましたが、
金魚さんというよりはにゃんこの死と向かい合ったという感覚が強く、
やっぱり6年目までとはかなり違っていたことは否めないのですよね。
昨年は「にゃんこを亡くしたことへの虚無感によって、
この日の感情の動きが弱まってしまった」と書いていましたが、
これも今読み直すと「昨年はそう解釈した」という感じが強く、
実際には9年目の時点で感情の動きが弱まっていたことを考えると、
本当は直接的な要因は9年目と特に変わらなかったと思います。
このようにプログラムをこなしても感情の揺れ動きが弱く、
気持ちを当時に引き戻すことが上手くいかなくなってくると、
この時期を毎年同じように過ごす意義も薄れてくるのですよね。
それでいったん例年の流れを変えてみる試みを考えたわけです。
それが「あえてプログラムをこなさない」ということに繋がりました。
第3の理由は、今年あえて例年と違う過ごし方をすることによって、
来年以降の選択肢を増やしたかったということもあります。
自分の感じ方などが大きく変わってきているのに、
過ごし方だけはずっと例年と同じようにしていると、
どうしても形骸化していくことは否めないですからね。
7年目からずっと停滞気味になっていたことを考えると、
どこかで一度違う過ごし方をすることは必要だったように思います。
もっとも来年のこの時期をどのように過ごすことになるかはわかりません。
これまでのプログラム通りに過ごすということもあり得ますし、
今年のようにあえて何もせずに過ごすというのもありますし、
さらに第三の選択肢を考えるということもあり得るでしょう。
また毎年書いているこの6月4日の記事についても、
来年以降も続けるべきなのかどうかは決めていません。
どうしてもさすがに11年目ということになると、
見ている方からは「いつまで引きずっているんだ」
という感覚はどうしても出てくるでしょうし、
そのあたりも改めて考える必要はあるのでしょうね。
しかも7年目からはだんだんと内容も薄まってきていますし。
さて、そうしたことから今年はお庭の写真もなしです。
今年はお花を飾ってないので写真を撮っても仕方ないですしね。
6月3日には「お花を買いに行こうかな」と思ったりもしましたが、
「いや、今年はあえてそうしない選択をしたのだからやめておこう」と、
なんだか微妙に転倒したような考えでもありますが、それを貫きました。
やっぱり6月4日がすぐそこに近づいてくると、
いつものように過ごしたいという気持ちも湧いては来ますね。
そして例年はここで金魚草の紹介もしていたのですが、
今は金魚草を庭に植えていないのでその写真もないです。
ただこれは意図したものではなく、不運が理由ではあるのですが。
本当は5月の初旬に金魚草を買いに行って植える予定だったのです。
でも5月13日頃から精神転落期になって記憶がおぼろげになったことで、
金魚草を買いに行くタイミングを逸してしまったのですね。
5月20日ぐらいになると、金魚草も残り物ぐらいしかなくなるので、
「仕方ないから、次に金魚草を買ういいタイミングになる10月にするか」
と金魚草を買う時期を先送りすることになったのです。
本当ならせめて金魚草の写真ぐらいはこの記事に載せたかったのですが。
そうしたこともあり、ほんと今年のこの記事は特に何もなくなっちゃいました。
来年どのようにするかは、来年のこの時期にどのような感情が湧いてくるか、
それによって来年改めて考えて決めようと思います。
ただ今年のように「あえて何もしない」ことにはならないように思います。
せめてお花は飾って、金魚草は普通に育てるようにしたい気持ちがありますね。
やっぱり何もしないというのは、どこかさみしい気持ちも湧いてきますし。
ということで、「あえて何もしない」ということにした今年の6月4日でした。
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テーマ : ひとりごとのようなもの | ジャンル : 日記
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亡くした大切な子を悼む気持ちは何年たっても消えないけれどね、そこに囚われっぱなしじゃマズいよね。わかっちゃいるんだけれどねー、やっぱり私も未だにぴ~こを呼ぶわ(*´艸`)
横町さん、こんばんは。
金魚さんやにゃんこへの思いは年月が経ってもやはり消えることはないですね。
さすがに11年ともなると、命日とどう向かい合うかというテーマも出てきますし、
空に旅立ってすぐの頃のように鮮烈な思いが湧き上がるわけではないですが、
時間によって癒されながらも、心の中にはいつも金魚さんやにゃんこの
記憶をしっかりと残しておきたいと思っています。
>以前の夢を見る記事(中村主水の夢)の返しコメントに際し、
>リベンジ(意趣晴らし)の意図をさほど感じませんでした。
これは横町さんの御推察通りで、今の私は何かに対する
リベンジの思いを胸の中に温めているということはあまりないですね。
それゆえ中村主水に抱くイメージも「闇社会や社会の暗いところも見てきた人物」
というふうに受け止めているところが大きくありますね。
そのあたりのイメージは当時見た白昼夢にも反映されていたように思います。
新しい形でブログが再会できていることへのお祝いの言葉、誠にありがとうございます。
それでは、コメントありがとうございました。
金魚さんやにゃんこへの思いは年月が経ってもやはり消えることはないですね。
さすがに11年ともなると、命日とどう向かい合うかというテーマも出てきますし、
空に旅立ってすぐの頃のように鮮烈な思いが湧き上がるわけではないですが、
時間によって癒されながらも、心の中にはいつも金魚さんやにゃんこの
記憶をしっかりと残しておきたいと思っています。
>以前の夢を見る記事(中村主水の夢)の返しコメントに際し、
>リベンジ(意趣晴らし)の意図をさほど感じませんでした。
これは横町さんの御推察通りで、今の私は何かに対する
リベンジの思いを胸の中に温めているということはあまりないですね。
それゆえ中村主水に抱くイメージも「闇社会や社会の暗いところも見てきた人物」
というふうに受け止めているところが大きくありますね。
そのあたりのイメージは当時見た白昼夢にも反映されていたように思います。
新しい形でブログが再会できていることへのお祝いの言葉、誠にありがとうございます。
それでは、コメントありがとうございました。
鳥天さん、こんばんは!
金魚さんもにゃんこも心の中で自分と一体の存在になっていますが、
一方で命日などをどう迎えてあげればいいか少し迷ってしまう、
10年前と全く同じように命日を迎えるのも違うような気がしますし、
一方で記憶が薄れてしまうこともあってはいけないと思いますし、
来年からは何か新しいこの日の迎え方を考えたいという思いがありますね!(●・ω・)
鳥天さんはまだまだぴ~こちゃんの傷が癒えないのは仕方ないですよ!
やっぱり少なくとも2年ぐらいの時間は必要になると思います!
そしていつか旅立ったさみしさよりも、一緒にいた頃の楽しさのほうが
心にいっぱいになってきて、新しいステージに立てるような気がします!
ではでは、コメントありがとうございました!(゚x/)
金魚さんもにゃんこも心の中で自分と一体の存在になっていますが、
一方で命日などをどう迎えてあげればいいか少し迷ってしまう、
10年前と全く同じように命日を迎えるのも違うような気がしますし、
一方で記憶が薄れてしまうこともあってはいけないと思いますし、
来年からは何か新しいこの日の迎え方を考えたいという思いがありますね!(●・ω・)
鳥天さんはまだまだぴ~こちゃんの傷が癒えないのは仕方ないですよ!
やっぱり少なくとも2年ぐらいの時間は必要になると思います!
そしていつか旅立ったさみしさよりも、一緒にいた頃の楽しさのほうが
心にいっぱいになってきて、新しいステージに立てるような気がします!
ではでは、コメントありがとうございました!(゚x/)
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私事で恐縮ですが、以前の夢を見る記事(中村主水の夢)の返しコメントに際し、リベンジ(意趣晴らし)の意図をさほど感じませんでした。
私の場合はこれまでに外部から相応の仕打ちがあったので、中村主水のキャラクターにはどうしても意趣晴らしを重ねまてしまいます。(俗人の性と認識しています;)
それはさておき、新たな境地でのブログ復活を改めてお慶び申し上げます。本日も近況をお知らせ頂きました。かーとさん、今週もいい週になることを祈念しています。ありがとうございます。