深海 / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎まずはシーラカンスとは何だったかを思い出そう
この“深海”では、再び「シーラカンス」が歌詞の中に何度も登場する。
そこで理解を深めるためにも「シーラカンス」が何だったかを振り返っておこう。
「シーラカンス」とは「かつて自分達が賛美していた愛・夢・希望などのことで、
かつてあったと思っていたけど、今では本当になるのかどうかわからないもの。
そして、今あったとしても価値があるかのかどうかすらわからないもの。」だった。
これについては桜井氏もインタビューが、
「“シーラカンス”っていうもので表現したいのは、要するに、
“かつてあったと思われていたもの。でも、今はあるんだかないんだかわからない。
そしてあったとしても、何の役にも立たないかもしれないもの”。
つまり、愛とか夢とか希望とかっていうもの」[1]
と極めてわかりやすく答えている。
したがって、この“深海”におけるシーラカンスへの問いかけは、
「奥深くにまだ存在するかもしれない愛や夢への問いかけ」
と考えればいいだろう。
◎『深海』とは、心の奥深くへの旅による無限の問い
それを踏まえたうえで、まずは冒頭の歌詞を追っていこう。
「僕の心の奥深く 深海で君の影揺れる」[0]
ここで、“深海”とは何であったかが明確に語られている。
“深海”とは「深い海の底」にたとえられた、「心の奥深く」だったのだ。
すなわち、この『深海』というアルバムは「心の奥深くへの旅」、
心の奥深くへ潜っていくことによって、普段表層的には考えないこと、
どうしても表面的に考えてしまうことなどを深く掘り下げていき、
「人生に意味はあるのかないのか」、「愛とは何であるのか」、
「愛は本当に存在するのか」、「愛は存在するとして意味はあるのか」、
「夢はかなえることに意味はあるのか」、「この世界に希望はあるのか」、
こうした奥の深いテーマを限界まで掘り下げる作品であったことになる。
この点については桜井氏もインタビューで、
「“深海”って例えてるけど、心のすごく奥深いところ……普通に生活してると、
そこにはなかなか目を向けたがらない部分にまで探究していくっていうような、
そういうコンセプトですね。」[2]
と語っている。
◎無邪気に夢を追いかけていた少年時代
続く歌詞は「シーラカンス」の意味を理解すれば簡単に読み解くことができる。
「あどけなかった日の僕は
夢中で君を追いかけて 追いかけてたっけ」[0]
「君」が指しているのは、もちろんシーラカンスである。
少年時代の桜井氏が、無邪気に─本当は存在するかもわからない─夢、
すなわちミュージシャンになることを夢中で追っていた日々を描いている。
◎そして再びシーラカンスに行く先を問う
アルバム『深海』冒頭の“シーラカンス”においても、
桜井氏は“シーラカンス”にその行き先を問いかけていた。
ただ両曲ではっきりと異なっていることが2つある。
“シーラカンス”では、まだ心の海へと飛び込んだ段階であり、
心の奥深くに済むシーラカンスとまだ出会ってはいなかったのだ。
だから「君はまだ深い海の底で静かに生きてるの?」[3]と、
シーラカンスが存在しているかどうかすら問うていたのだ。
一方で最終曲の“深海”での語り口は、すでに深海へと到達し、
「深海で君の影揺れる」[0]と影が見えるほどにその存在に近づき、
シーラカンスの存在を近くに実感しながら語りかけているのだ。
だから“深海”におけるシーラカンスへの桜井氏の語りは実に優しい。
「シーラカンス これから君は何処へ進むんだい
シーラカンス これから君は何処へ向かうんだい」[0]
しかしここでも『深海』冒頭の“シーラカンス”と大きな違いが見られる。
“シーラカンス”では、まだ見ぬ存在であるシーラカンスに対して、
「君はまだ七色に光る海を渡る夢見るの?」[3]というように、
シーラカンス─すなわち愛や夢─が再び世界の主役となって、
輝かしい存在になることをどこかで求めるような言葉があった。
そしてそれは“シーラカンス”の歌詞の後半で見られる、
「僕の心の中に君が確かに住んでいたような気さえもする」
「ときたま僕は 僕の愛する人の中に君を探したりしてる」
「君を見つけ出せたりする」[3]
のように、シーラカンス─愛や夢─にまだ希望を持っていた。
しかし、この最終曲の“深海”の語りにはそうした希望は見えない。
アルバム『深海』のこれまでの流れを通じて、
再びシーラカンス、そう愛や夢が輝かしい存在になることは、
ありえないことであると桜井氏は確信に至っていたのだ。
だからここでシーラカンスに語りかける言葉には、
「君はもうこの深海から浮上することはないんだね」
という事実を踏まえているがゆえの優しさを帯びている。
◎救いとしての「死」の浮上
2番に入り「失くす物など何もない」[0]と桜井氏は語る。
ここに少なからず疑問を抱いてしまう人も多いのかもしれない。
日本を代表するミュージシャンという栄光を手にし、
リリースする曲がどれも巨大セールスを収める、
そんなMr.Childrenの桜井和寿になったというのに、
「失くす物など何もない」というのはどういうことなのかと。
しかしそれについては、桜井氏はとうに
“【es】 ~Theme of es~”において答えを出している。
桜井氏はそこで「栄冠も成功も地位も名誉も たいしてさ 意味ないじゃん」[4]と叫び、
夢を叶えた先の道を「Ah Ah 長いレールの上を歩む旅路だ」[4]と語っている。
夢を叶えた先に手にしたものにむしろ絶望していた桜井氏にとっては、
それで得たものは「失くす物など何もない」も同然だったのだ。
だからこそ桜井氏は夢や愛を自己の原動力にすることができなくなり、
人間が誰しも持つ「情動の源泉」たる「es」にしか頼れなくなったのだから。
言わばこのときの桜井氏はあらゆるものへの希望を失いながら、
ただ「es」のなすがままに動き、ただ生き長らえているという、
「無の世界の中に無のまま生きている」ような状態であった。
そこで桜井氏の中に「とは言え我が身は可愛くて
空虚な樹海を彷徨うから 今じゃ死にゆくことにさえ憧れるのさ」[0]
と「死」がついに救いの手段の一つとして浮上していくことになる。
桜井氏が『深海』制作時の強い自殺願望はインタビューでも語られている。
「……だから『深海』を作ってるときっていうのは(略)
……ほんとにもう、いつも『死にたい、死にたい』っつう感じでしたからね。」[5]
「だから『深海』のときはほんとに自殺しようと思ってた」[5]
◎シーラカンスに連れ戻される先 - 死
そして曲は後半に入ると大きく曲調が変わるとともに、
桜井氏はシーラカンスにひたすら「連れ戻してくれないか 僕を」[0]と叫ぶ。
では、いったいシーラカンスに連れられて行く先には何があるのだろうか。
ここで“虜”から続く、「死の三部作」で語られたことを思い出してみよう。
アルバム『深海』を通して、いかに愛が信じられないかを自分に言い聞かせながら、
それでも「愛を信じたい」[6]とうめき、その先に「死」が見えたのが“虜”であった。
すなわち、「信じられぬ愛にすがる先にあるのは死のみである」というのが、
“虜”とそこから続く「死の三部作」の大きなテーマとなっていた。
そして“花 -Memento-Mori-”もまた、その「愛を信じたい」という思いを受け入れ、
その「死への道」は否定されないまま、この“深海”の底へと到達したのだった。
さらに今桜井氏は「信じられるはずもないが、どうしてもすがりたい一つの愛」を抱え、
その先に「死」があることも覚悟し、むしろ「死」に救いすら求める領域に達している。
そして、シーラカンスとは「もはや存在するかもわからない愛や夢の象徴」であった。
そこでシーラカンスに「僕も連れ戻してくれ」と叫び、
「その先に死しかないどうしてもすがりたい愛」を抱えたまま、
シーラカンスにすがりついて到達する先はどう考えても「死」しかないのだ。
すなわち、“深海”という曲は「桜井氏の死への渇望の叫び」をもって幕を閉じる。
◎『深海』の中での位置付け - 「死の三部作」の終着点
“深海”という曲が“Dive”“シーラカンス”のプロローグに対し、
エピローグとしての位置付けで対になっているということは、
誰もがわかることなので、ここでは最小限の説明にとどめておこう。
しかしあくまでの海の浅いところからシーラカンスに問いかけた
“シーラカンス”と、深海の底に到達してシーラカンスと出会い
そのうえで問いかけた“深海”の両者の差は重要な点であろう。
ただし、ここでは「死の三部作」の終着点としてこの曲を見ていく。
『深海』というアルバム全体を眺めてみると、
やはり“虜”という曲で一つの流れの逆転が起きていることに気付く。
“手紙”から“ゆりかごのある丘から”までは、
徹底して「愛とは信じられるものではない」と自分に言い聞かせていた。
その流れのまま進むのであれば、最深部である“深海”に到達したときも、
「存在するかどうかもわからない愛や夢の象徴」であるシーラカンスに対して
「君が存在しないことはわかったよ、お別れ」と告げればいいはずだった。
しかし“虜”において桜井氏は、
徹底的に「愛とは信じられるものではない」と自分に言い聞かせながら、
「信じれないとわかっていても、先に死があるとわかっても、愛を信じたい」
とうめき、それがアルバムの流れを逆転させ、最終盤で一気に死に向かっていく。
こうしてアルバム『深海』は「死の三部作」をもって終幕を迎えることになる。
しかし、本当にこれでいいのだろうか。
「死の三部作」からの歌詞を解釈を読み解いていくとしたら、
“深海”が「死への渇望の叫び」であることは否定のしようがない。
しかしそれでもなお、このアルバムにはまだ何か残っている気がするのだ。
◎音楽的に見て
桜井氏はプロローグとして“シーラカンス”を書きはしながらも、
最後を“深海”という曲にすることをすぐには決めなかったようだ。
桜井氏はアルバム『深海』の最後についてインタビューで次のように語っている。
「プロローグで“シーラカンス”っていうのがあったから、終わりをどうしようか、
って思ってて。“花”で救われて終わっちゃうのも、なんか物足りない気がしてて。
で、僕は“花”のあとに、もう1回“シーラカンス”か“手紙”のオーケストラをやって、
フェイドアウトしていって、“花”の後ろに“深海”の歌詞だけを載っけて終わろうかなと
思ってたんだけど、やっぱりメロディをつけて歌ったですね。」[2]
「これもニューヨークで詩から書いて、メロディはあとです。」[7]
アルバムの最後には“シーラカンス”や“手紙”のオーケストラの案もあったが、
最終的には“深海”を曲にして歌うことになったということであるが、
もう一つわかるのはこの“深海”は歌詞を先に作った歌ということである。
ところで私はこの“深海”を聴いているときに、
曲の中盤で曲調が大きく変わる前のピアノの音を聞いて、
Guns N' Rosesの“Estranged”を強く連想させられたことがある。
そしてこの曲は最後のギターソロをどうするか悩んでいたとき、
小林武史氏が「ガンズ(Guns N' Roses)のスラッシュみたいなソロ、どうかな?」
と言ったが、桜井氏はもともとエアロスミス以外のハードロックが苦手なこともあり、
ガンズ(Guns N' Roses)にも詳しくなかったこともあって、
最終的には桜井氏がエアロスミスのジョー・ペリー風のギターソロを弾いた経緯がある。[7]
ここで小林武史氏のこのときの提案を考えてみると、
小林氏はこの“深海”のアレンジをGuns N' Rosesの“Estranged”[8]か、
あるいは曲の後半だけGuns N' Rosesの“November Rain”[9]風にするか、
いずれにしても2つの曲調が大きく入れ替わり、エモーショナルなソロが入る、
そうした曲をイメージしていたのではないかとうかがうことができる。
◎おわりに
アルバムは“虜”から一気に浮上した「死」の勢いに飲み込まれ、
まるで桜井氏が「信じられぬ愛」を抱えてシーラカンスと心中した
としか解釈できないような終わりを迎えることとなった。
とはいえ、この曲をシーラカンスとの別れ、
すなわち「信じられるはずもない愛や夢との別れ」と解釈するのは難しく、
かといってシーラカンスが再び輝く存在になる解釈はもはやありえない。
やはり解釈としては、「信じられぬ愛を完全に捨てきれぬゆえに、
シーラカンスと心中するしかなくなった」というところに行き着くのだ。
しかし、どうしてもそこに疑問は残ってしまうだろう。
たしかにこの時期の桜井氏は強い自殺願望を抱えていたが、
実際には桜井氏はこのとき死を選んだわけではないからである。
ここに、アルバム『深海』の謎が一つ残ることになる。
そしてその謎は次に書くアルバム『深海』の最終記事で追っていくことになる。
◎出典
[0] “深海”の歌詞より
[1] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より
[2] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[3] “シーラカンス”の歌詞より
[4] “【es】 ~Theme of es~”の歌詞より
[5] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
[6] “虜”の歌詞より
[7] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[8] Guns N' Rosesの“Estranged”のミュージックビデオより
[9] Guns N' Rosesの“November Rain”のミュージックビデオより
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