花 -Memento-Mori- / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説

◎桜井氏自身も「本当の意味がまだわかってない」と語る曲の真意


当時のインタビュー記事などを探しながら、
この“花 -Memento-Mori-”について調べていく中で最も驚いたのは、
桜井氏が何度も「この歌の本当の意味が分からない」と答えていることだった。

実際に当時の桜井氏のいくつかのインタビューを見ていただこう。

「実は、僕にとって“花”って、どういう意味があったのか、
本当はわかってないところがあって……。これがアルバムの終着駅的な曲なのに。」[1]

「実はアルバムの中の曲で、この曲だけ自分でも本当の意味がわかってないところがあるんです。
でも、救いのない歌が続くし、この歌が唯一の救いなのかもしれません。」[2]

これからこの記事を通じて、この曲の歌詞を考察していくわけだが、
書いた本人すら「分からない」という曲を読み解くのは至難の業である。

この“花 -Memento-Mori-”については、
「『深海』というアルバムの唯一の救いの歌」
であるということはよく知られている。

しかし何ゆえそうなのかということについてはほとんど語られていない。
そしてそれは桜井氏自身が「語るに語れなかった」ためでもあろう。

かといって、決してこの“花”の歌詞がいい加減に書かれたわけではない。
むしろ当時の桜井氏にとっても非常に思い入れの深い歌であった。

それでも「分からない」という結論になってしまったのは、
当時の桜井氏がどのように詞を書いていたのかも影響している。

桜井氏は歌詞の書き方についてインタビューで、
「例えば、曲があって、その曲、アレンジやサウンドの中に、自分を一回、
ポーンと解き放しちゃうんですよ。だから、何を言ってやろう、
何を書いてやろうというのじゃなくて、自分をそれに乗っけてやると、
もうそこに歌詞が生まれている状況で。その歌詞を吐き出すことによって、
僕は浄化されているところがすごくありますね。」[3]
といった旨のことを何度か述べている。

すなわち、曲の中に自分を解き放つことで自然に出てきた言葉、
それがそのまま歌詞になっていたというのが当時の特徴であった。

ほとんどの場合は結果として自分が意識的に思っていたことが歌詞となり、
自然に出てきた言葉であっても意図や意味を説明できるものであったのだが、
この“花”では「自分は意識してなかったはずの言葉」が出てきたのだろう。

言い換えるなら、意識の上層部分において考えていたことが出てきたのではなく、
より深いところ、深層的な意識にあったものが、この“花”を書く際に出てきて、
それゆえに「自分でも意識的に説明できない」状態になったものと見られる。

しかしながら、それは決して「心にないもの」が歌詞になったわけではないので、
他の曲の歌詞やインタビューの断片から見えてくることを繋ぎ合わせていけば、
この“花 -Memento-Mori-”に込められた本当の意味というのが見えてくるだろう。

◎自分と他人の人生を俯瞰で見ながら


まずはこの曲の歌詞を最初のほうから見ていこう。

「ため息色した 通い慣れた道 人混みの中へ 吸い込まれてく」[0]
という言葉から見えるのは、自分自身を俯瞰的な視点から見る感覚である。

続く「同年代の友人達が 家族を築いてく 人生観は様々 そう誰もが知ってる」[0]
では、今度は他の人達の人生を俯瞰的に見ている姿が浮かんでくる。

この俯瞰的に見ることについて、桜井氏はインタビューで、
「だからたぶん詞を書いてる時だけは俯瞰でいられるっていうか、
それを自分の中で抱え込むとものすごくヘヴィーな状態であって、
でも、詞を書くっていうことはある種俯瞰で見ることだから
──言葉っていうのはそういうもんだと思うし──
その俯瞰でいる時が幸福だったんじゃないかなあ」[4]
と語っている。

これは決して“花 -Memento-Mori-”についてのみ語った言葉ではないが、
この「人生を俯瞰的に見てそのまま語る」という形が素直に出たのが、
この“花”の冒頭の歌詞であったと言うことはできるだろう。

“花 -Memento-Mori-”という歌が他の曲よりも読み取りにくいのは、
希望を歌っているわけでもなく、かといって絶望を歌っているわけでもない、
まるで「小さな小さな等身大の姿」を歌っている雰囲気が流れているところにある。

自分と他人の人生を俯瞰で見ながら、そこに希望を見出すのでもなく、
絶望するのでもなく、うっすらとした光と孤独感を同時に感じさせる、
それがこの“花 -Memento-Mori-”が持つ独特の空気であるとも言えよう。

◎その先に「死」しかないとしても、愛を手にしたい


そして2番に入ると、アルバム『深海』の最大のテーマである
「愛」や「夢」─すなわち、シーラカンスにたとえたもの─が登場する。

この2番の歌詞は無意識に読んでしまうと、
「愛」や「夢」を再び素直に肯定しているように読めてしまう。

しかしこの桜井氏のインタビューを読むに、そうではないことがわかる。

「でも、これだけ絶望を見せることによって、どこかに希望が、せいぜい最後には
救いが欲しいだろうと思うわけで、でも、今の僕には、『その愛を貫こう!』とは
決して歌えないわけです。『夢を追いつづけよう!』とも歌えない。
今の僕が歌える、最高に前向きな歌が、『笑って咲く花になろう』と歌う“花”なんだと思う。」[1]

この深い絶望を踏まえたうえで、2番の歌詞を見ていこう。

「等身大の自分だって きっと愛せるから
最大限の夢描くよ たとえ無謀だと 他人が笑ってもいいや」[0]

『深海』というアルバムを通してみると、「等身大の自分」とは、
その言葉の響き以上に小さな小さな存在であることに気付かされる。

そして「最大限の夢描くよ」と言われると、
「あぁ、夢を追うことを肯定的に書いているんだ」と見えるが、
実際にはそうではないのだ。

「小さな小さな存在の描く、その存在以上の最大限の夢」は、
決して叶うことがない、手にすることができない夢なのだ。

だけど、そんな「決して叶わぬ夢を描いてしまう自分をも受け入れてあげよう」
という思いが、“花 -Memento-Mori”のこの部分には添えられているのである。

そして曲はここからメインテーマへと突入していく。

「やがてすべてが散り行く運命であっても
わかってるんだよ 多少リスクを背負っても 手にしたい 愛・愛」[0]

「やがてすべてが散り行く運命」というのは、『深海』に通底しているテーマであり、
同時にこの“花”のサブタイトルともなっている「メメント・モリ」(死を想え)である。

では、ここで桜井氏は「どんなものも散り行く運命である」と言いながら、
それをどのような言葉と結びつけているのかと言えば、
「いずれ死に行き着くことを思いながらも、
たとえリスクがあるとしても、それでも愛を手にしたい」
と歌ってしまうのだ。

これはまさに前曲の“”でうめいた「愛を信じたい」[5]に他ならない。

“虜”では、「信じるはずのできない愛を負った先には『死』しかない」ことが示されていた。

それを踏まえて読むなら、ここでのリスクとは「死」であり、
「たとえその先には『死』しかないとしても、それでも自分は愛を手にしたい」
と、“虜”で捨てきれたなかった「愛を信じたい」という思いをも包み込んでいるのだ。

そうとらえると、「最大限の夢」もまた“虜”での「愛を信じること」と考えてもいいだろう。

もっともここでの「リスク」を「死」であると解釈するのは、
“花 -Memento-Mori-”を『深海』のほぼ最後を飾る1曲として見た場合で、
この曲を『深海』から切り離した場合はもう少しゆるい解釈でもいいだろう。

ただいずれにしても、“花”の2番から大サビの部分にかけての歌詞は、
シンプルに「夢」や「愛」を賛美するようなものではなくて、
「手にすることができない夢や愛を求めてしまう心をも受け入れよう」
という、その先に見えてしまう「死」も含めて受け入れるものなのだろう。

◎希望なんてないこの世の中でもせめてできることを


それではいったい“花 -Memento-Mori”という曲は、
全体を通して見たときに何を歌っていると言えるのだろか。

これまでこの歌を読んできた中でいくつかのことは見えてきている。

希望を歌っている歌ではないけど、絶望を歌っている歌でもないこと。
自分はとても小さな存在であること、世界だって決して美しくないこと。
愛も夢も希望に満ちてはいない、それでもそれを持つ心まで包み込むこと。

そこまで見たうえで、あえて2番の冒頭の部分を見てみよう。

「恋愛観や感情論で 愛は語れない
この想いが消えぬように そっと祈るだけ
甘えぬように 寄り添うように 孤独を分け合うように」[0]

ここから見えるのは、
「希望なんてないこの世の中でもせめてできること」
を歌っているということだ。

大上段に立って愛を語るのでもなく、愛に絶望するのでもなく、
「小さな自分にできる最大の愛の形」がここには歌われている。

そしてこの「小さな自分が希望なき世界でせめてできること」は、
そのまま「負けないように 枯れないように 笑って咲く花になろう」[0]
という言葉へと繋がっていく。

◎夢も愛も信じられなくても、「花になろう」とは言える


人は本当に絶望しているときには、あまり前向きな歌を聴くことができなくなる。
その前向きさや能天気さに打ちのめされて、余計に逃げ出したくなるからだ。

でも、そんなときでもこの“花 -Memento-Mori”なら聴ける人は多いのではなかろうか。

真っ暗な穴の中にうっすらと差し込んでくる光のような薄い希望、
そうした存在であるからこそ、勇気づけられるものもあるのだ。

桜井氏はこの“花”について、「本当の意味が分からない」と言いながらも、
あるインタビューで長い時間をかけて何とかその意味を考えて答えてくれた。

それを引用するのをもって、この記事の本編部分を締めるとしよう。

「僕、わかったんです。今までは、この曲がどうして好きなのかっていうのを
説明できなかったし、いろんなインタビュー受けても、言えば言うほど嘘になるような気がしてて。
でも結局、僕がここで言いたかったことは、たぶん、このアルバムを
作ったから初めて“花”の意味があるというか。
今の僕にはもう、夢に向かって進もう、夢をつかもう、虹の橋を渡ろう、と言えなくて。
夢を叶えようと歌えなくて。夢が叶ったところで、その先は地獄かもしれないし、
夢は追いかけてるときがいちばん幸せなのかもしれないし。
愛っていうのも、あってもなくてもいいものかもしれない、と思っちゃうから。
だから、そういう、何が善か悪かもわからない、いろんなことがあり得るこんな世の中で、
前向きなことが何も言えないけれど、せいぜい、でも、笑って咲く花になろう、
っていうのは言えるよ、っていうのが、“花”だったと思うんですよ。
だからこのアルバムの最後に、初めて救いがあるんです。」[6]

この桜井氏本人による解釈からも、
「希望のない世界でせめてものできること」
が“花”であったということをうかがうことができるだろう。

◎『深海』の中での位置付け - 「死」への道筋と“手紙”との輪廻


アルバム『深海』における“花 -Memento-Mori-”の最大の意義は、
“虜”で浮上した「信頼できぬ愛にすがりついた先にある死」を
どのように受け止めるのかというところにあった。

そしてこの“花”では、
「多少リスクを背負っても 手にしたい 愛・愛」
=(死のリスクを負ってでも、愛を手にしたい)
と歌うことで、“虜”での「愛を信じたい」[5]のうめきを受け止めたのだ。

そして、それをあえて受け止めることこそがこの曲の救いでもあったのだった。

それによって、「たとえ向かう先が死であったとしても、それでもいいじゃないか」と、
“虜”で描かれた吉野美佳氏との関係を受け止めたままアルバムの最終章に向かうことになる。

こうしてサブタイトルである「Memento-Mori」(死を想え)は、
「いつか終わり行くものと覚悟すると同時に、その先には死があろうとも、
それでも進んで行くことにしよう」という形で示されることとなる。

このサブタイトルの「Memento-Mori」については、
「『Memento-Mori』という副題のラテン語は、ペストが流行した時に流行った言葉らしいんです。
藤原新也さんの本からつけさせていただきました。『死を想え』という意味がある。
それは美しいな、そう思った。」[1]
とインタビューで答えている。

そしてもう一つのこの“花”の重要な意味は、“手紙”と対になっていることである。

“手紙”と“花 -Memento-Mori-”の関係についてはインタビューで、
「どうしても僕は“手紙”をアルバムの1曲目にしたいっていうのがあった。
(“手紙”の)歌詞の最後に『花ゆれる春なのに』っていうのが来た時、なんかそれが、べつにこれ、
誰もわからないかもしれないですけど、“花”を最後に入れて、“手紙”と“花”っていうのが
輪廻転生してくれたらなっていう思いはあったんですよ。だから、早いうちに“手紙”と“花”の
位置は自分の中で決まっていたというか。だから、特に“花”がアルバムのクライマックスという
意識じゃなくて、こういうふうに曲と曲が対になってるという意識だったんです。
ただ、最後にたぶん、すべては咲く花になろうっていう、この曲で救おうとしてるのかもしれない。
このアルバムって、“手紙”で始まって、どの曲も救いのない歌ばかり続きますから。」[7]
と語られている。

“手紙”とは「(愛の)終わり」であり、“花”は「小さな救い」であった。

これらが輪廻するということは、「終わり」があれば「小さな救い」があり、
また「小さな救い」を得ても、また「終わり」を迎えるということでもあった。

そしてそれもまた「Memento-Mori」というサブタイトルと繋がっていたと言えるだろう。

◎音楽的に見て


前シングルの“名もなき詩”は日本でレコーディングしたのに対して、
“花 -Memento-Mori”は他の『深海』の曲と同様にニューヨークの
ウォーター・フロント・スタジオでレコーディングしたものとなっている。

それゆえ、「アルバム『深海』らしい音」のうち、最初にリリースされた曲になった。

録音環境の変化により、トータルの音数よりも一つ一つの音の粒が重視されており、
それと同時にシングル的ではありならも、これまでよりも薄暗い印象が強く、
“名もなき詩”よりもさらに一歩進んで音楽的な変化を感じさせる曲となった。

桜井氏はこの“花 -Memento-Mori-”のサウンドについて、
「ウォーターフロントで初めて“花”っていうのを録った時に、
明らかに日本のポップ・シーンの中にある音楽とは全然別のもので、
しかも自分たちで好きだとすごい思った曲だし、
それは音の質を変えても一般の人たちがいいと思ってくれると思ったし。」[4]
と好感触を得ていたことを語っている。

一方でどういった音楽に影響を受けて作ったのかなどは特に言及はされていないようだ。

◎おわりに


この“花 -Memento-Mori”によって、アルバムには一定の救いが与えられたが、
それ以上に“虜”で提示された「死」への道筋をこの“花”は受け入れており、
それが否定されないままに最終曲である“深海”へと向かっていくことになる。

一方でこの“花”は一つの曲としてMr.Childrenの欠かせないものとなり、
「絶望の中で描かれた小さな光」であったからこその価値は揺らぐことはなく、
時代を超えてMr.Childrenを代表する曲の一つとして愛されていくことになる。

◎出典


[0] “花 -Memento-Mori-”の歌詞より
[1] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[2] 『WHAT's IN?』 1996年8月号より
[3] アルバム『BOLERO』 フライヤー pause 新星堂より
[4] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1996年8月号より
[5] “虜”の歌詞より
[6] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[7] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より

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