マシンガンをぶっ放せ / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説

◎戦争 - 「人間の業と業」の行き着く果ての世界


まずはあえて“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”における、
桜井氏のインタビューを一部引用してこの記事を始めよう。

「恋愛……イコール……人間の業と業……それなら単なる恋愛の入り口から、
もうちょっとおっきい、なんつうか、業のところから入って戦争のところまで
広がっていくものにしたらいいんじゃないかと。
まあ、戦争という言葉は実際には使ってないですけど」[1]

「戦争」は「人間の業と業」の行き着く果て、人間の愚かさの象徴である。

そして桜井氏は“マシンガンをぶっ放せ”のテーマについてこう語る。

「そこ(“So Let's Get Truth”のこと)から混沌とした世界にいき
戦争へと突入していって、それが“マシンガンをぶっ放せ”なんです。」[2]

ここでの「戦争」という表現は比喩としての要素も含んでいるが、
いずれにしてもここで描かれるのは「究極に愚かなる人間の世界」である。

そして、そのひどく混沌とした戦争にも似た世界を通じて、
桜井氏は聴く者に対して人々が目を逸らしたがる現実を突き付けていく。

「あのニュースキャスターが人類を代弁して喋る
“また核実験をするなんて一体どういうつもり?”
愛にしゃぶりついたんさい 愛にすがりついたんさい」[0]

戦争に通じる核実験という「愚かさ」から抜け出せぬ人間の現実を見せ付け、
「愛にしゃぶりついたって無駄だよ 愛にすがりついたって無駄だよ
だってこれほどまでに愚かさから抜け出せないのが人間なんだから」
と突き付けていく。

◎「死」に目を向けよ - メメント・モリ


続けて桜井氏は人間誰もが最も目を逸らしたいものを突き付けていく。

「やがて来る“死の存在”に目を背け過ごすけど
残念ですが僕が生きている事に意味はない」[0]

「ただ現実を突き付けるアルバム」である、この『深海』において、
「死」とはどうしても切っても切り離すことができない存在である。

この「死」について、桜井氏はインタビューで、
「またその時期にいろんな本とかを読んでいて。で、……ある本の一番最初に書いてあったのは
──それは哲学かなんかの本だったと思うんですけど」
「まず第一章が人間は必ず死ぬという。で、これは当たり前のことだけど、
普段人間っていうのは死っていう崖があったらその崖を見えないように自分の前に壁を築いて、
その壁なり崖に向かって歩いているようなもんだっていう。
だから、死があるんだっていうことをまず当たり前のことなんだって実感するようになったし。」[3]
と語っている。

そして話題になる「僕が生きている事に意味はない」[0]であるが、
こうした人間が誰しも目を逸らしたくなる現実を突き付けると、
「中二だ」と一笑に付す傾向が強いが、
「生きることに絶対的な意味はない」というのは厳然たる哲学的事実である。

重要なのは、「死から目を逸らさずに、その存在を受け止めたうえで、
さらに人生には最初から絶対的な意味などは与えられておらず、
それもまた受け入れたうえでどう生きるのかを我々は考えないといけない」
そうした問いもまたこの現実をえぐり取った言葉には含まれているのだろう。

◎ここまで人間が愚かなら、もう不条理な現実に飲み込まれてしまえ


そして人間の愚かさをひたすら突き付けた後、桜井氏自身は
『深海』『BOLERO』期を象徴する葛藤の中の引きずり込まれていく。

「本当はピュアでありたい自分」と「所詮動物でしかない人間」の狭間の葛藤だ。

そこでまず桜井氏は
「愛せよ目の前の不条理を 憎めよ都合のいい道徳を」[0]
と問いかけることで、
「もう不条理があることはそういうものなんだと認めようよ、
人間ってそれだけ愚かなものなんだから。
だからもう不条理を野放しにしかできない道徳のほうこそいらないんだよ。」
と我々に語りかけるのだ。

さすがにこれはいささか行き過ぎではないかと思わなくもないが、
「所詮動物でしかないのなら、ただの動物になればいいじゃないか」
という「(動物とは違う)人間らしさ」への絶望がうかがえる。

桜井氏が求める「あるべき人間らしさ」は、
“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”や“ありふれたLove Story”の中で
示唆されているように、「エゴから解放された無私の存在」である。

しかし現実の人間は“シーソーゲーム”や“ありふれたLove Story”、
そしてこの曲でとことん示されているようにむしろ「ただの動物」に近い。

ここで言う桜井氏の「都合のいい道徳」[0]は間違いなくある種の真実なのだ。

私達は「エゴから解放された無私の愛情」からは程遠いものとしか言えない、
「エゴとエゴのシーソーゲームでしかない恋愛」を「不道徳」だと思うだろうか。

こうした道徳を、我々は果たして「都合のいい道徳ではない」と言えるだろうか。

桜井氏の求める「あるべき人間らしさ」を100、「ただの動物でしかない人間」を0とするなら、
現実の人間は50にも及ばない、いくら甘く見ても10ぐらいの存在でしかないだろう。

それが100を理想として「10にしかなれない人間の愚かさ」に苦悩するのであれば、
「10なんて動物と同じだよ、中途半端で不完全な道徳や秩序なんかを作るのなら、
もう動物として生きたほうが正しいんじゃないか」という葛藤が桜井氏にはあったのだ。

そしてこの「あまりの愚かさゆえに、もはや動物に飲み込まれたほうがいい」
という桜井氏の極端とも言える意思はこの曲の中で次々と炸裂していく。

◎愚かすぎて動物と変わらない人間を受け入れろ


「参考書を持って挑んだんじゃ一生 謎は解けぬ
良識を重んじてる善人がもはや罪だよ」[0]

参考書も良識も善人も、どれも「動物とは違う人間らしさ」を高める試みである。
しかし「そんなのもう無駄だよ 人間はそこまで立派じゃないよ」と否定していく。

「僕は昇りまた落ちてゆく 愛に似た金を握って
どうせ逆らえぬ人を殴った 天使のような素振りで」
の箇所ははっきり正しいと言える解釈は見つからないが、
これはおそらく自分自身とファンとの関係を指していると思われる。

「CDのリリースなどによってファンの前に表れて去っていくとき、
ファンからの愛の代償として金を受け取る」行為などの比喩とも考えられる。

「愛せよ単調な生活を 鏡に映っている人物を
憎めよ生まれてきた悲劇を 飼い慣らされちまった本能を」[0]において、
「人生が単調であることも、自分が自分であることも仕方ないと受け入れよう。
全ては生まれてきたことが悪いんだ。
そして人間として生まれてきてしまって、中途半端に本能以外のものを植え付けられ、
動物そのものとして生まれてこられなかったことが悲劇の元凶なんだよ」
と「所詮人間は動物でしかないことを受け入れるんだ」と叫ぶのだ。

また「中二」と揶揄されそうな「憎めよ生まれてきた悲劇を」[0]との歌詞だが、
仏教でも人間として避けられない4つの苦しみを「生老病死」と扱い、
「生まれてくること」こそが全ての苦しみの源泉であると考えるなど、
こうした考えもきちんと哲学的なバックボーンがあるものである。

◎ピュアやクリーンになろうとすることがもう悪いんだ


他の『深海』『BOLERO』の曲でも見られないほどに、
この“マシンガンをぶっ放せ”の歌詞はひたすらに突き進んでいく。

これまでは「ピュアになれない人間や自分に対する苦しみ」の反動として、
「所詮人間は動物でしかないことを受け入れよう」という感覚であったが、
今回はその反動がさらに進み「ピュアであろうとすることがむしろ悪いのではないか」
という極端なところにまで突っ走っている。

そして桜井氏がこの曲の中でやたらとこだわっているのが「毒蜘蛛」である。
(注:1995年に大阪で発見されてその後定着したセアカゴケグモのこと)
どのインタビュー雑誌を見ても熱弁を振るっていて思わず苦笑するほどだ。

しかし、桜井氏にとってはこの「毒蜘蛛」は主張の大きな根幹となっているのだ。

「あの毒蜘蛛もね、ある国では平気で生息してたのに、日本に来たら、
『これは今までいなかったものだ』って殺してしまうのは、蜘蛛だけに言えるんじゃなくて、
他のことにも言えるわけじゃないですか。なんでもクリーンにしようとする。
それはいかがなものか、という気持ちもあったんです。
どんどん共存して濁った色になっていくべきじゃないか、ということです。」[2]

「その毒グモって日本には居なかったものだけれど、日本には今までなかったものだから
といって最初は駆除してたじゃないですか。それは絶対違うなと思って。(略)
それはオウムとかいろんな宗教にしてもそうだけど、自分にある煩悩というものは
いけないものだと決め付けてるところがあるでしょ?
でも絶対クリーンでなんかいられないわけだから、どんどんどんどん濁っていくわけで、
だから普通に不純になっていけばいいのに、だけど綺麗になりたがるじゃない?」
「全体が喜んで不純になればいいのにっていう」[3]

セアカゴケグモを当時駆除しようとしたことの是非は横に置くとして、
「人間がエゴを捨ててピュアになろうとすること」と、
「外来種を駆除しようとすること」は話として本質的に異なっており、
これを結びつけて「クリーンになるのはいけないことだ」とするのは、
いささか牽強付会ではあるが、いずれにしても桜井氏はこのとき
「もう人間なんてどうあがいてもピュアになれない存在なのだから、
すっぱり諦めてどんどん濁って、不純になればいいんだよ」
という意思を一部で強く持っていたことはたしかである。

「殺人鬼も聖者も凡人も共存してくしかないんですね」[0]もまた、
「全てが共存して濁ってしまえばいい」という意思が表れている。

一方で“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”や“ありふれたLove Story”の中では、
「エゴにまみれた人間という存在」を「愚かなるもの」と描写していた一方で、
ほぼ同義の「煩悩」は肯定しているなど、かなり混乱している部分もある。

これは一方では「エゴから解放されたピュアな人間」を求めていながら、
「そんなの無理だよ、ピュアになろうとするから悪い、人間なんてただの動物」、
という価値観が桜井氏の中で強烈な葛藤を引き起こしていて、
この曲において後者がひたすら前面に出てきたということであろう。

◎自分の肉体で生きるため、ピュアであり続けたい自分を殺す


こうして「ピュアであろうとすること」を徹底して否定するこの曲だが、
『深海』『BOLERO』期において桜井氏が「所詮動物でしかない人間」を主張するときは、
「ピュアになろうとすればするほど、そこから離れて行ってしまって、
死ぬことしか考えられなくなるから、もう動物でしかないことを認めて、
そうすることによって救われたい」という感情が必ず横たわっている。

だからその葛藤は結局はこれらのインタビューの言葉へと繋がっていくのである。

「だから、そう言いながらもどっか自分の中でたぶん愛情をもらいたいとか
愛されたいとかいう気持ちが、そう言いながらもあって。
そういう自分と折り合いがどんどんつかなくなっているというか。」[3]

「それまではピュアなものが人の心を動かすとかも思ってたし、
そういう自分でありたいと常々思ってたし、でもやっぱり現実は何があるかわかんないわけだから、
そういう風にはいかしてくんないし。だから『深海』のときにほんとに自殺しようと思ってた。
ていうのは、このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうかっていうどっちかになったときに僕は、
僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえっていう。
そのために自分に言い聞かせてるのが、ある意味『深海』の中の歌詞でもあるし。」[4]

すなわちこの曲は「このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうか」の瀬戸際に立ち、
「僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえ」と、
桜井氏自身に言い聞かせている歌詞なのである。

したがって、この“マシンガンをぶっ放せ”は一見「不純賛歌」に見えるが、
その出発点は「あまりにも愚かでピュアから程遠い存在である人間」であり、
270°ほどねじれながら「人間の愚かさと純粋さ」を問うている歌である。

そうした心の内実はインタビュアーにも伝わっていたみたいで、
「不純になればいい」などの発言にインタビュアーから疑問も呈されている。

「ただ桜井さんが『ほんとにそう思ってんのかなあ?』っていう疑問が俺からは拭い去れなくて。」
「何故かって言うと、こういう詞を唄ってたとしてもミスター・チルドレンの音楽は
結局善を志向してる、ピュアなものを志向してるっていう気持ちが伝わってくるんですよ。」
「これを聴いて、破れかぶれの薄汚い気持ちになるかっつったら全然なんないもん。」[3]

◎本当はこの「何だってまかり通る世界」に絶望している


そしてこの“マシンガンをぶっ放せ”が単純な「不純賛歌」でないことは、
何よりもこの曲の中で桜井氏が書いた歌詞が強く物語っている。

もしこの「戦争」をモチーフに描いた「濁った不純そのものの世界」が、
桜井氏にとって理想郷と言えるようなものであったとしたら、
その世界をこのような言葉で表現などするだろうか。

「触らなくたって神は祟っちゃう 救いの唄は聞こえちゃこないさ」
「何だってまかり通る世界へ」[0]

桜井氏はこの「何だってまかり通る世界」を理想としているはずなのに、
この言葉には全くそうした世界に対する希望というものが見えてこない。

やはりこの“マシンガンをぶっ放せ”の不純さを求める言葉もまた、
「ピュアであろうとするほど死にたくなる」反動としてのうめきなのだ。

◎『深海』の中での位置付け - 社会的なテーマのメイン曲


アルバム『深海』を極めて形式的に見た場合のこの曲の位置付けは、
やはり“So Let's Get Truth”からの社会的テーマの続きとして、
そしてそのメインとしての位置付けを持っていると言えるだろう。

とはいえ、歌詞解説からもわかるようにこの曲はたしかに社会を扱ってはいるが、
本来の意図は社会風刺ではなく、「人間の愚かさ」をまず徹底的に示したうえで、
「ピュアであろうとすることなんて、無理だよ、諦めなよ」と言い聞かせる、
そういう意味の曲であるというふうにとらえたほうがより適切だろう。

手紙”から“名もなき詩”まではそれを「愛」について行ってきたのだが、
この曲ではテーマを広げ、「あらゆるものについて人間は愚かである」と示し、
「素晴らしいものなんて何もない」「救いなどない」とまで示している。

そのためにテーマを愛から社会まで広げたというふうにも言えるだろう。

◎音楽的に見て


この曲はあえて分類するなら90年代オルタナティブロックになると思うが、
あまり近いタイプの楽曲が見当たらないなど、個性的なアレンジとなっている。

こうした攻撃的でテンポも速い曲でほぼギターとチェロで構成してしまうという、
ギターもあえて強いディストーションはかけずに不気味な演奏をしながら、
チェロもその不気味さを後押しするという変わったスタイルとなっている。

それゆえにサビのアレンジではかなり試行錯誤することになったらしい。[2]

ギターとチェロのバランスがサビではなかなか上手くいかなかったようで、
最終的には両方が同じぐらいに目立つこのスタイルになったとのことである。

◎おわりに


「救いとしての純粋さからの逃亡」は『深海』『BOLERO』期によく見られるが、
それが極限まで行ったのがこの“マシンガンをぶっ放せ”だと言えるだろう。

ただ他の曲ではある程度は「ピュアを求める心の葛藤」が見えるのだが、
この曲はそれらをできるだけ排除して書いているところがあるので、
徹底しているかわりに誤解を招きやすい面があるのは否めない。

この「所詮動物でしかない人間」という事実を受け止めたうえで、
この主人公は『深海』のさらなる深みでどこに達するのだろうか。

◎出典


[0] “マシンガンをぶっ放せ”の歌詞より
[1] 『WHAT's IN?』 1995年より
[2] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[3] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1996年8月号より
[4] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より

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