名もなき詩 / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎「愛されてるという実感」を持ってもらうために、愛情を伝えたい
“名もなき詩”のテーマ性はほぼ“Mirror”と同じだと言っていい。
そもそも“Mirror”の主人公は相手の女性に
「あなたは間違いなく私にとって価値のある存在なんだよ」
と伝えたいと考えていて、それゆえに“名もなき詩”を書き、
「愛されてるという実感」のために愛情を伝えようとしたのだった。
この「愛情を伝える」ことがテーマであることは歌詞にも明確に書かれている。
「愛情ってゆう形のないもの 伝えるのはいつも困難だね
だから darlin この“名もなき詩”を いつまでも君に捧ぐ」[0]
と、「何とかして愛情を伝えたい」というコンセプトが伝わってくる。
一方で“Mirror”と“名もなき詩”の間での2人の関係には違いがあり、
“Mirror”ではほぼ一方的に主人公が女性に想いを寄せていたが、
“名もなき詩”では「君の仕草が滑稽なほど 優しい気持ちになれるんだよ
Oh darlin 夢物語 逢う度に聞かせてくれ」[0]と書かれているように、
2人は緊密に会う間柄、すなわち恋愛関係に入っていたことがわかる。
さらに“Mirror”においては、「絶望の淵に立って迷う日もあるでしょう」[1]
「その全てが嘘っぱちに見えて 自分を見失う様なときは」[1]と、
女性が絶望の淵に立つ場面をあくまで仮定として描いているが、
“名もなき詩”においては「絶望 失望 何をくすぶってんだ」[0]と、
絶望に陥っている人に向けて直接的に言葉を投げかける形になっており、
このとき女性は“Mirror”の歌詞の後半のような絶望に立っていたのだろう。
すなわち、この“名もなき詩”は愛も夢も自由も希望も全てに絶望した女性に、
─もっともこの女性の姿は当時の桜井氏の心境と全く同じであるのだが─
「いや、あなたには間違いなく価値があるんだ」ということを伝えることによって、
「私は生きていてもいいんだ」と思ってもらおうとする、そういう歌なのである。
それは“Mirror”の歌詞にあるように、
「あなたが誰で何の為に生きてるか その謎が早く解けるように
鏡となり 傍に立ち あなたを映し続けよう」[1]という主人公の思いでもあった。
“Mirror”の解説の際に、『深海』『BOLERO』期にはごく少数ではあるが、
当時の桜井氏の考える「愛のあるべき形」「愛の理想形」を歌った曲がある、
と述べたが、もちろんこの“名もなき詩”もそうしたテーマ性の曲である。
『深海』期は愛への絶望ばかりが目立つ傾向があるが、
一方では愛というものへの深い考察が行われていた時期でもあり、
それゆえに『深海』『BOLERO』期に作られた愛に関する歌は非常に深い。
この“名もなき詩”に匹敵するだけの愛の歌と呼べるものは、
Mr.Childrenの長い歴史の中でも他に見つけるのは困難と言っていいだろう。
それもとりわけ「“Mirror”三部作」とでも呼ぶべきような、
“Mirror”“Making Songs”“名もなき詩”の3曲の流れは他に匹敵するものはないだろう。
◎生々しい愛の言葉
“Mirror”と“名もなき詩”はテーマとしてはほぼ同じであるが、
その歌詞の表現方法については大きな変化を見ることができる。
“Mirror”は恋愛関係に入る前の歌ということで、多少他人行儀だが、
“名もなき詩”はまるで愛情をぶつけるかのごとく言葉が生々しい。
もちろんこれは両者が深い恋愛関係にすでに入っていることを示唆している。
桜井氏はこの曲のいくつかの生々しい歌詞について、インタビューにおいて、
「『ちょっとぐらいの汚れ物』を『残さず食べる』というのは、(略)
その人のマイナスな面も愛しますよ、ということなんですよ。」
「要は、僕が気持ちを伝える時、どういう言い方が一番わかってもらえるだろう、
ということなんですけどね。その後で出てくる『喉を切ってくれてやる』
もそうなんですけどね。非常に疑り深い、卑屈な私の性格が出ていると申しますか」[2]
また、桜井氏は特に言及していないが、
「ちょっとぐらいの汚れ物ならば 残さずに全部食べてやる」[0]という歌詞は
前シングルの“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の前半に登場する
「打ち明け話にあった純情を捧げたって奴に 大人げなく嫉妬したりなんかして」[3]
という歌詞といやに対照的だなとも思わせられる。
一方で桜井氏自身が抱え込んでいたものを歌詞を落とし込んでいる部分もある。
そのあたりについて、桜井氏はインタビューで、
「『自分らしさの檻の中で』という部分は、自分には、自分が得意ジャンルというか、
そうした既成概念の中に納まって満足しちゃう部分がある。
でも、それを飛び出してモノを創らなければいけない。
こうして詩に書くことで、自分にプレッシャーをかけてるところもあるんでしょう。」[2]
と答えている。
◎もっと生々しい自分を愛されたい
この“名もなき詩”を作るうえで音楽面でも歌詞の面でも重視されたのは、
「それまでとは異なる生々しさを出したい」ということであった。
そしてそれは歌詞だけを見ても随所に表れている。
「僕はノータリン」「こんな不調和な生活の中で たまに情緒不安定になるだろう?」
「成り行きまかせの恋におち 時には誰かを傷つけたとしても
その度心いためる様な時代じゃない」
「誰かを想いやりゃあだになり 自分の胸につきささる」[0]
などの箇所もそうだ。
こうした生々しい表現は、「絶望の淵に立っている女性への
その絶望に寄り添うために彼女の社会不信に寄り添っている」
という側面があると同時に、当時の桜井氏の自らの社会不信の反映でもあろう。
そしてこの「生々しさ」を求めることについて、桜井氏はインタビューで、
「この“生々しい”という精神状態に関して、今までは多くの人に愛される作品を作ってきた。
もちろんそれは、自分たちも愛せる作品だった。じゃあ、こうして愛された時、
次に何を望むかといったら、もっと中身の自分、本当の自分を愛してほしい。
愛されたい気持ちが、もっと貪欲になってる。」[2]
と答えている。
この「生々しさ」を求める姿勢が、『深海』の表現に繋がっていったことはもはや明白だろう。
◎『深海』の中での位置付け - “名もなき詩”ほど愛せた2人も簡単に“手紙”に至る
実はこの記事の最も重要な部分がこの「『深海』の中での位置付け」になる。
“手紙”から始まる『深海』における男女の物語はこの“名もなき詩”で完結するのだ。
しかし“手紙”から“名もなき詩”までのストーリーの流れは複雑で、
結局どのように繋がっているのかはまとめてみないと読むのが困難である。
そこで、まずはこの絡み合った曲同士の関係をもう一度紐解いていこう。
まず“Mirror”三部作には「“Mirror”→“Making Songs”→“名もなき詩”」
という強固な結びつきがあり、これは一つの塊として考えていいだろう。
また「“Mirror”(の三部作)は“ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~”の前の話」で、
同時に「“ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~”は“手紙”の前の話」であった。
これらを時系列でまとめて簡単な図に表すと次のようになる。

図 アルバム『深海』-“手紙”から“名もなき詩”までの時系列図
さて、この流れの意味を桜井氏のインタビューで明らかにしてもらおう。
「僕の中では“手紙”の、男の女の表面上の別れから始まって……
物語がどんどん逆進行していくっていうか。
だから『名もなき詩』の、深いところで愛し合っていたような2人が、
結局“ありふれたラブストーリー”みたいに、一緒に生活してみたらあっけないもので、
“手紙”のように終わってしまいましたっていう。
本当にこういうことがあり得るんだっていう現実を、ただ叩きつけるアルバムですね」[4]
「“手紙”から“名もなき詩”までは実は流れがあって、ストーリーが逆に進行していくんです。
あれだけ愛せた2人でもあっけなく終わってしまうものなんだっていうストーリー」
「要するに愛にしても命にしても終わる可能性があるもんだよってことを言いたいだけなんです。」
「ただ愛が永遠に続くなんていうのは大きな間違いだってことは言える」[5]
もし“手紙”が“ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~”とだけの繋がりなら、
「人間が行っている平凡な恋愛なんて、そりゃ壊れるよね」で済み、救いがまだ残るのだ。
しかしこの『深海』はその後に“Mirror”、“名もなき詩”と深い愛の歌を入れることで、
「真実の愛と呼べるものすらも簡単に崩壊するんだよ」とより深い絶望を叩きつけるのだ。
“Mirror”と“名のなき詩”はどちらも一つの曲としては素晴らしい愛の考察だ。
しかし『深海』においては、それは聴く者を「より高いところから地面に突き落とす」
ために用意された2曲だったのだ。この事実を知ったとき、愕然としたのをおぼえている。
そう、『深海』というアルバムにおいては“名もなき詩”のストーリーの続きになるのは、
“ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~”の「やがて二人は暮らし始めた…」[6]なのだ。
さて、この“名もなき詩”によって、『深海』のA面にあたる前半は終わる。
そしてそれは“手紙”という「愛の墓場」から“名もなき詩”までの
過去を思い起こしながら立ち尽くしていた男にも変化を及ぼしていく。
自らが書いた“名もなき詩”の「街の風に吹かれて」という歌詞に触発され、
彼は外へと旅に出ていくことになる。それが“So Let's Get Truth”である。
この両曲の繋がりについては、桜井氏がインタビューで、
「次の“名もなき詩”へと、世界が徐々に広がり、大きくなっていきます。
男と女の枠から、外へ出るわけですね。『♪街の風に吹かれて唄いながら……』の歌詞と、
その次にくる“So Let's Get Truth”は、僕のなかではこのようにつながっていく」[7]
と答えている。
◎音楽的に見て
この“名もなき詩”は制作前に小林武史氏から「次のシングルは96年のMr.Childrenの
新しいあり方を感じさせるような曲」「安易なポップ感に逃げないシングルの出し方」[2]
という提案があり、桜井氏がそれに乗って作られ始めた。
これはおそらく小林氏にももう“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”のような
やり方は桜井氏にとって限界に近づいていることが見えていたのだろう。
“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”は極めてポップなサウンドの中に
半分は恋愛要素を入れつつ、もう半分は「人間の業」をテーマとしたが、
このような手法では伝えたいメッセージは伝わらずただ曲が消費されるだけで、
そうしたことを繰り返すのは桜井氏にとって良くないと考えたと見られる。
そこでこの曲でテーマになったのは「生々しさ」、これは言い換えるなら
「これまでの装飾をはぎ取って、剥き出しの自分達を見せる」ということであり、
これは葛藤を隠し続けることができなくなり我慢の限界を超えつつあった、
桜井氏の状態を読んだうえでの小林氏の親心のようなものもあっただろう。
そうすることで、Mr.Childrenは見事に「自分らしさの檻」を壊したのである。
もちろん舌に「NO NAME」と書いたジャケットも生々しさを意識したものである。
曲の構成は「最初は少数の音で、どんどんビルド・アップしていくもの」[2]がコンセプトで、
歌詞についてもそれに合わせてスケールを大きくしたり小さくするなど工夫している。
「ちょっとぐらいの」と静かに始まり、「愛は気が付けばそこにある」とスケールアップし、
早口言葉のところでピークを迎え、最後はあえてぽつんと終わる構成を目指したとのことである。[2]
◎おわりに
いかがだっただろうか。これは私としても衝撃的な内容だったと思っている。
アルバム『深海』を、“名もなき詩”を何度も聴いてきた人であっても、
この『深海』の中での“名もなき詩”の位置付けには驚いた人が多いと思う。
『深海』を聴いていると、まず“シーラカンス”で深いところに引きずり込まれ、
それが“Mirror”、“名もなき詩”のあたり少し浮上するような感覚になる。
しかし実際は違っていたのだ。
あの“Mirror”と“名もなき詩”で感じる「高いところにいる」感覚は
「より高いところから“手紙”という底に聴く者を突き落とすため」に
あえて高いところに導いていたのだ。
ただし、それは決して桜井氏が意地悪だということではない。
「人間はたとえ真実の愛と呼びうるものに一時的に到達しえても、
それでもなお崩壊の道をたどる」とまでの愛への絶望があるのだ。
この『深海』前半部の真のストーリーを知ることで、アルバムの聴こえ方はさらに深まるだろう。
◎出典
[0] “名もなき詩”の歌詞より
[1] “Mirror”の歌詞より
[2] 『WHAT's IN?』 1996年より
[3] “シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の歌詞より
[4] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[5] 『CDでーた』 1996年7月号より
[6] “ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~”の歌詞より
[7] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
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