母が亡くなりました
母が11月1日、午前5時1分に亡くなりました。
11月1日の午前3時頃に病院から電話があり、
「脈が落ちてきていて、いつ心臓が止まるかわからない状態です」
との連絡があり、すぐに兄に連絡を取って一緒に病院に向かいました。
もうすでに「いつ緊急事態になって電話するかわからないので、
いつでも連絡が取れる状態にしておいてください」と言われていて、
そのうえで午前3時という時間に電話がかかってきたので、
もう電話を取る前からそういう意味の連絡であることは覚悟ができていました。
兄からも事前に「そのときはどの時間帯でも電話してきてくれてかまわない」と
言われていたので即座に連絡しました。
正式には自分達が病院に着いて、医師と死亡を確認した午前5時1分が
死亡時刻ということになってはいますが、
実際には病院に向かう途中の午前4時15分ぐらいに再び電話で連絡があり、
脈が止まったと伝えられていたので、最後の瞬間は見届けることはできませんでした。
とはいえ、3週間ほど前からずっと意識が飛んだ状態が続いていたので、
その場にいたとして意思の疎通は出来ず、
ただ呼吸と脈が止まるのを待つだけの時間になったとは思いますが。
10月31日あたりから妙な不安は感じていたのですよね。
もういつ心臓が止まってもおかしくない状態だとは思っていたので、
10月の月末記事を書くにあたって、
「10月中にその連絡がある可能性があるから、
記事を書くのはできるだけ10月31日までは大丈夫だと確信を持ててからにしよう」
と考え、それゆえに10月31日は不安を感じながら過ごしていたのですよね。
それで何とか10月31日は病院からの連絡はなく済みましたが、
その数時間後に連絡があり、嫌な予感は当たる結果になりました。
母が亡くなったことについては、正直なところまだあまり実感がないのですよね。
もう回復は難しいだろうというのは10月19日の面会の時点で強く感じていて、
ある意味ではそのときに覚悟に関してはできていたのですよね。
それゆえ直接的なショックはそのときのほうが大きかったかもしれません。
とはいえ、病院からの電話を受けたときには少なからず動揺はしましたが。
ただ、身近な存在の死のショックって、
必ずしも死の瞬間に全てが訪れるわけではないですからね。
今はまだ実感はなくても、
時間が経つにつれて喪失感にさいなまれることはありえますし、
これから自分がどう感じるかはそのときにならないとわかりません。
ただ現時点で不安なのは自分以上に父の心境ですね。
父はもともとめったに涙を流すタイプではないのですが、
母が亡くなって以降は母のことを誰かに話すたびに涙声になってるのですよね。
やはり母と一番長く過ごしてきたのは父ですから、
その喪失感は自分が思っている以上に大きいものなのでしょう。
今回の母の死のきっかけは母を含む家族全員がコロナになったことでしたが、
肺に持病のある母にはやはりコロナは非常に厳しかったのかもしれません。
全国的にコロナへの警戒心が弱まり、感染する人が増えてくると、
結果として母のような身体の弱い人が辛い思いをすることになるのでしょうね。
そして昨年から導入した在宅酸素も一長一短があったように思います。
在宅酸素がなかったときは、軽い風邪にかかったような状態でも、
急激にSpO2が下がり、家では対処できなくなってしまうので、
すぐに救急車を呼ぶしかなかったのですよね。
しかしながら、そうであることで早めの入院ができて、
病気が重くなる前に対処ができるという利点もあったように思います。
それに対して今回は酸素に関しては在宅酸素で対応できてしまうため、
「何とか自宅で乗り切ることを考えよう」と早期の入院は考えず、
それが高度脱水などの重い状態悪化を招いたのも事実なのですよね。
とはいえ、家族全員がコロナの状態で救急車を呼んで対応してもらえたのか、
在宅酸素があってコロナ以外の異常が見えない段階で対応してもらえたのか、
特に今は病院がどこもベッドがないという状態のようですし、
どうするのが正しかったのかは正直なところ、よくわかりません。
脱水にはもう少し早く気付いてあげるべきだったのだろうとは思いながらも、
昨年の入院以降はほぼ半分寝たきりに近いぐらいの状態の悪さだったので、
もう何かの病気になった時点で回復は難しかったのかもしれません。
今はまだ自分の中で明確なものが言葉に出来ないですが、
時間が経てばそのあたりがクリアになってくるかもしれません。
これまでみなさんには母の状態や自分の心境を心配していただき、ありがとうございました。
こういう結果にはなってしまいましたが、本当に感謝しています。
また母のことについては何らかの機会に報告したいと思います。
11月1日の午前3時頃に病院から電話があり、
「脈が落ちてきていて、いつ心臓が止まるかわからない状態です」
との連絡があり、すぐに兄に連絡を取って一緒に病院に向かいました。
もうすでに「いつ緊急事態になって電話するかわからないので、
いつでも連絡が取れる状態にしておいてください」と言われていて、
そのうえで午前3時という時間に電話がかかってきたので、
もう電話を取る前からそういう意味の連絡であることは覚悟ができていました。
兄からも事前に「そのときはどの時間帯でも電話してきてくれてかまわない」と
言われていたので即座に連絡しました。
正式には自分達が病院に着いて、医師と死亡を確認した午前5時1分が
死亡時刻ということになってはいますが、
実際には病院に向かう途中の午前4時15分ぐらいに再び電話で連絡があり、
脈が止まったと伝えられていたので、最後の瞬間は見届けることはできませんでした。
とはいえ、3週間ほど前からずっと意識が飛んだ状態が続いていたので、
その場にいたとして意思の疎通は出来ず、
ただ呼吸と脈が止まるのを待つだけの時間になったとは思いますが。
10月31日あたりから妙な不安は感じていたのですよね。
もういつ心臓が止まってもおかしくない状態だとは思っていたので、
10月の月末記事を書くにあたって、
「10月中にその連絡がある可能性があるから、
記事を書くのはできるだけ10月31日までは大丈夫だと確信を持ててからにしよう」
と考え、それゆえに10月31日は不安を感じながら過ごしていたのですよね。
それで何とか10月31日は病院からの連絡はなく済みましたが、
その数時間後に連絡があり、嫌な予感は当たる結果になりました。
母が亡くなったことについては、正直なところまだあまり実感がないのですよね。
もう回復は難しいだろうというのは10月19日の面会の時点で強く感じていて、
ある意味ではそのときに覚悟に関してはできていたのですよね。
それゆえ直接的なショックはそのときのほうが大きかったかもしれません。
とはいえ、病院からの電話を受けたときには少なからず動揺はしましたが。
ただ、身近な存在の死のショックって、
必ずしも死の瞬間に全てが訪れるわけではないですからね。
今はまだ実感はなくても、
時間が経つにつれて喪失感にさいなまれることはありえますし、
これから自分がどう感じるかはそのときにならないとわかりません。
ただ現時点で不安なのは自分以上に父の心境ですね。
父はもともとめったに涙を流すタイプではないのですが、
母が亡くなって以降は母のことを誰かに話すたびに涙声になってるのですよね。
やはり母と一番長く過ごしてきたのは父ですから、
その喪失感は自分が思っている以上に大きいものなのでしょう。
今回の母の死のきっかけは母を含む家族全員がコロナになったことでしたが、
肺に持病のある母にはやはりコロナは非常に厳しかったのかもしれません。
全国的にコロナへの警戒心が弱まり、感染する人が増えてくると、
結果として母のような身体の弱い人が辛い思いをすることになるのでしょうね。
そして昨年から導入した在宅酸素も一長一短があったように思います。
在宅酸素がなかったときは、軽い風邪にかかったような状態でも、
急激にSpO2が下がり、家では対処できなくなってしまうので、
すぐに救急車を呼ぶしかなかったのですよね。
しかしながら、そうであることで早めの入院ができて、
病気が重くなる前に対処ができるという利点もあったように思います。
それに対して今回は酸素に関しては在宅酸素で対応できてしまうため、
「何とか自宅で乗り切ることを考えよう」と早期の入院は考えず、
それが高度脱水などの重い状態悪化を招いたのも事実なのですよね。
とはいえ、家族全員がコロナの状態で救急車を呼んで対応してもらえたのか、
在宅酸素があってコロナ以外の異常が見えない段階で対応してもらえたのか、
特に今は病院がどこもベッドがないという状態のようですし、
どうするのが正しかったのかは正直なところ、よくわかりません。
脱水にはもう少し早く気付いてあげるべきだったのだろうとは思いながらも、
昨年の入院以降はほぼ半分寝たきりに近いぐらいの状態の悪さだったので、
もう何かの病気になった時点で回復は難しかったのかもしれません。
今はまだ自分の中で明確なものが言葉に出来ないですが、
時間が経てばそのあたりがクリアになってくるかもしれません。
これまでみなさんには母の状態や自分の心境を心配していただき、ありがとうございました。
こういう結果にはなってしまいましたが、本当に感謝しています。
また母のことについては何らかの機会に報告したいと思います。
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