アルバム『BOLERO』の曲順の意味 / prologue / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎アルバム『BOLERO』にコンセプトはあるのか
『BOLERO』というアルバムは一般的に統一感がないと思われている。
もちろんコンセプトアルバムだった『深海』と比較すればそうなのは当然だが、
単純に一枚のアルバムとしてまとまりがなく、“Tomorrow never knows”以降のシングルと
『深海』以降に作られた新曲がバラバラに詰め込まれている印象がどうしても強い。
それゆえに『BOLERO』の曲順は意味のある繋がりだとは解釈されず、
かといって音楽的な結びつきを意識して繋げられたようにも見えない、
いったいどのような狙いで配置されたのかわからないと思われがちだ。
聴きやすく優しい歌詞のシングル曲が来たかと思えば、
次の曲では『深海』期以上にギスギスしたサウンドと歌詞が来るなど、
一枚のアルバムとして見るとあまりにも波が大きいという印象がある。
それゆえにどうしてもこの『BOLERO』というアルバムをはじめて見ると、
アルバム曲とシングル曲の雰囲気が分裂しているようにしか見えない、
異質なものを無理やり半分ずつ結合させたかのように見えてしまう。
そのような「一枚のアルバムとして」問題を抱える『BOLERO』なのだが、
果たして『BOLERO』というアルバムにはコンセプトらしきものはあるのか、
さらにはコンセプトに加えて曲順から意味を見出すことはできるのか、
あるいは単なる楽曲集として見るべきなのかを掘り下げていってみたい。
◎アルバム『BOLERO』のコンセプト
アルバム『BOLERO』のコンセプトについてはインタビューなどで
いくつか語られており、全くないと言えるものでないことはわかる。
しかし『深海』のように明確に一つのコンセプトが見えるものではなく、
複数の視点からコンセプトらしきものがいくつか見える感じに近い。
まず、アルバム『深海』の最終記事において深く触れたように、
桜井氏は「自分の体で生きるためにピュアな自分を殺した」
という意識を持っていた。
それゆえ、この意識が『BOLERO』の一つのコンセプトとなっている。
すなわち、「ピュアになることを諦めて、動物として生きよう」というものだ。
これは楽曲で言えば“ボレロ”的なコンセプトであると言っていいだろう。
あるいは“Brandnew my lover”などもこれに通じる価値観を持っている。
この点については『BOLERO』リリース時のインタビューでも桜井氏が答えている。
「だから『深海』までっていうのは、自分が死ぬか、ピュアな自分を殺して
生きていくのかの選択しかなくて、もう生きていくことを覚悟したあとなんですよ、このアルバムは。」
「(『何かをあきらめてしまったような。』と問われ、)そうですよ。(笑)
だから、自分がピュアのままでいられることを、あきらめたわけです。」[1]
もう一つは「とりあえず生きていくことにした」というものである。
アルバム『深海』のクライマックスにおいては、桜井氏は
本当に自らの死を選ぶのか、そうでないのかを迫られていた。
ただしそこで「生」を選んだとしても、夢も希望もないのは目に見えていた。
この「夢も希望もないけど、それでも生きていくことにはする」
というのもまた、この『BOLERO』のコンセプトにはなっている。
これは楽曲で言えば“ALIVE”的なコンセプトであると言っていいだろう。
これについても、『BOLERO』リリース時に桜井氏がインタビューで、
「次からどこに向けて歩こうかというか…それは、希望に向けてではないし、
夢を叶えるためでもなくて、ただ毎日毎日をただひたすら一生懸命生きてゆこうという。
テーマがあるとしたら、そこだけで。」[2]
などと答えている。
さらにはコンセプトは「ない」、ないしは「深海と同じ」というものまである。
たしかにコンセプトらしいコンセプトを考えながら作ったアルバムではないし、
『BOLERO』の曲ももともとは『深海』と同時期に作ったものが多い。
それゆえにこのようなコンセプトの表現も間違いではないわけである。
「(このアルバムのコンセプトはないのかと問われ)、うん、ないですね。
『深海』と『BOLERO』というのはコンセプトも比較されがちだけど、
言い方を変えればコンセプトも実は同じだと。曲を作った時期が同じだし。」[2]
このインタビューにおいて、中川氏は『BOLERO』の成立過程も含めながら、
「当初、今でいう『深海』と『BOLERO』は2枚組の予定だったからね。
そういう構想があったところからスタートしていたから。
やっぱり、その過程で2枚組というのは、ちょっと違うだろうと。
2、3ヶ月遅れでリリースするのも違うということになって、
今に至るわけだよね。そんなに、だからコンセプトも同じというのが正直なところかな。」
と答えている。
ただし、これらで答えられたコンセプトは多くが問題をはらんでいる。
それは、そのほとんどが「『深海』後のアルバムとしてのコンセプト」だからだ。
とりわけ“ボレロ”的なコンセプトと“ALIVE”的なコンセプトは、
「『深海』の後の新曲における桜井氏の心境」を表現しているが、
『深海』以前の曲も含む『BOLERO』のコンセプトとしてはなじまない。
本来アルバム『BOLERO』のコンセプトなるものを考えるのであれば、
それは「『深海』前の曲も『深海』後の曲も含むアルバムとしての
『BOLERO』のコンセプト」を指していないといけないはずだ。
しかし、これまでのインタビューではその答えはまだ得られていない。
◎新曲“Everything (It's you)”の謎
“Everything (It's you)”の歌詞解説記事の中でも少し触れたが、
この曲には一つ大きな謎が残されたままになっている。
なぜもはや「愛」を信じることができなくなった桜井氏が、
ここに来て「理性的な人間としての理想の愛」を歌にしたのかだ。
『深海』『BOLERO』期には、「人間としての理想の愛」を書いた曲が3つある。
『深海』収録曲の“Mirror”、“名もなき詩”、そしてこの“Everything (It's you)”である。
しかし“Mirror”と“名もなき詩”は、『深海』というアルバムの物語において、
「“Mirror”のように美しく出会い、“名もなき詩”のように深く愛し合っても、
二人で暮らせば結局は“ありふれたLove Story”のような平凡な経過をたどり、
別れ(“手紙”)に至るのだ。」ということで、否定される位置付けに置かれた。
さて、一方の“Everything (It's you)”は『BOLERO』の1曲目に配置され、
ほぼ最後には対極的な意味を持つ“ボレロ”が置かれる構造になっている。
ここで鋭い人であれば、おそらくは気付くのではないだろうか。
「このアルバムは“Everything (It's you)”という『理性的な人間の理想』から、
“ボレロ”という『所詮動物でしかない人間の現実』へと堕ちていく物語なのではないか」
ということだ。
そうすれば、“Everything (It's you)”もまた否定される位置付けに置かれ、
“Mirror”や“名もなき詩”が置かれた位置との整合性も取ることができる。
果たしてそうなのか、この仮説をもとに『BOLERO』全体を見ていくことにしよう。
◎アルバム『BOLERO』の曲順の意味
さて、まずはあえてこれまで触れてきていなかった
アルバム最終曲の“Tomorrow never knows”に触れないといけない。
過去のWikipediaによると、桜井氏は“Tomorrow never knows”の曲順について、
「この曲はここ(アルバムの最終曲)に入れるしか収まりがつかなかった。
まぁボーナストラックとでも思ってください」
「これが答えか?と聞かれると、それはちょっと…」
とインタビューで答えたようだ。
ただこのときのWikipediaでは出典が記載されていなかったため、
どの雑誌が出典かわかる方がいればどうか教えてほしい。
とりあえず以降はこの発言は正しいものとして記事を進めていく。
すなわち、“Tomorrow never knows”はボーナストラックにあたるため、
アルバム本編の物語からは外して考えたほうがいいことになる。
そのため、“Everything (It's you)”から“ボレロ”までで考えていくこととする。
アルバムの最初を飾る“Everything (It's you)”では、これまでに述べたように、
「理性的な存在としての人間の理想の愛」を高らかに掲げる。
そんな理想を掲げた桜井氏であったが、“タイムマシーンに乗って”では、
「前略 宮沢賢治様 僕はいつでも 理想と現実があべこべです」[3]
と早速、その理想の通りに生きることができないことを語る。
続く「“雨ニモマケズ 風ニモマケズ” 優しく強く 無欲な男
“ソウイウモノ”を目指してたのに」[3]と“Everything (It's you)”で
描かれたような徹底して「無欲な男」にはなれないのだと語るのだ。
続く“Brandnew my lover”では、“タイムマシーンに乗って”で語った、
「理想と現実がどのようにあべこべなのか」をそのまま突き付けてくる。
すなわち、理想が“Everything (It's you)”であるのに、
現実は“Brandnew my lover”でただ快楽を貪っているのだ。
この理想と現実の乖離を受けて、続く“【es】 ~Theme of es~”では、
「『愛とはつまり幻想なんだよ』と 言い切っちまった方が
ラクになれるかもなんてね」[4]と愛そのものを信じるのを止めようと考える。
さらに続く“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”では、
人間とは「愛の神秘に魅せられ」ながらも、実際にやっているのは
「迷い込む恋(=エゴとエゴのシーソーゲーム)のラビリンス」でしかない、
という現実を突き付け、
「何遍も恋の辛さを味わったって 不思議なくらい人はまた恋に落ちてく」
と「恋のラビリンス」から抜け出すことができないことを示し、
それを「世界中の誰もが 業の深い生命体 過ちを繰り返す 人生」と示し、
人は「愛にたどり着けない愚かな存在である」と痛烈に断じるのである。[5]
“シーソーゲーム”は曲調こそかなりポップではあるが、
実際にはこうした非常にヘヴィなテーマ性を帯びていることは、
“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の歌詞解説でも触れているので、
この記事を読んでいる方は、ぜひそちらにも目を通していただけるとありがたい。
そして“シーソーゲーム”で「愛とは幻想である」と断じた桜井氏は
“【es】”でいうように「ラクになれる」ことができたのだろうか。
しかし実際はそんなことはなく、「愛とは幻想である」と断じたことで、
さらに希望はなくなり、続く“傘の下の君に告ぐ”では、
愛さえも売り買いされ、屈折した欲望を抱える者達ばかりであることに絶望し、
「夢も希望もありゃしないさ」[6]とさらに夢を希望を失ってどん底へと沈むのである。
このあたりでアルバム『BOLERO』は死の影がチラついてくるが、
続く“ALIVE”では前曲の「夢も希望もないこと」を受け継ぎながらも、
「死にはせずに生きる」という決心をしたことを語っている。
アルバムの冒頭からここまで、「愛の理想と現実とそれに対する絶望」
によって深く悩んできた桜井氏だったが、このあたりで変化が訪れる。
続く“幸せのカテゴリー”では、答えは示さないながらも、
「最近はちょっぴり解りかけてるんだ
愛し方って もっと自由なもんだよ」[7]と何かを見つけたように語る。
ここには「“Everything (It's you)”のような人間の理想の愛だけでなく、
もっと別の愛のあり方を考えてもいいと思う」という意図が込められている。
そして“everybody goes -秩序のない現代にドロップキック-”では、
混沌として動物的な本能で動く人間像を示し、
「それを嘆くのではなく、これをそのまま受け入れて愛せばいいのではないか」
という心境を示している。
“everybody goes”はもともと深い絶望の中で作った曲ではなく、
実際には“Tomorrow never knows”と同様にアルバムの物語の中から
外れてもおかしくなかったが、このように上手く入ることに成功したのである。
そして最後は“ボレロ”に到達し、“Everything (It's you)”で示した
「理性的な人間の理想の愛」を捨てて、そのかわり「動物的な本能のみの恋」
に愛しさを見出して、その対極の地に到達してアルバムは幕を閉じるのである。
このように『BOLERO』というアルバムは、
これまでメンバーも含めてほとんど語られることがなかったが、
実は明確に曲順に意味を持たされた作品だったのである。
とはいえ、曲全体がストーリーの一部としてはっきりと意味を持ち、
「ここしか置き場所がない」というのが明確であった『深海』に比べると、
「曲の歌詞の断片を繋げると一つの意味が見えてくる」だけの『BOLERO』は、
やはり『深海』のような明確なコンセプトアルバムとは言い難いだろう。
たとえば“幸せのカテゴリー”はアルバムの後半に置かれているが、
歌詞全体を見ると『深海』前を思わせる部分が多いということもあるなど、
曲順をある程度変えても意味としては通じる部分もあったりしてしまう。
そのため、この『BOLERO』の曲順は、
「“ボレロ”をこの数年間の結論にしたいと思っていた桜井氏が、
そこにあった楽曲を意味が成立するように並べた」
というものであったと言うことができるだろう。
ただ、それによって今まで単に散漫と思われていただけのアルバムが
「(最後の曲を除いて)全体を通して聴いて意味があるんだよ」
という意味が与えられたことはアルバムの価値を高めてはくれるだろう。
◎『BOLERO』と『深海』の関係
『BOLERO』の曲順の意味が分かってしまえば、
アルバム『深海』との関係性も自ずとわかるだろう。
まずこの『BOLERO』の曲順を見ると、
“ALIVE”から『深海』後の雰囲気が漂い出すことが明確に見える。
「ピュアな自分を殺すかわりに、自分の肉体を生かして所詮動物でしかない人間を見つめる」
というところへと、曲を追うごとに近づいていき、“ボレロ”で到達するのが見える。
そして『BOLERO』と『深海』の関係はインタビューで桜井氏が、
「『BOLERO』というアルバムの中の、(アルバム)『深海』というのは
ある一曲だと思うんですよ。『深海』と『BOLERO』の間のいろんなところに、
いろんな音楽を旅して、『深海』という一曲ですごく深くまで入り込んだ、
そういうある一曲のような気がするんですよ。」[2]
と語っているが、この『BOLERO』の曲順の意味を掘り下げた今ならば、
『深海』が『BOLERO』の中のどのあたりに位置しているかもはっきり見えるだろう。
“シーソーゲーム”の後か“傘の下の君に告ぐ”の後か、
このあたりに『深海』が一曲として存在することが見えてくる。
したがって、アルバム『BOLERO』の途中にそのまま『深海』を挿入するなら、
このどちらかの位置に入れるのが適切ということになるだろう。
あるいは別の言い方をするならば、
“シーソーゲーム”から“傘の下の君に告ぐ”のあたりにかけて、
その下に大きな『深海』が広がっていると言ってもいいだろう。
ただし『BOLERO』の楽曲と『深海』前、『深海』後の関係は、
他の解釈を取ることも可能で、より複雑さを帯びているため、
『深海』と『BOLERO』の曲の並べ方はこれだけが唯一の正解というわけではない。
無論、『深海』『BOLERO』期の最後の曲は“ボレロ”よりも、
“ALIVE”であってほしいという人も少なくないであろうし、
“ボレロ”が桜井氏にとって暫定的な気休めだったことを考えれば、
さらに他の曲の並び方を考えることの可能性も広がってはくるだろう。
◎アルバムタイトル『BOLERO』
このアルバムのタイトルの『BOLERO』が、“ボレロ”から来ているのは明らかだが、
これは別に「アルバムの結論的な位置付けが“ボレロ”だから」という意味ではなく、
「“ボレロ”のアレンジから、アルバムタイトルにふさわしいと考えられたから」である。
しかし一方で桜井氏は「このアルバムには本当はタイトルはいらないのかもしれない」
という思いが強かったのか、当時のインタビューでアルバム『BOLERO』について言及するときは、
「アルバム『BOLERO』、いや『BOLERO』じゃなくてもいいのかもしれないけど」、
のように注釈を置くような形で言及することが多かった。
当時の桜井氏の『BOLERO』のアルバムタイトルに対する引用もいくつか言及しておこう。
「なんでタイトルになったかといえば、この曲(“ボレロ”のこと)が、
こういうボレロ風にアレンジされたことで、このアルバムに更なる生命が宿った
気になったからです。ラヴェルのボレロの、ちっちゃい音のところから始まって、
どんどん加わる楽器も多くなって、という、それは、ミスター・チルドレンも
多くのものをこれからも巻き込んで前進していきたい、という思いと、
人生もまたしかりなのでは、という、この二つが重ね合わされています。そんな想いからですね。」[8]
「ボレロっていうのは、あのラヴェルの《ボレロ》っていう音楽があって、
アルバムの中に収録されている“ボレロ”があの曲のようなアレンジになっているんですね。
あのアレンジをしてあの曲が出来上がった時に、このアルバムに何か新しい生命が加わった
っていう感覚が強かったんですよ。でも、タイトルを決める時には、何にしようかとは迷っていて…
結局最後には自分を説得させるために、タイトルが決定したような感じなんですが(笑)。
このアルバムには、本当はタイトルなんていらないのかもしれないし。
…あの《ボレロ》というっていうのもそうだし、この“ボレロ”っていうのも、
最初、小っちゃいところから始まって、どんどんどんどんクレッシェンドしていく。
Mr.Childrenというのもそうでありたいし、人生もまたそうでありたいという想いが込められています。[2]
2つめのインタビューでは、タイトルに迷ったことであったり、
「本当はタイトルはいらないのかもしれない」という気持ちについても語られている。
そういう点からすると、このアルバムは『BOLERO』というタイトルでありながら、
同時に『無題』に近いニュアンスも持ったアルバムであるとも言えるのだろう。
◎アルバムジャケット
アルバムタイトルの『BOLERO』についてはインタビューで語られているが、
アルバムのジャケットに関しては特に言及されているケースは見られない。
しかしどのような背景からデザインされたかはおおむね想像することはできる。
“ボレロ”のドラミングをイメージしたスネアドラムを持った少女を主役に、
ドラムを叩くたびに少しずつ人生がクレッシェンドしていき、
それが“ALIVE”の「やがて荒野に 花は咲くだろう
あらゆる国境線を越え…」[9]という歌詞へと結びつくというものである。
“ALIVE”は“ボレロ”と同様にアルバムタイトルの候補でもあり、[8]
アルバムの象徴的な曲であったことを考えればありうる扱いであろう。
◎prologue - アルバムタイトル『BOLERO』への誘導路
“prologue”はサウンドを聴くとわかるように、
“ボレロ”と同様にオーケストラで録音されたものである。
言わば「ミニ・ボレロ」のような存在とも言えるもので、
アルバムの最終的な着地点とアルバムタイトルを連想させる、
という役割を持たせられた小曲となっている。
この“prologue”については、桜井氏がインタビューで、
「プロローグで始めるというのは小林(武史)さんのアイデア(笑)。
11曲目の“ボレロ”のアレンジを考えている時に出たアイデアでね。
アルバム・タイトルを匂わせつつ、感じを出しているよね。
小林さんはけっこうこういう誘導路作るのを得意としてますよね」
と語っている。
◎出典
[1] 『PATi・PATi』 1997年3月号より
[2] アルバム『BOLERO』 フライヤー pause 新星堂より
[3] “タイムマシーンに乗って”の歌詞より
[4] “【es】 ~Theme of es~”の歌詞より
[5] “シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の歌詞より
[6] “傘の下の君に告ぐ”の歌詞より
[7] “幸せのカテゴリー”の歌詞より
[8]『月刊カドカワ』 1997年4月号より
[9] “ALIVE”の歌詞より
【関連記事】
・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
ボレロ / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎最初は全く意図がつかめなかった
当時リアルタイムでこの『BOLERO』のアルバムを購入したとき、
それが本当に正しい解釈であったかどうかは別としたうえで、
どの曲も歌詞からある程度のイメージを描くことができたのだが、
この“ボレロ”だけが自分の中で宙に浮いていたことをおぼえている。
たとえば“タイムマシーンに乗って”や“Brandnew my lover”などは、
明らかに『深海』の流れを汲んだ、社会などへの絶望を見ることができる。
しかしこの“ボレロ”は明確な形で何かへの絶望は描かれてはいないが、
音も雰囲気も明らかに『深海』を受け継いだ何かを感じさせられたのだ。
かといって、恋愛を描いてはいるが明らかに“Everything (It's you)”のような
ラブソングと形容できるものとは別のものを書いてるようにしか見えなかった。
暗いが明確に絶望的ではなく、何か確信めいたようなエネルギーを持っている、
しかし決してそれは“Tomorrow never knows”のような真に前向きなものではない、
この「本当にどこを向いているのかがわからない」、“ボレロ”が奇妙だったのだ。
「この“ボレロ”の本当の意図は何だろう」という謎は長い年月残ったままであった。
◎所詮動物でしかない人間に愛しさを見出せないか
この曲の謎が解けたのは、『深海』『BOLERO』期の楽曲をより詳しく知ろうと、
当時のインタビュー記事を集め始めた時期に読んだ、この桜井氏の言葉であった。
「ていうか、逆に最後の“ボレロ”っていうところなんかは……要するに如何に人間とか、
恋をするっていうのは──そういうすべてのことが『なんて愚かか』と思って。
それは悲観してるのではなく、それだから愛しいって思うんですよ。
そう想えるようになったっていうか。
だから“ボレロ”っていう歌をストレートで真面目な恋の歌ってとるかもしれないんだけど、
僕にとっては『真面目に愚かに恋をしてる男が愛しい』っていう、
そういう風な気持ちで書いてるんですよ。」[1]
桜井氏の絶望の経過をたどっていくと、まず「人間とはいかに愚かか」
というところに突き当たっていく。
それを明確に描いたのが「愛という理想を掲げながら、実際にはエゴの綱引きしか
できない人間という存在」を書いた“シーソーゲーム”であった。
そしてこの時期を通じて桜井氏はある一つの考えが自分の中で大きくなり始める。
それが「人間など所詮は動物に過ぎないのではないか」という考えである。
これは「es」という人間の動物的情動を頼りにし始めたときから生まれ始め、
“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”のジャケットでも皮肉的に描かれている。
その後はたびたび桜井氏の中で「所詮は動物でしかない人間」の概念が表れてくる。
それが最も顕著に表れたのが『深海』の中の“マシンガンをぶっ放せ”であったし、
とりわけ「純粋になれない人間」への苦悩に対して「どうせ人間なんて動物なんだから、
不純になってしまえばいいんだよ」という形で浮上してくることが多かった。
言わば、「所詮動物でしかない人間」は桜井氏の絶望の源泉の一つであり、
それと同時に「純粋になれない人間と自分」の苦悩の逃避先でもあった。
そこに変化が生じたのが『深海』で、このアルバムにおいては、
中盤まで「どうあがいても人間は純粋になどなれないんだ」と歌いながらも、
最終盤に再び「それでも純粋でありたい」と願うがゆえに死へと向かうことで、
「死を選ぶくらいであれば、純粋でありたい自分を殺そう」と決意し、
これが『BOLERO』期へと向かう一つの原動力となったのであった。
それゆえ「もう不純であることを認めよう。人間なんてただの動物なのだから」
という意識は『BOLERO』期になって、よりその比重は大きくなっていくのだが、
それでもやはりそれが「純粋になれない人間」の逃避という側面は大きかった。
そこで桜井氏は「所詮動物でしかない人間」を逃避先としてとらえるのではなく、
「動物としての人間に何とか愛しさを見出すことができないか」と考えたのだ。
そう、その意識が結実したのがこの“ボレロ”の歌詞だったのである。
◎“Everything (It's you)”の対極にある歌詞
“ボレロ”という曲の意図は“Everything (It's you)”と比較すると明確に見えてくる。
“Everything (It's you)”という曲は、「理性的な存在である人間」、
としての「理想の愛」に100%完全に寄り添って書かれたものであった。
それは言い換えれば、「純粋でありたい人間」の立場から書かれた曲である。
それに対して“ボレロ”という曲は、「動物としての人間」としての
「恋(愛ではない)」に寄り添い、そこに愛しさを見出した曲である。
おわかりだろうか。この2つの曲は、置かれた立場が完全に対極的なのである。
「所詮動物でしかない人間」からの視点では“Brandnew my lover”なども同様であるが、
あの曲の中から「動物としての人間への愛しさ」を見出すのはさすがに難しい。
しかしながら、この曲はその「動物でしかない人間」に対して、
ある種の力強さを見せながら、それを肯定する姿を見せてくる。
“ボレロ”の歌詞をよく見ればわかるのだが、ここには「理性」がないのだ。
「心なんてもんの実体は 知らんけど」[0]とまで言ってしまうぐらいに、
「自覚的な心」からも遊離してしまった存在がここには描かれている。
「身体中が君を 求めてんだよ」[0]という表現が実に顕著であるが、
もはや心を超えて、「身体的本能」だけでこの主人公は動いているのである。
「まるで病」[0]で、相手のこと以外は何も考えることができず、
「悩める世界全体の一大事も 無関心でいられちゃう」[0]ほど自己の制御から離れている。
そして何より顕著なのが、桜井氏がたびたび口にするようになっていた
「人間なんて動物なんだから、本能のままに生きてしまえばいいんだよ」
という、そうした「動物的本能だけで生きる人間」の姿が
「感情をむき出しにして 朝から晩まで 裸のまんまで 暮らしたい」[0]
「本能のまんま 自由にして 夜のベランダで 裸のまんまで 暮らしたい」[0]
というところに明確に描き出されている。
まさにこれは「所詮動物でしかない人間」の究極的な到達点であった。
あるいは“【es】 ~Theme of es~”のときに苦悩を抱えつつ描かれた
「Oh なんてヒューマン 裸になってさ 君と向き合ってたい」[2]
の行き着いた先であったと言っていいのかもしれない。
◎これで本当に桜井氏は葛藤から解放されたのか
「人間の愚かさ」を出発点に大きな苦悩に苛まれ続けて、
「純粋になることができない人間」であることに苦しみ、
それゆえに「所詮動物でしかない人間を受け入れよう」と考え、
この“ボレロ”によって桜井氏はその到達点に達したかのように見える。
しかしそれで、本当に桜井氏はこの『深海』『BOLERO』期の葛藤から解放されたのか。
残念ながら、その答えははっきりとしていて、
この“ボレロ”における結論が桜井氏を本当に救うことはなかった。
桜井氏がこの“ボレロ”で葛藤から抜け出たわけではないことは、
この曲の歌詞以上にミュージックビデオが雄弁に語っているだろう。
Mr.Children - “ボレロ” Music Video
『深海』の象徴でもあった椅子という存在に倒れるようにもたれかかり、
その呪縛に縛られながら歌う姿に「葛藤からの解放」は微塵も感じられない。
しかも『深海』の椅子のモデルが電気椅子であったことを考えれば、
今もなお自らを刑罰にかけながら椅子でもがいているかのようである。
結局のところ、“ボレロ”が示すことができたのは、
「所詮動物でしかない人間」に対する「最大限好意的な解釈」でしかなかった。
もっともこうした暫定的な結論に過ぎないものであっても、
当時の桜井氏にとっては多少の救いになっていたのかもしれない。
しかし決して、根本的な救いにはなっていなかったこともまた事実なのだ。
◎音楽的に見て
この“ボレロ”は曲名からもすぐにわかるように、
音楽的にはラヴェルの「ボレロ」をモデルとしている。
ただ桜井氏のインタビューを見るに、曲の原形を書いたときから
ラヴェルの「ボレロ」をイメージしていたというわけではなくて、
編曲するうえで小林武史氏とのやり取りなどを通じて、
「ラヴェルのボレロのようなサウンド」にたどりついたようである。
そうした経緯について桜井氏はインタビューで、
「最初、アレンジしてる時に、まず第一アレンジを演ってみたんですよ。
でも、どうも違うと思って、小林さんに言ったんです。『もっとこんなのやりたいんですよ、
シンバルがジャーンと鳴って、ストリングスがもっと入ってて、
ティンパニーがバーンと入ってて……』って。そしたら、『それってオーケストラじゃん』って(笑)。
じゃあ、たとえばラヴェルのボレロを違うリズムにして……って言われて、いいなと思って、
小林さんにシミュレートお願いしてね。で、後日出来たの聴いたら、
俺の思ってたのとは違ったんだけど、すごくよかったんですよ。」[3]
また、この曲はオーケストラが演奏しているのだが、そのことについて田原氏が
「この曲では、フル・オーケストラに演奏してもらってるんですよ。
渋谷の『オーチャード・ホール』というところだったんですけど」[4]
と語っている。
◎おわりに
この曲の最大の存在意義は“Everything (It's you)”とは対極的なものが、
アルバムのほぼ最後に配置されているという事実にこそあるだろう。
そしてこの“ボレロ”はそれが本当に桜井氏を救ったかどうかとは別に、
「所詮動物に過ぎない人間」という観念を強く抱いていた桜井氏にとって
「一つの最終到達点と感じられる結論」であったことも事実なのである。
さて、この事実と“Everything (It's you)”のテーマ性を並べると、
すでに勘の良い人はあることに気付いているのではないだろうか。
次回はついにそれらをもとに『BOLERO』のアルバムコンセプトに迫っていこう。
◎出典
[0] “ボレロ”の歌詞より
[1]『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
[2] “【es】 ~Theme of es~”の歌詞より
[3] 『WHAT's IN? ES』 1997年4月号より
[4] 『月刊カドカワ』 1997年4月号より
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
Everything (It's you) / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎アルバム『BOLERO』の前に問うべきことがある
アルバム『深海』に関する考察は前記事において完結したので、
この記事から『BOLERO』期への考察に入っていくことになる。
となると、本来であればまずは『BOLERO』のアルバムタイトルの由来や
『BOLERO』のアルバムコンセプトなどをまとめた記事を作るべきだが、
この『BOLERO』に関してはどうしてもその前にすべきことがあるのだ。
『BOLERO』というのは、コンセプトが非常に伝わりにくいアルバムである。
しかも桜井氏を含むメンバーもその点についてはあまり深く言及していない。
その謎を解き明かすためには、いきなりアルバムコンセプトに触れるよりも、
その核となる2つの曲について知っておかないといけないという事情がある。
そこで今回は『BOLERO』のアルバムコンセプトの解説記事に先駆けて、
『BOLERO』を解析するうえで最も重要な2曲を先に取り上げていく。
まずその1曲目となるのが、アルバムの先行シングルともなった“Everything (It's you)”だ。
◎理性的な存在としての人間としての理想の「無私の愛」
“Everything (It's you)”のテーマは「無私の愛」、「無償の愛」である。
「ちょっと待て。あれだけ『深海』で『愛なんて存在しない』と歌っておいて、
どうしてここにきて『無償の愛』をテーマにした曲が出てくるのか」
と言いたくもなるだろう。
実はそれこそがアルバム『BOLERO』のコンセプトと密接に結びついてるのだが、
これは決して桜井氏が再び「愛の賛美」を歌おうとしたというわけではない。
しかし、“Mirror”や“名もなき詩”がそうであったように、
この“Everything (It's you)”もまた当時の桜井氏が考えていた
「愛の理想形」の表現したこの時期の数少ない曲の一つであるのも事実だ。
むしろ『BOLERO』というアルバムを出す直前であったからこそ、
自らの考える「愛のあるべき形」を表現しておく必要があったとも言える。
一方でこの“Everything (It's you)”を聴かせることによって、
「あぁ、桜井氏はもう『愛は幻想だ』という苦悩からは抜けたのだな」
と勘違いさせる狙いも全くなかったわけではないのかもしれないが。
◎真実の愛は「エゴからの解放」の先にある
この“Everything (It's you)”が単なる恋愛の歌ではなくて、
いかに徹底して「無私」を、「エゴからの解放」を歌っているかは、
歌詞の様々な部分を読むことによって伝わってくる。
その最もわかりやすいのが最後のサビに登場する、
「自分を犠牲にしても いつでも 守るべきものは ただ一つ 君なんだよ」[0]
という箇所であろう。
「自分を犠牲にしても君を守る」というのは、
「自らのエゴよりもあなたを大切にしますよ」と伝える言葉である。
もっと言うなら、「自分なんてどうでもいいから、あなたを守るんだ」という、
自分がエゴから解放された先の地点から相手を愛していることを伝えているのである。
“Everything (It's you)”の歌詞が秀逸なのはここだけではない。
むしろその前段との対比こそがこの曲の真骨頂であると言っていい。
「何を犠牲にしても 手にしたいものがあるとして
それを僕と思うのなら もう君の好きなようにして」[0]という箇所である。
ここは自分ではなく、愛する人(=相手)の立場から書いたものである。
そしてこれは自己犠牲や無私ではなく、むしろ「欲求」であり「エゴ」である。
すなわち、「私はあなたに対しては全てのエゴを捨てて向き合います。
でもあなたの欲求は、たとえそれがエゴでも全て受け入れますよ」という宣言である。
前段で相手に「あなたのエゴも受け入れる」という想いを示し、
後段で「私はエゴを捨て、いくらでもあなたのために尽くします」と歌う。
この対比によって、主人公の「無私の愛」が強調されているのである。
◎人間誰しもある「執着」すらからも離れた先にある愛の姿
しかしこの“Everything (It's you)”で最も美しいのはここではない。
桜井氏自身も気に入ってる[1]と語る二番のサビに勝るものはないであろう。
「僕が落ちぶれたら 迷わず古い荷物を捨て
君は新しいドアを 開けて進めばいいんだよ」[0]
「古い荷物」が指すのはもちろん「落ちぶれた僕」である。
人間愛情を持つ相手には誰しも一定の執着心を持つものであろう。
たとえ執着が良くないことであると知っても、それを消すのは困難だ。
しかしこの歌詞はその「執着の放棄」をも示唆し、
「(自分はあなたを愛しているから本当はそばにいたいけど、)
君が僕を価値のある存在だと思えなくなったら、
迷わず捨てて旅立ってくれればいいのだよ」と伝えるのだ。
この「執着」すら捨てる「無私の愛」にどれほどの美しさを感じればいいだろうか。
また同時に桜井氏の考える「あるべき愛の形」がこうであったからこそ、
そこから程遠い地点にいる人間や自分自身に絶望したことをもこの曲は映し出している。
そしてもう一つこの曲において欠かすことができないのが、
「愛すべき人よ 君に会いたい 例えばこれが 恋とは違くとも」[0]
の部分だ。
我々は愛情で結ばれた関係をことを「恋愛」とまとめて呼んでしまうが、
果たして“Everything (It's you)”で綴られる「無私の愛」までも
この「恋愛」という軽々しい言葉で呼んでしまっていいのだろうか。
「愛」の究極の形はこの曲で描かれたような「無私の姿」であり、
エゴから解放された先にはじめて到達することができるものである。
それに対して「恋」はむしろエゴと直結した感情であると言っていい。
だからこそ桜井氏は“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”を通じて、
「恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」[2]と歌ってきたのだ。
そう考えるなら、本当に「無私の愛」を突き詰めた先に到達するのは、
「愛」ではあっても、「恋」とはもはや別のものなのかもしれない、
そうであるからこそ桜井氏はここで「例えばこれが 恋とは違くとも」[0]
と歌うのである。
◎もう一つの姿 - 疲弊しきった自分
この“Everything (It's you)”の歌詞はほぼ2つの部分に分かれていて、
1つは「無私の愛」に書かれ、もう1つは「疲弊した自分」が描かれている。
『深海』のリリース後に“マシンガンをぶっ放せ”のシングルは出たものの、
“マシンガンをぶっ放せ”は『深海』と一連の形で出たという印象が強く、
最も強く「『深海』の次」を意識する形で出たのはこの曲となるであろう。
言い換えるなら、「死の淵まで行きながら、何とか踏みとどまった自分」の姿が
ダイレクトな形で表に初めて出たのがこの曲であったと言うこともできる。
そこに描かれるのは、「夢」などに前向きな希望を持ったものではなく、
ただ疲弊して、ただ生きているとも言える桜井氏の姿であった。
「世間知らずだった少年時代から 自分だけを信じてきたけど
心ある人の支えの中で 何とか生きてる現在の僕で」[0]
という冒頭の箇所では、
もはや「自分という存在が自分の力で生きていない」姿を連想させる。
続く「弱音さらりたり グチをこぼしたり
他人の痛みを 見て見ないふりをして」[0]というのは、
『深海』などをはじめ、自分の苦しさとしか向かい合うことができない、
そうした自分の状態を俯瞰的な視点から描き出したとも読むことができる。
「幸せすぎて大切な事が 解りづらくなった 今だから」[0]における
「幸せ」は個人的な幸せや、桜井氏自身の幸せという意味ではなく、
文明が進み、便利なものが増えたという意味での「幸せ」だろう。
そしてその一方において「愛」や「夢」に関しては桜井氏は信じられなくなり、
「友情」にしても「人情」にしても大切なのかだんだんわからなくなってくる、
そういう時代のあり方を切り取ったのがこの部分であると言えるだろう。
「歌う言葉さえも見つからぬまま 時間に追われ途方に暮れる」[0]と、
そういう時代であるがゆえに「何を歌うべきかもわからない」と吐露するのだ。
そして2番における「夢追い人は旅路の果てで 一体何を手にするんだろ
嘘や矛盾を両手に抱え 『それも人だよ』と悟れるの?」[0]というのは、
この当時の桜井氏の意識をあえて裏側から映し出したようにも読める。
というのも、『深海』期の桜井氏は、
「人間なんてどうしようもないものなんだよ。
もうそういうものだっていうふうに受け入れてしまおう。」
というように、「所詮愚かな動物でしかない人間」を
受け入れることで苦悩している自分の救いを見出そうとしていた。
そうした考え方についてはインタビューにおいても、
「だからその辺から何が起こっても、どんなことがあっても
当たり前のように思うっていうか。
『しょうがない、人間はそうだよ。そういうこともあって人間じゃん』
っていう風になっていくんですよ。
だからもう感動したりとか、驚いたりすることもないし。」[3]
と答えている。
ここで書かれているのは、まるでそうした「夢追い人だった自分が、その旅路の果てで
嘘や矛盾を両手に抱えながら悟ろうとしているその姿」を俯瞰的な視点で見て、
それをさらに「本当にそれでいいの?」と問うている姿にも見える。
「人間は所詮愚かな動物でしかないと受け入れよう」というのは、
いわば桜井氏の中にある「不純になってしまえ」という悪魔の部分に根差しており、
この“Everything (It's you)”はあえて逆に100%天使の視点から書いた曲でもある。
そうした曲であるからこそ、「それも人だよ」と悟ろうとしている自分を
あえて俯瞰的な視点から書くことができたのかもしれないと言えるだろう。
◎当時の桜井氏はこの曲への思い入れは非常に浅かった
当時の桜井氏の価値観を考えれば何となく想像がつくことではあるが、
桜井氏はリリース時にこの曲のことをあまり語りたがっていなかった。
桜井氏の中ではもう「愛なんて幻想である」という意識が固まっており、
いくらそれと同時に「本来は愛とはこうあるべきなのに」という思いがあっても、
それを積極的に語るというのは無理があったのだろう。
この“Everything (It's you)”に関するインタビューでは、
「これシングルっぽいでしょ? メロディーがすごく強い。ホイットニー・ヒューストンの
♪アンダ~イヤ~とウルフルズの♪バンザーイ、を足して2で割ったような。
♪ステ~イ……(笑)。逆プロモーションですね、これじゃ。」[1]
とあからさまにふざけて答えている。
意味を読み取りやすい歌詞だったとはいえ、桜井氏が真面目に語る場面はほぼなく、
「あぁ、あまり語りたくないんだろうな」と雰囲気ではっきりわかるほどであった。
◎音楽的に見て
この曲の仮タイトルが「エアロ」(エアロスミスのこと)であったことはよく知られており、
それゆえ「ハードロックバンドがやりそうなバラードをしたい」という意思があったのだろう。
ただし桜井氏はもともとエアロスミス以外のハードロックを嫌っていたが、
アルバム『深海』の“深海”で(エアロスミスの)ジョー・ペリー風の
ギターソロを弾いたことなどもあり、ハードロック的なサウンドも
一つの方法論としてありえるのではないかと浮かんできた可能性はあるだろう。
インタビューでも音楽的にはエアロスミスの名前を積極的に出している。
「アレンジは最初からこういうイメージでしたね。
スケールがでっかくて、エアロスミスのような。」[4]
「ここ最近の自分の傾向として、ハード・ロックが割と好きになった、
というのはあるかもしれないですよ。この曲にしても、ハード・ロックのバンドがやる
バラードをやってみたら、みたいなことでもありましたから。
ハード・ロックって実はちょっと前まで大嫌いだった。それがここのところ、変わって…。」[5]
また、曲の構成としてはもともと大サビも作っていたそうだが、
最近のシングルに大サビをつけるケースが多かったことも鑑みて、
あえて大サビをカットしてシンプルにしたことが語られている。
「これ、最初は大サビもあったんですけど、それが途中でなくなったんです。」
「大サビへ行く展開って、“【es】”でも他の曲でもやってたので。
歌の内容もシンプルだから、大きな展開へ行かないで、
むしろ最後まで個人的な感じのほうがいいのかなぁ、ということでした。」[6]
◎おわりに
この曲がリリースされるまでは、
「アルバム『深海』で桜井氏は愛について深く悩んでいるようだが、
桜井氏が『愛とはどうあるべきか』を考えているのかがわからず、
恋愛への不信感だけが先に立ってる」と感じる人も多かっただろう。
しかし、この曲が出たことにより、
桜井氏の考えている「理性的な人間としての理想の愛の形」が明確になり、
この曲の歌詞を通したうえで他の曲の歌詞を読むことができるようになった。
たとえば「愛って本当はこうあるべきなんですよ。それを理解したうえで、
“シーソーゲーム”や“ありふれたLove Story”で書いた恋愛のあり方を見てください」
となれば、「なるほどこのように恋愛への不信感が肥大化したのか」と理解することができる。
しかし、そうではあってもこの曲のリリースには一つの謎が付きまとう。
すでに愛への不信感が極限を超えていた『深海』リリース後のタイミングで、
なぜここまで「理想的な無償の愛の形」を書いた曲を出したのかということだ。
それは『BOLERO』というアルバムの真の姿を映し出す鍵となる謎でもあるのだ。
◎出典
[0] “Everything (It's you)”の歌詞より
[1] 『PATi・PATi』 1997年3月号より
[2] “シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の歌詞より
[3] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
[4] 『CDでーた』 1997年2月号より
[5] 『WHAT's IN?』 1997年3月号より
[6] 『月刊カドカワ』 1997年4月号より
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
『深海』に残された謎を探して
◎全ての始まりは「夢を叶えた先にあった絶望」だった
アルバム『深海』の話題をさかのぼる前に、
そもそも何が桜井氏を絶望に導いたのかを思い起こしてみよう。
“CROSS ROAD”、“innocent world”、“Tomorrow never knows”と、
連続してシングルヒットを飛ばし、順風満帆な人生を送っていた桜井氏を
絶望の底に突き落としたのは「夢を叶えた先には何もなかった」ことだった。
桜井氏の心の中では、ミュージシャンとしての大きな夢を叶えた先には、
何か特別な幸せが得られるのではないかという希望があったのだろう。
しかし、そうしたものは何もなく、アルバム『BOLERO』のインタビューでは、
「僕は音楽で成功するっていう夢に向けて、10代の頃からずーっとそれだけを
目がけてやってきたところがあって、じゃあそこに行き着いた時に何があったかといえば、
そこにはやっぱり描いていたような夢があったわけでもなく。そこで一度絶望している」[1]
と話している。
また、“花 -Memento-Mori-”のインタビューにおいても、
「今の僕にはもう、夢に向かって進もう、夢をつかもう、虹の橋を渡ろう、と言えなくて。
夢を叶えようと歌えなくて。夢が叶ったところで、その先は地獄かもしれないし、
夢は追いかけてるときがいちばん幸せなのかもしれないし。」[2]
と語っている。
そうした心境が歌としてはっきりと表に出てきたのが、“【es】 ~Theme of es~”だった。
夢を叶えた先に見えた人生を、
「Ah Ah 長いレールの上を歩む旅路だ」[3]
と歌い、そこで手にした全てのものを
「栄冠も成功も地位も名誉も たいしてさ 意味ないじゃん」[3]
と切って捨てている。
そして同時期に愛というテーマについても、
「『愛とはつまり幻想なんだよ』と言い切っちまった方がラクになれるかも」[3]
と「愛とは幻想である」という『深海』のテーマの萌芽がすでに見られている。
「愛」や「夢」を「自分を突き動かすもの」とできなくなった桜井氏は、
「人間にはあらゆる衝動の源泉となるesというものがある」という
精神分析学の「es」にたどりつき、それによって自らを動かそうとするようになる。
そうしたテーマ性を打ち出したのが、“【es】 ~Theme of es~”だった。
しかし「愛」や「夢」といった人間が作り出した概念ではなく、
「es」という動物的本能の源泉にのみ頼って生きるということは、
桜井氏の中に「人間の作り出したものに意味などなく、人間はただの動物なのではないか」
という疑念をどんどん大きくさせていくことになる。
これが『深海』『BOLERO』期を通じて桜井氏の中で葛藤を引き起こす、
「愛や夢を信じたい」「ピュアでありたい」という天使としての自分と、
「人間など動物でしかない」「不純になってしまえ」という悪魔としての自分という、
2つの人間性が矛盾しながら同居しながら絶望へ突き進む要因となってしまう。
そして続く“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”では、
「愛」という崇高な理想を描きながらも、
「恋」という「エゴとエゴのシーソーゲーム」にしか興じられない
人間の愚かさを描き出し、「人間は愛にたどり着けない」ことをより明確に打ち出すことになる。
それでも“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”の段階では、
音の上では「ポップなMr.Children」を我慢しながら演じていたが、
その後は徐々にそうした「Mr.Childrenらしさ」を脱するようになり、
“名もなき詩”、“花 -Memento-Mori-”と生々しさが増していくことになる。
◎アルバム『深海』の全体像
「夢」や「愛」に絶望し、人の愚かさ、そして自分自身の愚かさに
深く絶望していた桜井氏が『深海』に足を踏み入れるのは必然でもあった。
すでに心の中を覆っていた「愛や夢への絶望」をそのまま終わらせるのではなく、
心の深い部分への問いとして「愛や夢は存在するのか」、「人生に意味などあるのか」、
「愛や夢が存在したとして、そのことに意味や価値はあるのか」といったことを
これ以上掘り下げられないぐらいにまで掘り下げる試みを始めるのであった。
そこで「存在するかどうかもわからない、存在したとしても
何の意味もないかもしれない、すなわち愛・夢・希望といったもの」を
「シーラカンス」にたとえ、アルバム『深海』は展開されていく。
ここで、アルバム『深海』全体の流れを示した図を示しておこう。

(見えにくい場合はクリックしてください)
まずアルバムは『深海』の本来の主人公である桜井氏が
“Dive”で海に飛び込み、続く“シーラカンス”において、
シーラカンスに様々な問いかけをすることで始まる。
しかし、続く“手紙”において場面は大きく転換する。
この“手紙”から“ゆりかごのある丘から”までは、
主人公は桜井氏ではなく、「ある一人の男性」となり、
桜井氏の立場はその「ある一人の男性」の物語の語り手となる。
そして“手紙”から“名もなき詩”までの「愛の五部作」において、
「“Mirror”のように美しく出会い、“名もなき詩”のように深く愛し合った二人でさえ、
一緒に暮らし始めると“ありふれたLove Story”のように簡単に関係が破綻し、
別れ(“手紙”)に至る」というストーリーが示される。
それによって、「人間はたとえ愛の理想形に一時的に到達できても、
結局はそれは壊れてしまい、永遠の愛など手にすることはできない」
という現実をアルバムの本来の主人公である桜井氏に突き付ける。
そして“マシンガンをぶっ放せ”によって、
「愛」だけでなくあらゆるものに希望がないことが提示され、
「愛なんて信じるな、人間はただの動物でしかない」という、
シーラカンスにたとえたものの全否定に至ることになる。
続く“ゆりかごのある丘から”では男女の関係の話に戻り、
極めて不条理な愛の物語が展開され、さらに「愛」への絶望を深め、
桜井氏をさらに深海の最深部へと引きずりこむような展開を見せる。
そして“ゆりかごのある丘から”の最後では、
うわごとのように「シーラカンス・・・」とつぶやく声が聞こえる。
この点にはっきりとしたことは語られていないのだが、
これは“手紙”から“ゆりかご~”までの主人公である「ある男性」ではなく、
“シーラカンス”の主人公である桜井氏自身のうわごとなのではないだろうか。
アルバム『深海』において、桜井氏は“シーラカンス”の主人公を務め、
その最後で「シーラカンス・・・」と何度もつぶやくように曲を終えるが、
“手紙”以降は姿が見えなくなり、主人公は「ある男性」へと切り替わる。
その「シーラカンス・・・」とつぶやきながら深海へと沈む桜井氏が
再び主人公として登場するのがこの“ゆりかご~”の最後だと解釈することもできる。
すなわち、アルバムはこの“ゆりかご~”の最後で再び場面転換を迎え、
桜井氏が主人公として帰還して、“虜”以降の「死の三部作」を迎えるのだ。
◎「死の三部作」
“手紙”から“ゆりかご”までの「ある男性の物語」を通じて、
『深海』は「愛など信じられない」ということを徹底して突き付けてくる。
そしてそれは同時に桜井氏自身への強い説得の言葉でもあった。
しかし、桜井氏自身の当時の恋愛を描いた“虜”で出てきたのは、
それまでのアルバムの流れとは正反対の「愛を信じたい」[4]の言葉だった。
ただしアルバムにおける桜井氏の登場が“シーラカンス”以来だとすると、
“シーラカンス”では、「僕の心の中に 君が確かに住んでいたような気さえもする」[5]
「ときたま僕は 僕の愛する人の中に君を探したりしてる 君を見つけだせたりする」[5]
と、まだシーラカンスに対して一縷の希望を託していたので、
その心が“手紙”から“ゆりかご”までのストーリーを通しても
変わることなく残っていた、というふうに解釈することもできる。
「愛する人の中に君(シーラカンス=愛)を見つけだせたりする」のなら、
その「愛する人」との恋愛を歌った“虜”において「愛を信じたい」[4]という
言葉が出てくるのは、半ば必然的なものであったというふうにも考えられる。
しかし“手紙”から“ゆりかご”において、愛は徹底的に否定し尽くされており、
さらに“虜”からわかるように、吉野氏との恋愛に信じられる要素も少なかった。
それゆえ桜井氏の信じたい「愛」は「信じられぬ愛をそれでも信じようとする」ものとなり、
その先に必然的な帰結として「死」が見えてくる、という流れが“虜”において展開される。
続く“花 -Memento-Mori-”においても、
「多少リスクを背負っても 手にしたい 愛・愛」[6]
と、その“虜”での「愛を信じたい」という思いは受け止められ、
その思いは変わることなく、最終章となる“深海”へと到達する。
その“深海”では、
「空虚な樹海を彷徨うから 今じゃ死にゆくことにさえ憧れるのさ」[7]
と明確に「死」を自らの救いとして示すようになっていく。
そして曲は「愛や夢の象徴」であるシーラカンスに、
「連れてってくれないか 連れ戻してくれないか 僕を 僕も」[7]と、
「先に『死』しか見えない信じられぬ愛」を抱えながら、
その愛の象徴であるシーラカンスにすがるようにして終わっていく。
これは「シーラカンスに死へ連れて行ってもらう」ことに他ならないだろう、
というのが、これまでアルバム『深海』を考察してきた結論であった。
しかし、そこに一つの謎が残ってしまう。
なぜなら桜井氏はこのとき死を決断はしなかったわけで、
本当に『深海』の結論を「死」と見なしていいのかどうかという謎である。
この点について、より深い考察を進めていくことにしよう。
◎「死の三部作」のもう一つの解釈
これまでの記事でも何度か引用をしているが、
アルバム『深海』と「死」の関係を問ううえで欠かせないので、
ここで再び『深海』制作時の桜井氏の心境を告白したインタビューを紹介しよう。
このインタビューはアルバム『BOLERO』リリース後に行われたものである。
「……だから『深海』を作ってるときっていうのは──結果的には逆手に
とっていったんですけど、物凄く苦痛を感じながらやってたっすね。
……ほんとにもう、いつも『死にたい、死にたい』っつう感じでしたからね。」[8]
「それまではピュアなものが人の心を動かすとかも思ってたし、
そういう自分でありたいと常々思ってたし、でもやっぱり現実は何があるかわかんないわけだから、
そういう風にはいかしてくんないし。だから『深海』のときにほんとに自殺しようと思ってた。
ていうのは、このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうかっていうどっちかになったときに僕は、
僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえっていう。
そのために自分に言い聞かせてるのが、ある意味『深海』の中の歌詞でもあるし。」[8]
このインタビューを読むに、『深海』制作時は
私達が思っていた以上に桜井氏の意識は「死」に直線的に向かっていたのだろう。
そもそも“シーソーゲーム”の段階では「ピュアになれない人間」への絶望が歌われており、
桜井氏の絶望の原因にはまず「人間の愚かさ」「自らの愚かさ」というものがあった。
そこからまず『深海』に向かったのだから、「ピュアになることなんて諦めよう」
といくら自分に言い聞かせても、それ以上に「本当は自分はピュアでありたい」、
「ピュアでない自分や世界が許せない」という思いのほうが前に出てきてしまい、
「存在するかどうかもわからないもの」にたとえたシーラカンスにもすがりつく、
そういう思いが「諦める」ことよりも強く出てきていたとしても不思議ではない。
そのため、『深海』を制作している最中の桜井氏の心境としては、
「たとえその先に死しかないとしても、愛を信じたい」
というのは偽りのないものであったと言えるだろう。
そしてこの状態のときに、桜井氏の自殺願望が頂点を迎えていたと解釈できる。
そのため、『深海』を、「死の三部作」の結論を「死」と見るのはやはり間違いではない。
しかし、その後も桜井氏の心境は動き、「死の三部作」はもう一つの意味を持つようになる。
『深海』を制作し、自殺願望が限界まで高まっている中で、
桜井氏は先のインタビューにあったように、
「このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうか」[8]
の激しい葛藤が起きていたのだろう。
そこで桜井氏は最終的に
「僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえ」[8]
という結論を選び、自殺を回避することになる。
これによって「死の三部作」は「死への渇望」という最初に持っていた意味に加え、
「愛を信じたい」とうめいて死に向かっていく様を自分に見せつけることで、
「ほら、どうせ死ぬしかないのなら、もう愛とか夢とか諦めようよ」と、
自分に対する「最終的な死を回避する説得」としての意味を持つことになるのだ。
もともとは実際に「死、すなわち自殺への渇望」を描いていたものが、
それを描写することにより、「死ぬよりは何の希望のない人生でいいから生きよう」
という選択への究極的な説得となったのだ。
こうして、桜井氏は『深海』を脱出し、『BOLERO』へと歩みを進めていくことになる。
◎「ピュアでありたい自分」は本当に殺されたのか
したがって、アルバム『深海』の次に進んでいく先は、
「ピュアでありたい自分を殺した後」の話になる。
そうなるはずなのだが、結局『BOLERO』期に入ってもこの葛藤は続き、
一つの言葉に「ピュアでありたい天使としての自分」と
「不純になってしまえという悪魔としての自分」が同居し、
2つの解釈が同時に存在するような奇妙な状態が展開されていく。
自殺願望は『深海』期に比べればかなり収まったようだが、
それでも一定程度残っており、完全な解決は見られていない。
むしろ『BOLERO』期の桜井氏のコメントを見ると、
本当は今もまだ自分の中の天使と悪魔の葛藤が続いているのに、
無理やり「自分はもうピュアでありたい自分は殺したんですよ」
と思い込ませながら話しているような不自然さが強く見られる。
『深海』脱出後はこの奇妙なムードに包まれながら展開されていくことになる。
◎出典
[1] アルバム『BOLERO』 フライヤー pause 新星堂より
[2] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[3] “【es】 ~Theme of es~”の歌詞より
[4] “虜”の歌詞より
[5] “シーラカンス”の歌詞より
[6] “花 -Memento-Mori-”の歌詞より
[7] “深海”の歌詞より
[8] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説

深海 / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎まずはシーラカンスとは何だったかを思い出そう
この“深海”では、再び「シーラカンス」が歌詞の中に何度も登場する。
そこで理解を深めるためにも「シーラカンス」が何だったかを振り返っておこう。
「シーラカンス」とは「かつて自分達が賛美していた愛・夢・希望などのことで、
かつてあったと思っていたけど、今では本当になるのかどうかわからないもの。
そして、今あったとしても価値があるかのかどうかすらわからないもの。」だった。
これについては桜井氏もインタビューが、
「“シーラカンス”っていうもので表現したいのは、要するに、
“かつてあったと思われていたもの。でも、今はあるんだかないんだかわからない。
そしてあったとしても、何の役にも立たないかもしれないもの”。
つまり、愛とか夢とか希望とかっていうもの」[1]
と極めてわかりやすく答えている。
したがって、この“深海”におけるシーラカンスへの問いかけは、
「奥深くにまだ存在するかもしれない愛や夢への問いかけ」
と考えればいいだろう。
◎『深海』とは、心の奥深くへの旅による無限の問い
それを踏まえたうえで、まずは冒頭の歌詞を追っていこう。
「僕の心の奥深く 深海で君の影揺れる」[0]
ここで、“深海”とは何であったかが明確に語られている。
“深海”とは「深い海の底」にたとえられた、「心の奥深く」だったのだ。
すなわち、この『深海』というアルバムは「心の奥深くへの旅」、
心の奥深くへ潜っていくことによって、普段表層的には考えないこと、
どうしても表面的に考えてしまうことなどを深く掘り下げていき、
「人生に意味はあるのかないのか」、「愛とは何であるのか」、
「愛は本当に存在するのか」、「愛は存在するとして意味はあるのか」、
「夢はかなえることに意味はあるのか」、「この世界に希望はあるのか」、
こうした奥の深いテーマを限界まで掘り下げる作品であったことになる。
この点については桜井氏もインタビューで、
「“深海”って例えてるけど、心のすごく奥深いところ……普通に生活してると、
そこにはなかなか目を向けたがらない部分にまで探究していくっていうような、
そういうコンセプトですね。」[2]
と語っている。
◎無邪気に夢を追いかけていた少年時代
続く歌詞は「シーラカンス」の意味を理解すれば簡単に読み解くことができる。
「あどけなかった日の僕は
夢中で君を追いかけて 追いかけてたっけ」[0]
「君」が指しているのは、もちろんシーラカンスである。
少年時代の桜井氏が、無邪気に─本当は存在するかもわからない─夢、
すなわちミュージシャンになることを夢中で追っていた日々を描いている。
◎そして再びシーラカンスに行く先を問う
アルバム『深海』冒頭の“シーラカンス”においても、
桜井氏は“シーラカンス”にその行き先を問いかけていた。
ただ両曲ではっきりと異なっていることが2つある。
“シーラカンス”では、まだ心の海へと飛び込んだ段階であり、
心の奥深くに済むシーラカンスとまだ出会ってはいなかったのだ。
だから「君はまだ深い海の底で静かに生きてるの?」[3]と、
シーラカンスが存在しているかどうかすら問うていたのだ。
一方で最終曲の“深海”での語り口は、すでに深海へと到達し、
「深海で君の影揺れる」[0]と影が見えるほどにその存在に近づき、
シーラカンスの存在を近くに実感しながら語りかけているのだ。
だから“深海”におけるシーラカンスへの桜井氏の語りは実に優しい。
「シーラカンス これから君は何処へ進むんだい
シーラカンス これから君は何処へ向かうんだい」[0]
しかしここでも『深海』冒頭の“シーラカンス”と大きな違いが見られる。
“シーラカンス”では、まだ見ぬ存在であるシーラカンスに対して、
「君はまだ七色に光る海を渡る夢見るの?」[3]というように、
シーラカンス─すなわち愛や夢─が再び世界の主役となって、
輝かしい存在になることをどこかで求めるような言葉があった。
そしてそれは“シーラカンス”の歌詞の後半で見られる、
「僕の心の中に君が確かに住んでいたような気さえもする」
「ときたま僕は 僕の愛する人の中に君を探したりしてる」
「君を見つけ出せたりする」[3]
のように、シーラカンス─愛や夢─にまだ希望を持っていた。
しかし、この最終曲の“深海”の語りにはそうした希望は見えない。
アルバム『深海』のこれまでの流れを通じて、
再びシーラカンス、そう愛や夢が輝かしい存在になることは、
ありえないことであると桜井氏は確信に至っていたのだ。
だからここでシーラカンスに語りかける言葉には、
「君はもうこの深海から浮上することはないんだね」
という事実を踏まえているがゆえの優しさを帯びている。
◎救いとしての「死」の浮上
2番に入り「失くす物など何もない」[0]と桜井氏は語る。
ここに少なからず疑問を抱いてしまう人も多いのかもしれない。
日本を代表するミュージシャンという栄光を手にし、
リリースする曲がどれも巨大セールスを収める、
そんなMr.Childrenの桜井和寿になったというのに、
「失くす物など何もない」というのはどういうことなのかと。
しかしそれについては、桜井氏はとうに
“【es】 ~Theme of es~”において答えを出している。
桜井氏はそこで「栄冠も成功も地位も名誉も たいしてさ 意味ないじゃん」[4]と叫び、
夢を叶えた先の道を「Ah Ah 長いレールの上を歩む旅路だ」[4]と語っている。
夢を叶えた先に手にしたものにむしろ絶望していた桜井氏にとっては、
それで得たものは「失くす物など何もない」も同然だったのだ。
だからこそ桜井氏は夢や愛を自己の原動力にすることができなくなり、
人間が誰しも持つ「情動の源泉」たる「es」にしか頼れなくなったのだから。
言わばこのときの桜井氏はあらゆるものへの希望を失いながら、
ただ「es」のなすがままに動き、ただ生き長らえているという、
「無の世界の中に無のまま生きている」ような状態であった。
そこで桜井氏の中に「とは言え我が身は可愛くて
空虚な樹海を彷徨うから 今じゃ死にゆくことにさえ憧れるのさ」[0]
と「死」がついに救いの手段の一つとして浮上していくことになる。
桜井氏が『深海』制作時の強い自殺願望はインタビューでも語られている。
「……だから『深海』を作ってるときっていうのは(略)
……ほんとにもう、いつも『死にたい、死にたい』っつう感じでしたからね。」[5]
「だから『深海』のときはほんとに自殺しようと思ってた」[5]
◎シーラカンスに連れ戻される先 - 死
そして曲は後半に入ると大きく曲調が変わるとともに、
桜井氏はシーラカンスにひたすら「連れ戻してくれないか 僕を」[0]と叫ぶ。
では、いったいシーラカンスに連れられて行く先には何があるのだろうか。
ここで“虜”から続く、「死の三部作」で語られたことを思い出してみよう。
アルバム『深海』を通して、いかに愛が信じられないかを自分に言い聞かせながら、
それでも「愛を信じたい」[6]とうめき、その先に「死」が見えたのが“虜”であった。
すなわち、「信じられぬ愛にすがる先にあるのは死のみである」というのが、
“虜”とそこから続く「死の三部作」の大きなテーマとなっていた。
そして“花 -Memento-Mori-”もまた、その「愛を信じたい」という思いを受け入れ、
その「死への道」は否定されないまま、この“深海”の底へと到達したのだった。
さらに今桜井氏は「信じられるはずもないが、どうしてもすがりたい一つの愛」を抱え、
その先に「死」があることも覚悟し、むしろ「死」に救いすら求める領域に達している。
そして、シーラカンスとは「もはや存在するかもわからない愛や夢の象徴」であった。
そこでシーラカンスに「僕も連れ戻してくれ」と叫び、
「その先に死しかないどうしてもすがりたい愛」を抱えたまま、
シーラカンスにすがりついて到達する先はどう考えても「死」しかないのだ。
すなわち、“深海”という曲は「桜井氏の死への渇望の叫び」をもって幕を閉じる。
◎『深海』の中での位置付け - 「死の三部作」の終着点
“深海”という曲が“Dive”“シーラカンス”のプロローグに対し、
エピローグとしての位置付けで対になっているということは、
誰もがわかることなので、ここでは最小限の説明にとどめておこう。
しかしあくまでの海の浅いところからシーラカンスに問いかけた
“シーラカンス”と、深海の底に到達してシーラカンスと出会い
そのうえで問いかけた“深海”の両者の差は重要な点であろう。
ただし、ここでは「死の三部作」の終着点としてこの曲を見ていく。
『深海』というアルバム全体を眺めてみると、
やはり“虜”という曲で一つの流れの逆転が起きていることに気付く。
“手紙”から“ゆりかごのある丘から”までは、
徹底して「愛とは信じられるものではない」と自分に言い聞かせていた。
その流れのまま進むのであれば、最深部である“深海”に到達したときも、
「存在するかどうかもわからない愛や夢の象徴」であるシーラカンスに対して
「君が存在しないことはわかったよ、お別れ」と告げればいいはずだった。
しかし“虜”において桜井氏は、
徹底的に「愛とは信じられるものではない」と自分に言い聞かせながら、
「信じれないとわかっていても、先に死があるとわかっても、愛を信じたい」
とうめき、それがアルバムの流れを逆転させ、最終盤で一気に死に向かっていく。
こうしてアルバム『深海』は「死の三部作」をもって終幕を迎えることになる。
しかし、本当にこれでいいのだろうか。
「死の三部作」からの歌詞を解釈を読み解いていくとしたら、
“深海”が「死への渇望の叫び」であることは否定のしようがない。
しかしそれでもなお、このアルバムにはまだ何か残っている気がするのだ。
◎音楽的に見て
桜井氏はプロローグとして“シーラカンス”を書きはしながらも、
最後を“深海”という曲にすることをすぐには決めなかったようだ。
桜井氏はアルバム『深海』の最後についてインタビューで次のように語っている。
「プロローグで“シーラカンス”っていうのがあったから、終わりをどうしようか、
って思ってて。“花”で救われて終わっちゃうのも、なんか物足りない気がしてて。
で、僕は“花”のあとに、もう1回“シーラカンス”か“手紙”のオーケストラをやって、
フェイドアウトしていって、“花”の後ろに“深海”の歌詞だけを載っけて終わろうかなと
思ってたんだけど、やっぱりメロディをつけて歌ったですね。」[2]
「これもニューヨークで詩から書いて、メロディはあとです。」[7]
アルバムの最後には“シーラカンス”や“手紙”のオーケストラの案もあったが、
最終的には“深海”を曲にして歌うことになったということであるが、
もう一つわかるのはこの“深海”は歌詞を先に作った歌ということである。
ところで私はこの“深海”を聴いているときに、
曲の中盤で曲調が大きく変わる前のピアノの音を聞いて、
Guns N' Rosesの“Estranged”を強く連想させられたことがある。
そしてこの曲は最後のギターソロをどうするか悩んでいたとき、
小林武史氏が「ガンズ(Guns N' Roses)のスラッシュみたいなソロ、どうかな?」
と言ったが、桜井氏はもともとエアロスミス以外のハードロックが苦手なこともあり、
ガンズ(Guns N' Roses)にも詳しくなかったこともあって、
最終的には桜井氏がエアロスミスのジョー・ペリー風のギターソロを弾いた経緯がある。[7]
ここで小林武史氏のこのときの提案を考えてみると、
小林氏はこの“深海”のアレンジをGuns N' Rosesの“Estranged”[8]か、
あるいは曲の後半だけGuns N' Rosesの“November Rain”[9]風にするか、
いずれにしても2つの曲調が大きく入れ替わり、エモーショナルなソロが入る、
そうした曲をイメージしていたのではないかとうかがうことができる。
◎おわりに
アルバムは“虜”から一気に浮上した「死」の勢いに飲み込まれ、
まるで桜井氏が「信じられぬ愛」を抱えてシーラカンスと心中した
としか解釈できないような終わりを迎えることとなった。
とはいえ、この曲をシーラカンスとの別れ、
すなわち「信じられるはずもない愛や夢との別れ」と解釈するのは難しく、
かといってシーラカンスが再び輝く存在になる解釈はもはやありえない。
やはり解釈としては、「信じられぬ愛を完全に捨てきれぬゆえに、
シーラカンスと心中するしかなくなった」というところに行き着くのだ。
しかし、どうしてもそこに疑問は残ってしまうだろう。
たしかにこの時期の桜井氏は強い自殺願望を抱えていたが、
実際には桜井氏はこのとき死を選んだわけではないからである。
ここに、アルバム『深海』の謎が一つ残ることになる。
そしてその謎は次に書くアルバム『深海』の最終記事で追っていくことになる。
◎出典
[0] “深海”の歌詞より
[1] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より
[2] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[3] “シーラカンス”の歌詞より
[4] “【es】 ~Theme of es~”の歌詞より
[5] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
[6] “虜”の歌詞より
[7] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[8] Guns N' Rosesの“Estranged”のミュージックビデオより
[9] Guns N' Rosesの“November Rain”のミュージックビデオより
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
花 -Memento-Mori- / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎桜井氏自身も「本当の意味がまだわかってない」と語る曲の真意
当時のインタビュー記事などを探しながら、
この“花 -Memento-Mori-”について調べていく中で最も驚いたのは、
桜井氏が何度も「この歌の本当の意味が分からない」と答えていることだった。
実際に当時の桜井氏のいくつかのインタビューを見ていただこう。
「実は、僕にとって“花”って、どういう意味があったのか、
本当はわかってないところがあって……。これがアルバムの終着駅的な曲なのに。」[1]
「実はアルバムの中の曲で、この曲だけ自分でも本当の意味がわかってないところがあるんです。
でも、救いのない歌が続くし、この歌が唯一の救いなのかもしれません。」[2]
これからこの記事を通じて、この曲の歌詞を考察していくわけだが、
書いた本人すら「分からない」という曲を読み解くのは至難の業である。
この“花 -Memento-Mori-”については、
「『深海』というアルバムの唯一の救いの歌」
であるということはよく知られている。
しかし何ゆえそうなのかということについてはほとんど語られていない。
そしてそれは桜井氏自身が「語るに語れなかった」ためでもあろう。
かといって、決してこの“花”の歌詞がいい加減に書かれたわけではない。
むしろ当時の桜井氏にとっても非常に思い入れの深い歌であった。
それでも「分からない」という結論になってしまったのは、
当時の桜井氏がどのように詞を書いていたのかも影響している。
桜井氏は歌詞の書き方についてインタビューで、
「例えば、曲があって、その曲、アレンジやサウンドの中に、自分を一回、
ポーンと解き放しちゃうんですよ。だから、何を言ってやろう、
何を書いてやろうというのじゃなくて、自分をそれに乗っけてやると、
もうそこに歌詞が生まれている状況で。その歌詞を吐き出すことによって、
僕は浄化されているところがすごくありますね。」[3]
といった旨のことを何度か述べている。
すなわち、曲の中に自分を解き放つことで自然に出てきた言葉、
それがそのまま歌詞になっていたというのが当時の特徴であった。
ほとんどの場合は結果として自分が意識的に思っていたことが歌詞となり、
自然に出てきた言葉であっても意図や意味を説明できるものであったのだが、
この“花”では「自分は意識してなかったはずの言葉」が出てきたのだろう。
言い換えるなら、意識の上層部分において考えていたことが出てきたのではなく、
より深いところ、深層的な意識にあったものが、この“花”を書く際に出てきて、
それゆえに「自分でも意識的に説明できない」状態になったものと見られる。
しかしながら、それは決して「心にないもの」が歌詞になったわけではないので、
他の曲の歌詞やインタビューの断片から見えてくることを繋ぎ合わせていけば、
この“花 -Memento-Mori-”に込められた本当の意味というのが見えてくるだろう。
◎自分と他人の人生を俯瞰で見ながら
まずはこの曲の歌詞を最初のほうから見ていこう。
「ため息色した 通い慣れた道 人混みの中へ 吸い込まれてく」[0]
という言葉から見えるのは、自分自身を俯瞰的な視点から見る感覚である。
続く「同年代の友人達が 家族を築いてく 人生観は様々 そう誰もが知ってる」[0]
では、今度は他の人達の人生を俯瞰的に見ている姿が浮かんでくる。
この俯瞰的に見ることについて、桜井氏はインタビューで、
「だからたぶん詞を書いてる時だけは俯瞰でいられるっていうか、
それを自分の中で抱え込むとものすごくヘヴィーな状態であって、
でも、詞を書くっていうことはある種俯瞰で見ることだから
──言葉っていうのはそういうもんだと思うし──
その俯瞰でいる時が幸福だったんじゃないかなあ」[4]
と語っている。
これは決して“花 -Memento-Mori-”についてのみ語った言葉ではないが、
この「人生を俯瞰的に見てそのまま語る」という形が素直に出たのが、
この“花”の冒頭の歌詞であったと言うことはできるだろう。
“花 -Memento-Mori-”という歌が他の曲よりも読み取りにくいのは、
希望を歌っているわけでもなく、かといって絶望を歌っているわけでもない、
まるで「小さな小さな等身大の姿」を歌っている雰囲気が流れているところにある。
自分と他人の人生を俯瞰で見ながら、そこに希望を見出すのでもなく、
絶望するのでもなく、うっすらとした光と孤独感を同時に感じさせる、
それがこの“花 -Memento-Mori-”が持つ独特の空気であるとも言えよう。
◎その先に「死」しかないとしても、愛を手にしたい
そして2番に入ると、アルバム『深海』の最大のテーマである
「愛」や「夢」─すなわち、シーラカンスにたとえたもの─が登場する。
この2番の歌詞は無意識に読んでしまうと、
「愛」や「夢」を再び素直に肯定しているように読めてしまう。
しかしこの桜井氏のインタビューを読むに、そうではないことがわかる。
「でも、これだけ絶望を見せることによって、どこかに希望が、せいぜい最後には
救いが欲しいだろうと思うわけで、でも、今の僕には、『その愛を貫こう!』とは
決して歌えないわけです。『夢を追いつづけよう!』とも歌えない。
今の僕が歌える、最高に前向きな歌が、『笑って咲く花になろう』と歌う“花”なんだと思う。」[1]
この深い絶望を踏まえたうえで、2番の歌詞を見ていこう。
「等身大の自分だって きっと愛せるから
最大限の夢描くよ たとえ無謀だと 他人が笑ってもいいや」[0]
『深海』というアルバムを通してみると、「等身大の自分」とは、
その言葉の響き以上に小さな小さな存在であることに気付かされる。
そして「最大限の夢描くよ」と言われると、
「あぁ、夢を追うことを肯定的に書いているんだ」と見えるが、
実際にはそうではないのだ。
「小さな小さな存在の描く、その存在以上の最大限の夢」は、
決して叶うことがない、手にすることができない夢なのだ。
だけど、そんな「決して叶わぬ夢を描いてしまう自分をも受け入れてあげよう」
という思いが、“花 -Memento-Mori”のこの部分には添えられているのである。
そして曲はここからメインテーマへと突入していく。
「やがてすべてが散り行く運命であっても
わかってるんだよ 多少リスクを背負っても 手にしたい 愛・愛」[0]
「やがてすべてが散り行く運命」というのは、『深海』に通底しているテーマであり、
同時にこの“花”のサブタイトルともなっている「メメント・モリ」(死を想え)である。
では、ここで桜井氏は「どんなものも散り行く運命である」と言いながら、
それをどのような言葉と結びつけているのかと言えば、
「いずれ死に行き着くことを思いながらも、
たとえリスクがあるとしても、それでも愛を手にしたい」
と歌ってしまうのだ。
これはまさに前曲の“虜”でうめいた「愛を信じたい」[5]に他ならない。
“虜”では、「信じるはずのできない愛を負った先には『死』しかない」ことが示されていた。
それを踏まえて読むなら、ここでのリスクとは「死」であり、
「たとえその先には『死』しかないとしても、それでも自分は愛を手にしたい」
と、“虜”で捨てきれたなかった「愛を信じたい」という思いをも包み込んでいるのだ。
そうとらえると、「最大限の夢」もまた“虜”での「愛を信じること」と考えてもいいだろう。
もっともここでの「リスク」を「死」であると解釈するのは、
“花 -Memento-Mori-”を『深海』のほぼ最後を飾る1曲として見た場合で、
この曲を『深海』から切り離した場合はもう少しゆるい解釈でもいいだろう。
ただいずれにしても、“花”の2番から大サビの部分にかけての歌詞は、
シンプルに「夢」や「愛」を賛美するようなものではなくて、
「手にすることができない夢や愛を求めてしまう心をも受け入れよう」
という、その先に見えてしまう「死」も含めて受け入れるものなのだろう。
◎希望なんてないこの世の中でもせめてできることを
それではいったい“花 -Memento-Mori”という曲は、
全体を通して見たときに何を歌っていると言えるのだろか。
これまでこの歌を読んできた中でいくつかのことは見えてきている。
希望を歌っている歌ではないけど、絶望を歌っている歌でもないこと。
自分はとても小さな存在であること、世界だって決して美しくないこと。
愛も夢も希望に満ちてはいない、それでもそれを持つ心まで包み込むこと。
そこまで見たうえで、あえて2番の冒頭の部分を見てみよう。
「恋愛観や感情論で 愛は語れない
この想いが消えぬように そっと祈るだけ
甘えぬように 寄り添うように 孤独を分け合うように」[0]
ここから見えるのは、
「希望なんてないこの世の中でもせめてできること」
を歌っているということだ。
大上段に立って愛を語るのでもなく、愛に絶望するのでもなく、
「小さな自分にできる最大の愛の形」がここには歌われている。
そしてこの「小さな自分が希望なき世界でせめてできること」は、
そのまま「負けないように 枯れないように 笑って咲く花になろう」[0]
という言葉へと繋がっていく。
◎夢も愛も信じられなくても、「花になろう」とは言える
人は本当に絶望しているときには、あまり前向きな歌を聴くことができなくなる。
その前向きさや能天気さに打ちのめされて、余計に逃げ出したくなるからだ。
でも、そんなときでもこの“花 -Memento-Mori”なら聴ける人は多いのではなかろうか。
真っ暗な穴の中にうっすらと差し込んでくる光のような薄い希望、
そうした存在であるからこそ、勇気づけられるものもあるのだ。
桜井氏はこの“花”について、「本当の意味が分からない」と言いながらも、
あるインタビューで長い時間をかけて何とかその意味を考えて答えてくれた。
それを引用するのをもって、この記事の本編部分を締めるとしよう。
「僕、わかったんです。今までは、この曲がどうして好きなのかっていうのを
説明できなかったし、いろんなインタビュー受けても、言えば言うほど嘘になるような気がしてて。
でも結局、僕がここで言いたかったことは、たぶん、このアルバムを
作ったから初めて“花”の意味があるというか。
今の僕にはもう、夢に向かって進もう、夢をつかもう、虹の橋を渡ろう、と言えなくて。
夢を叶えようと歌えなくて。夢が叶ったところで、その先は地獄かもしれないし、
夢は追いかけてるときがいちばん幸せなのかもしれないし。
愛っていうのも、あってもなくてもいいものかもしれない、と思っちゃうから。
だから、そういう、何が善か悪かもわからない、いろんなことがあり得るこんな世の中で、
前向きなことが何も言えないけれど、せいぜい、でも、笑って咲く花になろう、
っていうのは言えるよ、っていうのが、“花”だったと思うんですよ。
だからこのアルバムの最後に、初めて救いがあるんです。」[6]
この桜井氏本人による解釈からも、
「希望のない世界でせめてものできること」
が“花”であったということをうかがうことができるだろう。
◎『深海』の中での位置付け - 「死」への道筋と“手紙”との輪廻
アルバム『深海』における“花 -Memento-Mori-”の最大の意義は、
“虜”で浮上した「信頼できぬ愛にすがりついた先にある死」を
どのように受け止めるのかというところにあった。
そしてこの“花”では、
「多少リスクを背負っても 手にしたい 愛・愛」
=(死のリスクを負ってでも、愛を手にしたい)
と歌うことで、“虜”での「愛を信じたい」[5]のうめきを受け止めたのだ。
そして、それをあえて受け止めることこそがこの曲の救いでもあったのだった。
それによって、「たとえ向かう先が死であったとしても、それでもいいじゃないか」と、
“虜”で描かれた吉野美佳氏との関係を受け止めたままアルバムの最終章に向かうことになる。
こうしてサブタイトルである「Memento-Mori」(死を想え)は、
「いつか終わり行くものと覚悟すると同時に、その先には死があろうとも、
それでも進んで行くことにしよう」という形で示されることとなる。
このサブタイトルの「Memento-Mori」については、
「『Memento-Mori』という副題のラテン語は、ペストが流行した時に流行った言葉らしいんです。
藤原新也さんの本からつけさせていただきました。『死を想え』という意味がある。
それは美しいな、そう思った。」[1]
とインタビューで答えている。
そしてもう一つのこの“花”の重要な意味は、“手紙”と対になっていることである。
“手紙”と“花 -Memento-Mori-”の関係についてはインタビューで、
「どうしても僕は“手紙”をアルバムの1曲目にしたいっていうのがあった。
(“手紙”の)歌詞の最後に『花ゆれる春なのに』っていうのが来た時、なんかそれが、べつにこれ、
誰もわからないかもしれないですけど、“花”を最後に入れて、“手紙”と“花”っていうのが
輪廻転生してくれたらなっていう思いはあったんですよ。だから、早いうちに“手紙”と“花”の
位置は自分の中で決まっていたというか。だから、特に“花”がアルバムのクライマックスという
意識じゃなくて、こういうふうに曲と曲が対になってるという意識だったんです。
ただ、最後にたぶん、すべては咲く花になろうっていう、この曲で救おうとしてるのかもしれない。
このアルバムって、“手紙”で始まって、どの曲も救いのない歌ばかり続きますから。」[7]
と語られている。
“手紙”とは「(愛の)終わり」であり、“花”は「小さな救い」であった。
これらが輪廻するということは、「終わり」があれば「小さな救い」があり、
また「小さな救い」を得ても、また「終わり」を迎えるということでもあった。
そしてそれもまた「Memento-Mori」というサブタイトルと繋がっていたと言えるだろう。
◎音楽的に見て
前シングルの“名もなき詩”は日本でレコーディングしたのに対して、
“花 -Memento-Mori”は他の『深海』の曲と同様にニューヨークの
ウォーター・フロント・スタジオでレコーディングしたものとなっている。
それゆえ、「アルバム『深海』らしい音」のうち、最初にリリースされた曲になった。
録音環境の変化により、トータルの音数よりも一つ一つの音の粒が重視されており、
それと同時にシングル的ではありならも、これまでよりも薄暗い印象が強く、
“名もなき詩”よりもさらに一歩進んで音楽的な変化を感じさせる曲となった。
桜井氏はこの“花 -Memento-Mori-”のサウンドについて、
「ウォーターフロントで初めて“花”っていうのを録った時に、
明らかに日本のポップ・シーンの中にある音楽とは全然別のもので、
しかも自分たちで好きだとすごい思った曲だし、
それは音の質を変えても一般の人たちがいいと思ってくれると思ったし。」[4]
と好感触を得ていたことを語っている。
一方でどういった音楽に影響を受けて作ったのかなどは特に言及はされていないようだ。
◎おわりに
この“花 -Memento-Mori”によって、アルバムには一定の救いが与えられたが、
それ以上に“虜”で提示された「死」への道筋をこの“花”は受け入れており、
それが否定されないままに最終曲である“深海”へと向かっていくことになる。
一方でこの“花”は一つの曲としてMr.Childrenの欠かせないものとなり、
「絶望の中で描かれた小さな光」であったからこその価値は揺らぐことはなく、
時代を超えてMr.Childrenを代表する曲の一つとして愛されていくことになる。
◎出典
[0] “花 -Memento-Mori-”の歌詞より
[1] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[2] 『WHAT's IN?』 1996年8月号より
[3] アルバム『BOLERO』 フライヤー pause 新星堂より
[4] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1996年8月号より
[5] “虜”の歌詞より
[6] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[7] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より
【関連記事】
・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
虜 / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎桜井氏と(当時の不倫相手であった)吉野美佳氏との複雑な恋愛事情
『深海』『BOLERO』期のインタビュー記事を買い集めていた頃、
『深海』期の頃の桜井氏の不倫相手であった吉野美佳氏の情報を探し、
吉野美佳氏に関する当時の週刊誌の記事を読んだことがあった。
そのときに私はいやに奇妙な感覚をおぼえたのを記憶している。
そこに書かれている吉野美佳氏の人物像があまりにも
“虜”で描かれている女性と酷似していたからだ。
一方で『深海』のインタビューにおいて、この“虜”に関しては、
桜井氏はあからさまに不真面目に答えているのも印象的であった。
もうここまで書けば、お気付きになられる人も多いだろうと思う。
この“虜”はまさに当時の桜井氏と吉野氏の関係をモチーフに描いたものなのだ。
『深海』の流れを見ていくと、“シーラカンス”は主人公が桜井氏自身だったが、
それ以降は「ある一人の男性の物語」を桜井氏は俯瞰的な視点から歌う立場であった。
“手紙”から“名もなき詩”までは、一組の男女を主人公として描いていたし、
“So Let's Get Truth”以降の曲もそのときの一人の男性の物語として書かれていた。
果たしてそれは何のためであったのかをここで思い出してみよう。
それは聴く者に対して以上に、自分自身に対して、
「果たして愛というものは信じることができるものなのか」
を問うためであった。
そしてそれを“手紙”から“ゆりかごのある丘から”まで徹底して問うてきて、
そこで得た「愛とは何か」を背負ったうえで、桜井氏は自分の恋愛へと戻ってきたのだ。
◎あまりにも生々しい桜井氏と吉野氏の感情のせめぎ合い
当時の吉野美佳氏の男性関係は極めて奔放で、有名人や会社社長などを中心に、
複数人と同時交際し、その中で桜井氏とも出会って不倫関係に至ったようだ。
そして2人は「不倫ではあるが真剣な交際」に移ろうとしていったのだろう。
その中で、桜井氏は当時の吉野氏に別の交際者と別れることを要求したのである。
その関係を生々しく描いたのが、
「金曜日に奴に会ってきたろう? 簡単に別れ切り出せたの?
どうだったんだ 把握していたい 最低な君を」[0]
の部分である。
この“虜”は束縛癖のある危ない男の恋愛の歌だとよく言われるが、
実際にはそんな軽いものではない、もっとドロドロした現実の恋愛の曲なのだ。
しかし実際には吉野氏には桜井氏に伝えていた以上に同時交際者がいたのだろう。
そうした噂を聞いたときの感想を歌ったのが、
「親友から聞いた噂によりゃ 相当癖のある女だって事
なんだってんだ!! 分かってやしない 最新の君を」[0]
だったのではなかろうか。
そして吉野氏については、学生時代の友人が、
「大人しい子でどちららと言うと目立たない、印象の薄い子」
だったと答えている。
それゆえ吉野氏は中高生時代はあまり友達のいない少女だったのだろう。
そう、この部分の歌詞はまさにその彼女の過去を書いたものなのだ。
「優しさに飢えて見えるのは多分 卑屈な過去の反動
孤独な少女を引きずってんだろう」[0]
それにしてもよくもここまで生々しい歌詞を書いたものだと思う。
◎どうやってこの関係を「真実の愛」などと呼べようか
桜井氏はここまで『深海』を通して、徹底的に「愛は本当にあるのか」を問うてきた。
そして「“Mirror”のように美しく出会い、“名もなき詩”のように深く愛し合った二人ですら
二人で暮らせばいとも簡単に関係が壊れ、“手紙”のように別れに至る」という痛烈な現実も見てきた。
そして一人戦場に出て必死に生き延びても、帰ってくればもはや女性は他の男性のもとへ行き、
「それも仕方ないよ」と言われてしまう、都合のいい道徳ぶりも“ゆりかごのある丘から”で見てきた。
もはや『深海』から出せる結論は、「どんな恋愛ですら何の意味も価値もない」であろう。
ましてや吉野氏は複数の男性と同時交際し、それらを整理するのにも手間がかかり、
そして何より桜井氏は自らの妻を裏切りながら不倫関係で彼女と交際してるのである。
果たしてこの恋愛を『深海』が与える教訓をも超える「真実の永遠なる愛」と呼べるだろうか?
まさかそんなはずはないのである、この2人の不倫関係はここまで『深海』で描かれた
他の恋愛関係よりよっぽどひどい、“ありふれたLove Story”のほうが遥かにマシである。
そしてそのことは誰よりも桜井氏自身が理解していたであろう。
そもそも桜井氏は聴く者以上に、自分自身に対して、
「俺のしている恋愛なんて信用するに値しないんだよ」
と『深海』の全ての曲を通して言い聞かせてきたのだ。
しかし、それでも桜井氏はうめくようにこう歌ってしまうのだ。
「愛を信じたい」[0]
◎信じられるはずのない「愛」を信じた先にあるのは「死」
もう客観的な事実としては桜井氏と吉野氏の恋愛は「信じるに値しないもの」なのだ。
それでもなお、その「愛」と呼ぼうとするものにすがろうとする先に何があるのか。
それは一つ、「死」しかないのだ。
それを桜井氏はわかっていたからこそ、“虜”は曲の中盤から、
天国に誘われるようなサウンドと共に、
「Take me to heaven, give me your love」[0]と歌い続けられるのだ。
これは直訳すれば「天国に連れて行ってくれ、君の愛を俺にくれ」となるが、
むしろ「死ぬことになってもいい、それでも君の愛が欲しいんだ」
と訳したほうがその意図がより読み込めるだろう。
そしてこの恋愛の先に「死」しかないと悟った桜井氏は、
「寝ても覚めても 君が離れない 虜となって天国へと昇ろうか」[0]
と歌いながら曲が終わっていくのである。
この“虜”以降の曲から「死の香り」がすることは小林武史氏も語っている。
「あのアルバムをコンサートで通してやることは、例えば後半の『ゆりかご~』
から『虜』あたりで、ひとつのピークがある。コンサートに集まった人達は、
そこで、“生きてる実感”を得ようとする。でも、曲があのあたりにくると、
“生”と背中合わせに、“死”というものと、すれ違うような感覚になって、会場はシーンとなる。」[1]
◎『深海』の中での位置付け - 桜井氏の物語への復帰と「死の三部作」の始まり
“ゆりかごのある丘から”をもって、物語の語り手としての桜井氏の役割は終わり、
それまで『深海』で歌ってきたことを踏まえて自身の人生の話へと戻ってきたのである。
そしてこの“虜”では、これまで「愛など信じられるものではない」と
歌ってきながらも、自らは「愛を信じたい」と矛盾をきたしてしまい、
「信じられぬものを信じる先」として「死」が見えてきたのである。
それゆえ、この“虜”以降の3曲は実質的に「死の三部作」と呼べるだろう。
こうした“虜”以降の楽曲における葛藤は、
「だから一つはものすごく愛を過信してる自分が居て、
一方に過信してる自分にこっちのことを言い聞かせてる自分が居て」[2]
というようにインタビューでも共通することが語られている。
“ゆりかご”までは「過信してる自分にこっちのことを言い聞かせてる自分」だったが、
両者の葛藤が“虜”から「死の三部作」にかけて大きくなっていくとも言えるだろう。
◎音楽的に見て
この曲はジャニス・ジョップリン[3]のイメージをメインに据えながら、
アニマルズの「朝日のあたる家」[4]からの影響も含めたとのことである。[5]
おおむね60年代中期から70年代初期にかけての少しサイケの香りもする
ブルージーなロックを目指したというふうに考えていいだろう。
たしかにアニマルズの「朝日のあたる家」を聴くと雰囲気の近さを感じる。
こうして見ると、『深海』は音楽的な統一感を感じられる作品ながら、
実際には主に60~70年代について幅広いサウンドを有しているのがわかる。
曲の後半ではゴスペル的な女性のヴォーカルが非常に印象的だが、
これはある結婚式に行ったときに歌っていたゴスペルシンガーの方に声をかけ、
レコーディングに参加してもらい、1テイクでOKが出されたものだそうだ。[6]
◎おわりに
「この恋愛を続ける先には『死』しかない」、そう悟った桜井氏はどうするのか。
それらが語られていくのが、続く“花 -Memento-Mori-”と“深海”なのである。
“花 -Memento-Mori-”には「死を想え」というサブタイトルがつき、
“深海”ではダイレクトに死が語られる、いずれも「死の香り」のする曲だ。
『深海』の最深部に向かいながら、桜井氏はどのような結論にたどりつくのか。
◎出典
[0] “虜”の歌詞より
[1] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1996年8月号より
[2] 『月刊カドカワ』 1997年6月号より
[3] ジャニス・ジョップリンの“More Over”のオーディオより
[4] アニマルズの“朝日のあたる家”のミュージックビデオより
[5] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[6] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
ゆりかごのある丘から / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
ゆりかごのある丘から / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
古くからのファンにはよく知られていることだろうが、
この“ゆりかごのある丘から”は『深海』『BOLERO』期に作られたものではなく、
アマチュア時代にもっとシンプルなアレンジで作られた曲であった。
もともとはナスターシャ・キンスキーが出ていた「マリアの恋人」[1]という映画を
モチーフに書かれた[2]もので、戦争による長い別離によって心に溝ができてしまう
そうした2人の恋愛関係を描いたものであった。
しかし「マリアの恋人」では女性が戦争中に別の恋人を作ることはなく、
これは“ゆりかごのある丘から”を作った際の桜井氏のアレンジである。
この“ゆりかごのある丘から”が『深海』に収録された理由はおよそ3つある。
“マシンガンをぶっ放せ”が戦争をイメージして作られた曲であり、
また社会的な方向に向かったアルバムの流れを恋愛のテーマに戻す必要があり、
そこにハマったのが「戦争からの帰還」と恋愛をテーマにしたこの曲であった。
またこの「戦争の帰還」には、「安らげる場所への帰還」の意味も込められている。
そのためアマチュア時代の歌詞では2番で草原がひどく破壊されていたのだが、
『深海』版では「草原はあの日のままの優しさで」[0]と草原はそのまま残っており、
単なる「戦争からの帰還」ではなく「安らげる場所」が伝わりやすいようになっている。
もっとも何より求めていた安らぎの存在である恋人は離れていってしまっているのだが。
また草原が破壊されていたアマチュア版は「戦争の不条理」が強く打ち出されていたが、
こちらは草原をそのままにし、恋愛に関する歌詞をより重厚にすることによって、
「愛の不条理」をより浮上させるという形を取っている。
これはアマチュア版の歌詞の「戦争」を「戦場」に変えたこととも関係しており、
そうすることに聴く者が「職場などの自分にとっての『戦場』」に
感情移入して聴くことができるようにと意識したということである。[2]
桜井氏は“ありふれたLove Story”を作った際にインタビューで次のように答えている。
「“ありふれた──”を書いたときに思ったのは、“ゆりかごのある丘から”っていう
詞を僕はずっと前から好きだったし、ああいう映画的な詞が最近少なくなってきたなと
思ってた部分もあったし、同じ別れを描くものでも1つは本当にありきたりの日常のもので、
1つは現実とはすごい遠い世界だけれど、どこかにリアリティーがあるっていう、
その両極を見せていけたらなと思って。」[2]
「“手紙”と“ありふれた~”の詞を書き始めた時に、
その反対側に“ゆりかご~”があるのがいいんじゃないかって。
ふと思ったんですけど。」[3]
すなわち、「ありふれた別れ」と「現実とは遠いけどリアリティーのある別れ」
を書くことで、「あらゆる恋愛は別れに行き着く」という事実を
より幅広さを持って伝えられるようにしたことが考えられる。
それと同時にたとえば“シーラカンス”と“深海”のように、
“ありふれたLove Story”と“ゆりかごのある丘から”を対にすることで、
アルバム全体の楽曲が網のように有機的に結びつく構造を作ったのだろう。
そしてこの点を意識しながらアマチュア版との歌詞の変化を見ていくと、
「一度だけ君がくれた 手紙を読み返したら
気付けなかった寂しさが降ってきて
ごめんねとつぶやいても もうどうなる訳でもなく
切なさがギュッと胸をしめつける」[0]
という“手紙”という言葉を入れた新たな歌詞が大きく加えられていることに気付く。
“手紙”はアルバム『深海』においては「別れ」を象徴する言葉である。
この“ゆりかごのある丘から”においても、
かつてもらった手紙を読み返すことによって2人の別離は決定的なものとなる。
このあたりの“手紙”という言葉のチョイスはほぼ確実に意図的なものであろう。
桜井氏はこのテーマについてインタビューで、
「今回のアルバムって、詩が生々しくなっている分、景色が思い浮かぶようなものが
欠如しているような気がしたんです。」
「景色が浮かび、かつ生々しさという、そのバランスが欲しかった。」[4]
たしかにこの曲の持つ景色を連想させる力は強く、
変わらずにポツンとあるゆりかごが寂しさを増幅させ、
一方で恋人に捨てられても大きな草原は何も変わらない、
「風景によって生々しい感情を動かす」ことに成功している。
桜井氏がこのことを意識して作ったのかは全くわからないが、
しかし私はこの曲を聴くたびに前曲のこのフレーズが浮かぶのである。
この曲のストーリーはひどく不条理だ。
しかし同時に「でも仕方ないよね」と思わされてしまう曲でもある。
だが不条理でありながら仕方ないと人間が思ってしまうことこそ、
「都合のいい道徳」に他ならないのではないのだろうか。
“マシンガンをぶっ放せ”流に言うなら、
「人間なんてそんなものだから、都合のいい道徳など捨てればいい」
となるし、ピュアなものを求めるのであれば、
「これを仕方のない行為だと思ってしまう人間の愚かさを見つめよ」
ということになるだろうか。
いずれにしても、考えさせられる「愛の不条理」の物語ではあるし、
決して「戦場に行ってたのだから仕方ない」で流すべきではないだろう。
この曲の最後に「シーラカンス」のように何度かつぶやく箇所があるが、
これについては「She love again」「シーラカンス」「両方をかけたもの」
というおおよそ3つの説が知られている。
桜井氏がインタビューで「“ゆりかご~”の後半でも『シーラカンス』は
ちらっと出てきますが……。」[4]と答えているので、
少なくとも「シーラカンス」か「両方をかけたもの」のどちらかではあるようだ。
“ありふれたLove Story”の対極的な位置付けという意味合いもあるが、
『深海』全体で見るなら、“So Let's Get Truth”から社会的な方向に向かったのを、
再び恋愛のテーマへと戻ってこさせるのがこの曲の最大の目的であっただろう。
次曲の“虜”は『深海』というアルバムのハイライトになるので、
この曲に入る前にどうしてももう1曲恋愛の曲が必要になるうえ、
アルバム全体に各楽曲に複合的な関係性を持たせられることも含め、
そこにこの曲のテーマがきれいにハマったのが非常に大きかったのだろう。
アマチュア時代のバージョンはまるでThe Replacementsなどの影響を受けた
80年代後半~90年代前半のアメリカのインディーギターバンドのようなサウンドだったが、
『深海』版では大幅にテンポも落とし、プログレ色が非常に強いアレンジになっている。
それが大きく変貌したきっかけはエンジニアのヘンリー・ハッシュの貢献だったという。
桜井氏のインタビューによると、
「“ゆりかごのある丘から”なんていうのは、最初はああいう、ドラムに
ディレイとかかける感じじゃなかったんです。それを録ってるうちに、
ヘンリーさんが自分で、『これはジョン・レノン・サウンドだ』とか言いだして、
突然ディレイをかけて。で、あの曲はもともとアマチュアの頃からやってたから、
これまでにも何パターンかアレンジ試してたんですけど、なんかしっくりこなかったんです。
でも、ヘンリーがディレイをかけてくれた時に、『あ、このバランスだったら絶対にいける!』って。」[3]
とのことである。
もともと古い曲であるがゆえに、アレンジがしにくい面があったところを、
エンジニアの方の思い切った発想から一気に曲が化けていったんだろう。
また、ドラムの鈴木氏はこの曲のギターサウンドを、
「Pink Floydのデイヴ・ギルモアをイメージしたよう」と表現している。[4]
「愛は本当にあると言えるのか」というテーマは“名もなき詩”で一つの完結を見て、
その後社会的なテーマとしては“マシンガンをぶっ放せ”で大きなピークを迎えた。
そして次曲である“虜”からはアルバムはクライマックスに入っていく。
ある意味ではこの“ゆりかごのある丘から”はクライマックスに入るために
聴く者を深海の奥深くにまで誘い込んでいくような役割の曲とも言えるだろう。
『深海』はここからの最後の3曲で急速にあるキーワードに向かっていく。
ここまで「愛は果たして信じられるのか」を問うた先にあるのは何なのか。
[0] “ゆりかごのある丘から”の歌詞より
[1] 映画「マリアの恋人」より
[2] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[3] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より
[4] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[5] “マシンガンをぶっ放せ”の歌詞より
【関連記事】
・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎映画「マリアの恋人」をモチーフに作られたアマチュア時代の曲
古くからのファンにはよく知られていることだろうが、
この“ゆりかごのある丘から”は『深海』『BOLERO』期に作られたものではなく、
アマチュア時代にもっとシンプルなアレンジで作られた曲であった。
もともとはナスターシャ・キンスキーが出ていた「マリアの恋人」[1]という映画を
モチーフに書かれた[2]もので、戦争による長い別離によって心に溝ができてしまう
そうした2人の恋愛関係を描いたものであった。
しかし「マリアの恋人」では女性が戦争中に別の恋人を作ることはなく、
これは“ゆりかごのある丘から”を作った際の桜井氏のアレンジである。
この“ゆりかごのある丘から”が『深海』に収録された理由はおよそ3つある。
◎“マシンガンをぶっ放せ”からの接続と男女の世界への復帰
“マシンガンをぶっ放せ”が戦争をイメージして作られた曲であり、
また社会的な方向に向かったアルバムの流れを恋愛のテーマに戻す必要があり、
そこにハマったのが「戦争からの帰還」と恋愛をテーマにしたこの曲であった。
またこの「戦争の帰還」には、「安らげる場所への帰還」の意味も込められている。
そのためアマチュア時代の歌詞では2番で草原がひどく破壊されていたのだが、
『深海』版では「草原はあの日のままの優しさで」[0]と草原はそのまま残っており、
単なる「戦争からの帰還」ではなく「安らげる場所」が伝わりやすいようになっている。
もっとも何より求めていた安らぎの存在である恋人は離れていってしまっているのだが。
また草原が破壊されていたアマチュア版は「戦争の不条理」が強く打ち出されていたが、
こちらは草原をそのままにし、恋愛に関する歌詞をより重厚にすることによって、
「愛の不条理」をより浮上させるという形を取っている。
これはアマチュア版の歌詞の「戦争」を「戦場」に変えたこととも関係しており、
そうすることに聴く者が「職場などの自分にとっての『戦場』」に
感情移入して聴くことができるようにと意識したということである。[2]
◎“ありふれたLove Story”の対極として
桜井氏は“ありふれたLove Story”を作った際にインタビューで次のように答えている。
「“ありふれた──”を書いたときに思ったのは、“ゆりかごのある丘から”っていう
詞を僕はずっと前から好きだったし、ああいう映画的な詞が最近少なくなってきたなと
思ってた部分もあったし、同じ別れを描くものでも1つは本当にありきたりの日常のもので、
1つは現実とはすごい遠い世界だけれど、どこかにリアリティーがあるっていう、
その両極を見せていけたらなと思って。」[2]
「“手紙”と“ありふれた~”の詞を書き始めた時に、
その反対側に“ゆりかご~”があるのがいいんじゃないかって。
ふと思ったんですけど。」[3]
すなわち、「ありふれた別れ」と「現実とは遠いけどリアリティーのある別れ」
を書くことで、「あらゆる恋愛は別れに行き着く」という事実を
より幅広さを持って伝えられるようにしたことが考えられる。
それと同時にたとえば“シーラカンス”と“深海”のように、
“ありふれたLove Story”と“ゆりかごのある丘から”を対にすることで、
アルバム全体の楽曲が網のように有機的に結びつく構造を作ったのだろう。
そしてこの点を意識しながらアマチュア版との歌詞の変化を見ていくと、
「一度だけ君がくれた 手紙を読み返したら
気付けなかった寂しさが降ってきて
ごめんねとつぶやいても もうどうなる訳でもなく
切なさがギュッと胸をしめつける」[0]
という“手紙”という言葉を入れた新たな歌詞が大きく加えられていることに気付く。
“手紙”はアルバム『深海』においては「別れ」を象徴する言葉である。
この“ゆりかごのある丘から”においても、
かつてもらった手紙を読み返すことによって2人の別離は決定的なものとなる。
このあたりの“手紙”という言葉のチョイスはほぼ確実に意図的なものであろう。
◎景色が浮かぶ曲が欲しかった
桜井氏はこのテーマについてインタビューで、
「今回のアルバムって、詩が生々しくなっている分、景色が思い浮かぶようなものが
欠如しているような気がしたんです。」
「景色が浮かび、かつ生々しさという、そのバランスが欲しかった。」[4]
たしかにこの曲の持つ景色を連想させる力は強く、
変わらずにポツンとあるゆりかごが寂しさを増幅させ、
一方で恋人に捨てられても大きな草原は何も変わらない、
「風景によって生々しい感情を動かす」ことに成功している。
◎愛せよ目の前の不条理を 憎めよ都合のいい道徳を
桜井氏がこのことを意識して作ったのかは全くわからないが、
しかし私はこの曲を聴くたびに前曲のこのフレーズが浮かぶのである。
この曲のストーリーはひどく不条理だ。
しかし同時に「でも仕方ないよね」と思わされてしまう曲でもある。
だが不条理でありながら仕方ないと人間が思ってしまうことこそ、
「都合のいい道徳」に他ならないのではないのだろうか。
“マシンガンをぶっ放せ”流に言うなら、
「人間なんてそんなものだから、都合のいい道徳など捨てればいい」
となるし、ピュアなものを求めるのであれば、
「これを仕方のない行為だと思ってしまう人間の愚かさを見つめよ」
ということになるだろうか。
いずれにしても、考えさせられる「愛の不条理」の物語ではあるし、
決して「戦場に行ってたのだから仕方ない」で流すべきではないだろう。
◎「She love again」それとも「シーラカンス」
この曲の最後に「シーラカンス」のように何度かつぶやく箇所があるが、
これについては「She love again」「シーラカンス」「両方をかけたもの」
というおおよそ3つの説が知られている。
桜井氏がインタビューで「“ゆりかご~”の後半でも『シーラカンス』は
ちらっと出てきますが……。」[4]と答えているので、
少なくとも「シーラカンス」か「両方をかけたもの」のどちらかではあるようだ。
◎『深海』の中での位置付け - 恋愛の話への復帰
“ありふれたLove Story”の対極的な位置付けという意味合いもあるが、
『深海』全体で見るなら、“So Let's Get Truth”から社会的な方向に向かったのを、
再び恋愛のテーマへと戻ってこさせるのがこの曲の最大の目的であっただろう。
次曲の“虜”は『深海』というアルバムのハイライトになるので、
この曲に入る前にどうしてももう1曲恋愛の曲が必要になるうえ、
アルバム全体に各楽曲に複合的な関係性を持たせられることも含め、
そこにこの曲のテーマがきれいにハマったのが非常に大きかったのだろう。
◎音楽的に見て
アマチュア時代のバージョンはまるでThe Replacementsなどの影響を受けた
80年代後半~90年代前半のアメリカのインディーギターバンドのようなサウンドだったが、
『深海』版では大幅にテンポも落とし、プログレ色が非常に強いアレンジになっている。
それが大きく変貌したきっかけはエンジニアのヘンリー・ハッシュの貢献だったという。
桜井氏のインタビューによると、
「“ゆりかごのある丘から”なんていうのは、最初はああいう、ドラムに
ディレイとかかける感じじゃなかったんです。それを録ってるうちに、
ヘンリーさんが自分で、『これはジョン・レノン・サウンドだ』とか言いだして、
突然ディレイをかけて。で、あの曲はもともとアマチュアの頃からやってたから、
これまでにも何パターンかアレンジ試してたんですけど、なんかしっくりこなかったんです。
でも、ヘンリーがディレイをかけてくれた時に、『あ、このバランスだったら絶対にいける!』って。」[3]
とのことである。
もともと古い曲であるがゆえに、アレンジがしにくい面があったところを、
エンジニアの方の思い切った発想から一気に曲が化けていったんだろう。
また、ドラムの鈴木氏はこの曲のギターサウンドを、
「Pink Floydのデイヴ・ギルモアをイメージしたよう」と表現している。[4]
◎おわりに
「愛は本当にあると言えるのか」というテーマは“名もなき詩”で一つの完結を見て、
その後社会的なテーマとしては“マシンガンをぶっ放せ”で大きなピークを迎えた。
そして次曲である“虜”からはアルバムはクライマックスに入っていく。
ある意味ではこの“ゆりかごのある丘から”はクライマックスに入るために
聴く者を深海の奥深くにまで誘い込んでいくような役割の曲とも言えるだろう。
『深海』はここからの最後の3曲で急速にあるキーワードに向かっていく。
ここまで「愛は果たして信じられるのか」を問うた先にあるのは何なのか。
◎出典
[0] “ゆりかごのある丘から”の歌詞より
[1] 映画「マリアの恋人」より
[2] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
[3] 『WHAT's IN?』 1996年7月号より
[4] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[5] “マシンガンをぶっ放せ”の歌詞より
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・インデックス・はじめに / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
マシンガンをぶっ放せ / Mr.Children 深海・BOLERO歌詞意味解説
◎戦争 - 「人間の業と業」の行き着く果ての世界
まずはあえて“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”における、
桜井氏のインタビューを一部引用してこの記事を始めよう。
「恋愛……イコール……人間の業と業……それなら単なる恋愛の入り口から、
もうちょっとおっきい、なんつうか、業のところから入って戦争のところまで
広がっていくものにしたらいいんじゃないかと。
まあ、戦争という言葉は実際には使ってないですけど」[1]
「戦争」は「人間の業と業」の行き着く果て、人間の愚かさの象徴である。
そして桜井氏は“マシンガンをぶっ放せ”のテーマについてこう語る。
「そこ(“So Let's Get Truth”のこと)から混沌とした世界にいき
戦争へと突入していって、それが“マシンガンをぶっ放せ”なんです。」[2]
ここでの「戦争」という表現は比喩としての要素も含んでいるが、
いずれにしてもここで描かれるのは「究極に愚かなる人間の世界」である。
そして、そのひどく混沌とした戦争にも似た世界を通じて、
桜井氏は聴く者に対して人々が目を逸らしたがる現実を突き付けていく。
「あのニュースキャスターが人類を代弁して喋る
“また核実験をするなんて一体どういうつもり?”
愛にしゃぶりついたんさい 愛にすがりついたんさい」[0]
戦争に通じる核実験という「愚かさ」から抜け出せぬ人間の現実を見せ付け、
「愛にしゃぶりついたって無駄だよ 愛にすがりついたって無駄だよ
だってこれほどまでに愚かさから抜け出せないのが人間なんだから」
と突き付けていく。
◎「死」に目を向けよ - メメント・モリ
続けて桜井氏は人間誰もが最も目を逸らしたいものを突き付けていく。
「やがて来る“死の存在”に目を背け過ごすけど
残念ですが僕が生きている事に意味はない」[0]
「ただ現実を突き付けるアルバム」である、この『深海』において、
「死」とはどうしても切っても切り離すことができない存在である。
この「死」について、桜井氏はインタビューで、
「またその時期にいろんな本とかを読んでいて。で、……ある本の一番最初に書いてあったのは
──それは哲学かなんかの本だったと思うんですけど」
「まず第一章が人間は必ず死ぬという。で、これは当たり前のことだけど、
普段人間っていうのは死っていう崖があったらその崖を見えないように自分の前に壁を築いて、
その壁なり崖に向かって歩いているようなもんだっていう。
だから、死があるんだっていうことをまず当たり前のことなんだって実感するようになったし。」[3]
と語っている。
そして話題になる「僕が生きている事に意味はない」[0]であるが、
こうした人間が誰しも目を逸らしたくなる現実を突き付けると、
「中二だ」と一笑に付す傾向が強いが、
「生きることに絶対的な意味はない」というのは厳然たる哲学的事実である。
重要なのは、「死から目を逸らさずに、その存在を受け止めたうえで、
さらに人生には最初から絶対的な意味などは与えられておらず、
それもまた受け入れたうえでどう生きるのかを我々は考えないといけない」
そうした問いもまたこの現実をえぐり取った言葉には含まれているのだろう。
◎ここまで人間が愚かなら、もう不条理な現実に飲み込まれてしまえ
そして人間の愚かさをひたすら突き付けた後、桜井氏自身は
『深海』『BOLERO』期を象徴する葛藤の中の引きずり込まれていく。
「本当はピュアでありたい自分」と「所詮動物でしかない人間」の狭間の葛藤だ。
そこでまず桜井氏は
「愛せよ目の前の不条理を 憎めよ都合のいい道徳を」[0]
と問いかけることで、
「もう不条理があることはそういうものなんだと認めようよ、
人間ってそれだけ愚かなものなんだから。
だからもう不条理を野放しにしかできない道徳のほうこそいらないんだよ。」
と我々に語りかけるのだ。
さすがにこれはいささか行き過ぎではないかと思わなくもないが、
「所詮動物でしかないのなら、ただの動物になればいいじゃないか」
という「(動物とは違う)人間らしさ」への絶望がうかがえる。
桜井氏が求める「あるべき人間らしさ」は、
“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”や“ありふれたLove Story”の中で
示唆されているように、「エゴから解放された無私の存在」である。
しかし現実の人間は“シーソーゲーム”や“ありふれたLove Story”、
そしてこの曲でとことん示されているようにむしろ「ただの動物」に近い。
ここで言う桜井氏の「都合のいい道徳」[0]は間違いなくある種の真実なのだ。
私達は「エゴから解放された無私の愛情」からは程遠いものとしか言えない、
「エゴとエゴのシーソーゲームでしかない恋愛」を「不道徳」だと思うだろうか。
こうした道徳を、我々は果たして「都合のいい道徳ではない」と言えるだろうか。
桜井氏の求める「あるべき人間らしさ」を100、「ただの動物でしかない人間」を0とするなら、
現実の人間は50にも及ばない、いくら甘く見ても10ぐらいの存在でしかないだろう。
それが100を理想として「10にしかなれない人間の愚かさ」に苦悩するのであれば、
「10なんて動物と同じだよ、中途半端で不完全な道徳や秩序なんかを作るのなら、
もう動物として生きたほうが正しいんじゃないか」という葛藤が桜井氏にはあったのだ。
そしてこの「あまりの愚かさゆえに、もはや動物に飲み込まれたほうがいい」
という桜井氏の極端とも言える意思はこの曲の中で次々と炸裂していく。
◎愚かすぎて動物と変わらない人間を受け入れろ
「参考書を持って挑んだんじゃ一生 謎は解けぬ
良識を重んじてる善人がもはや罪だよ」[0]
参考書も良識も善人も、どれも「動物とは違う人間らしさ」を高める試みである。
しかし「そんなのもう無駄だよ 人間はそこまで立派じゃないよ」と否定していく。
「僕は昇りまた落ちてゆく 愛に似た金を握って
どうせ逆らえぬ人を殴った 天使のような素振りで」
の箇所ははっきり正しいと言える解釈は見つからないが、
これはおそらく自分自身とファンとの関係を指していると思われる。
「CDのリリースなどによってファンの前に表れて去っていくとき、
ファンからの愛の代償として金を受け取る」行為などの比喩とも考えられる。
「愛せよ単調な生活を 鏡に映っている人物を
憎めよ生まれてきた悲劇を 飼い慣らされちまった本能を」[0]において、
「人生が単調であることも、自分が自分であることも仕方ないと受け入れよう。
全ては生まれてきたことが悪いんだ。
そして人間として生まれてきてしまって、中途半端に本能以外のものを植え付けられ、
動物そのものとして生まれてこられなかったことが悲劇の元凶なんだよ」
と「所詮人間は動物でしかないことを受け入れるんだ」と叫ぶのだ。
また「中二」と揶揄されそうな「憎めよ生まれてきた悲劇を」[0]との歌詞だが、
仏教でも人間として避けられない4つの苦しみを「生老病死」と扱い、
「生まれてくること」こそが全ての苦しみの源泉であると考えるなど、
こうした考えもきちんと哲学的なバックボーンがあるものである。
◎ピュアやクリーンになろうとすることがもう悪いんだ
他の『深海』『BOLERO』の曲でも見られないほどに、
この“マシンガンをぶっ放せ”の歌詞はひたすらに突き進んでいく。
これまでは「ピュアになれない人間や自分に対する苦しみ」の反動として、
「所詮人間は動物でしかないことを受け入れよう」という感覚であったが、
今回はその反動がさらに進み「ピュアであろうとすることがむしろ悪いのではないか」
という極端なところにまで突っ走っている。
そして桜井氏がこの曲の中でやたらとこだわっているのが「毒蜘蛛」である。
(注:1995年に大阪で発見されてその後定着したセアカゴケグモのこと)
どのインタビュー雑誌を見ても熱弁を振るっていて思わず苦笑するほどだ。
しかし、桜井氏にとってはこの「毒蜘蛛」は主張の大きな根幹となっているのだ。
「あの毒蜘蛛もね、ある国では平気で生息してたのに、日本に来たら、
『これは今までいなかったものだ』って殺してしまうのは、蜘蛛だけに言えるんじゃなくて、
他のことにも言えるわけじゃないですか。なんでもクリーンにしようとする。
それはいかがなものか、という気持ちもあったんです。
どんどん共存して濁った色になっていくべきじゃないか、ということです。」[2]
「その毒グモって日本には居なかったものだけれど、日本には今までなかったものだから
といって最初は駆除してたじゃないですか。それは絶対違うなと思って。(略)
それはオウムとかいろんな宗教にしてもそうだけど、自分にある煩悩というものは
いけないものだと決め付けてるところがあるでしょ?
でも絶対クリーンでなんかいられないわけだから、どんどんどんどん濁っていくわけで、
だから普通に不純になっていけばいいのに、だけど綺麗になりたがるじゃない?」
「全体が喜んで不純になればいいのにっていう」[3]
セアカゴケグモを当時駆除しようとしたことの是非は横に置くとして、
「人間がエゴを捨ててピュアになろうとすること」と、
「外来種を駆除しようとすること」は話として本質的に異なっており、
これを結びつけて「クリーンになるのはいけないことだ」とするのは、
いささか牽強付会ではあるが、いずれにしても桜井氏はこのとき
「もう人間なんてどうあがいてもピュアになれない存在なのだから、
すっぱり諦めてどんどん濁って、不純になればいいんだよ」
という意思を一部で強く持っていたことはたしかである。
「殺人鬼も聖者も凡人も共存してくしかないんですね」[0]もまた、
「全てが共存して濁ってしまえばいい」という意思が表れている。
一方で“シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~”や“ありふれたLove Story”の中では、
「エゴにまみれた人間という存在」を「愚かなるもの」と描写していた一方で、
ほぼ同義の「煩悩」は肯定しているなど、かなり混乱している部分もある。
これは一方では「エゴから解放されたピュアな人間」を求めていながら、
「そんなの無理だよ、ピュアになろうとするから悪い、人間なんてただの動物」、
という価値観が桜井氏の中で強烈な葛藤を引き起こしていて、
この曲において後者がひたすら前面に出てきたということであろう。
◎自分の肉体で生きるため、ピュアであり続けたい自分を殺す
こうして「ピュアであろうとすること」を徹底して否定するこの曲だが、
『深海』『BOLERO』期において桜井氏が「所詮動物でしかない人間」を主張するときは、
「ピュアになろうとすればするほど、そこから離れて行ってしまって、
死ぬことしか考えられなくなるから、もう動物でしかないことを認めて、
そうすることによって救われたい」という感情が必ず横たわっている。
だからその葛藤は結局はこれらのインタビューの言葉へと繋がっていくのである。
「だから、そう言いながらもどっか自分の中でたぶん愛情をもらいたいとか
愛されたいとかいう気持ちが、そう言いながらもあって。
そういう自分と折り合いがどんどんつかなくなっているというか。」[3]
「それまではピュアなものが人の心を動かすとかも思ってたし、
そういう自分でありたいと常々思ってたし、でもやっぱり現実は何があるかわかんないわけだから、
そういう風にはいかしてくんないし。だから『深海』のときにほんとに自殺しようと思ってた。
ていうのは、このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうかっていうどっちかになったときに僕は、
僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえっていう。
そのために自分に言い聞かせてるのが、ある意味『深海』の中の歌詞でもあるし。」[4]
すなわちこの曲は「このままどんどん汚れていく自分を否定して死んでいくか、
逆にピュアであり続けたいっていう自分を殺しちゃうか」の瀬戸際に立ち、
「僕の肉体で生きて、ピュアであり続けたいっていう自分をまず殺しちゃえ」と、
桜井氏自身に言い聞かせている歌詞なのである。
したがって、この“マシンガンをぶっ放せ”は一見「不純賛歌」に見えるが、
その出発点は「あまりにも愚かでピュアから程遠い存在である人間」であり、
270°ほどねじれながら「人間の愚かさと純粋さ」を問うている歌である。
そうした心の内実はインタビュアーにも伝わっていたみたいで、
「不純になればいい」などの発言にインタビュアーから疑問も呈されている。
「ただ桜井さんが『ほんとにそう思ってんのかなあ?』っていう疑問が俺からは拭い去れなくて。」
「何故かって言うと、こういう詞を唄ってたとしてもミスター・チルドレンの音楽は
結局善を志向してる、ピュアなものを志向してるっていう気持ちが伝わってくるんですよ。」
「これを聴いて、破れかぶれの薄汚い気持ちになるかっつったら全然なんないもん。」[3]
◎本当はこの「何だってまかり通る世界」に絶望している
そしてこの“マシンガンをぶっ放せ”が単純な「不純賛歌」でないことは、
何よりもこの曲の中で桜井氏が書いた歌詞が強く物語っている。
もしこの「戦争」をモチーフに描いた「濁った不純そのものの世界」が、
桜井氏にとって理想郷と言えるようなものであったとしたら、
その世界をこのような言葉で表現などするだろうか。
「触らなくたって神は祟っちゃう 救いの唄は聞こえちゃこないさ」
「何だってまかり通る世界へ」[0]
桜井氏はこの「何だってまかり通る世界」を理想としているはずなのに、
この言葉には全くそうした世界に対する希望というものが見えてこない。
やはりこの“マシンガンをぶっ放せ”の不純さを求める言葉もまた、
「ピュアであろうとするほど死にたくなる」反動としてのうめきなのだ。
◎『深海』の中での位置付け - 社会的なテーマのメイン曲
アルバム『深海』を極めて形式的に見た場合のこの曲の位置付けは、
やはり“So Let's Get Truth”からの社会的テーマの続きとして、
そしてそのメインとしての位置付けを持っていると言えるだろう。
とはいえ、歌詞解説からもわかるようにこの曲はたしかに社会を扱ってはいるが、
本来の意図は社会風刺ではなく、「人間の愚かさ」をまず徹底的に示したうえで、
「ピュアであろうとすることなんて、無理だよ、諦めなよ」と言い聞かせる、
そういう意味の曲であるというふうにとらえたほうがより適切だろう。
“手紙”から“名もなき詩”まではそれを「愛」について行ってきたのだが、
この曲ではテーマを広げ、「あらゆるものについて人間は愚かである」と示し、
「素晴らしいものなんて何もない」「救いなどない」とまで示している。
そのためにテーマを愛から社会まで広げたというふうにも言えるだろう。
◎音楽的に見て
この曲はあえて分類するなら90年代オルタナティブロックになると思うが、
あまり近いタイプの楽曲が見当たらないなど、個性的なアレンジとなっている。
こうした攻撃的でテンポも速い曲でほぼギターとチェロで構成してしまうという、
ギターもあえて強いディストーションはかけずに不気味な演奏をしながら、
チェロもその不気味さを後押しするという変わったスタイルとなっている。
それゆえにサビのアレンジではかなり試行錯誤することになったらしい。[2]
ギターとチェロのバランスがサビではなかなか上手くいかなかったようで、
最終的には両方が同じぐらいに目立つこのスタイルになったとのことである。
◎おわりに
「救いとしての純粋さからの逃亡」は『深海』『BOLERO』期によく見られるが、
それが極限まで行ったのがこの“マシンガンをぶっ放せ”だと言えるだろう。
ただ他の曲ではある程度は「ピュアを求める心の葛藤」が見えるのだが、
この曲はそれらをできるだけ排除して書いているところがあるので、
徹底しているかわりに誤解を招きやすい面があるのは否めない。
この「所詮動物でしかない人間」という事実を受け止めたうえで、
この主人公は『深海』のさらなる深みでどこに達するのだろうか。
◎出典
[0] “マシンガンをぶっ放せ”の歌詞より
[1] 『WHAT's IN?』 1995年より
[2] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[3] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1996年8月号より
[4] 『ROCKIN'ON JAPAN』 1997年6月号より
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◎「愛の墓場」での追憶から外へ向かう
“手紙”から始まる男女の物語は“名もなき詩”でいったん完結したが、
まずはここまでの流れを簡単にではあるが振り返ってみよう。
アルバム『深海』の物語の時系列の最初にあたる曲は“Mirror”で、
ここでは想いを寄せる人に「単純明快なLove Song」[1]を歌っていた。
そして2人は恋愛関係となり、“Mirror”の主人公は絶望に陥る彼女のために
“名もなき詩”を作るなど、深い愛情で結びつけられた関係へと至った。
しかしそんな2人も一緒に暮らし始めると“ありふれたLove Story”のように、
簡単に関係が壊れて別れに至り、時が経ち主人公は彼女に“手紙”を書く。
そしてその“手紙”という「愛の墓場」に立ち尽くしながら2人の関係を追憶し、
2人で暮らした日々(“ありふれたLove Story”)、ただ単純に愛情を伝えた日々(“Mirror”)、
深い愛情で結ばれていた日々(“名もなき詩”)を心の中で振り返っていき、
「どれだけ深い愛で結ばれていても、結局は壊れてしまうものなのか」、
「永遠に続く愛などあるのだろうか」、「そもそも愛は本当にあるのだろうか」、
「もし愛があったとして、そのことに意味はあるのだろうか」と考えていく。
そして自らが書いた“名もなき詩”の「街の風に吹かれて」[2]の歌詞を思い起こし、
“Mirror”から“手紙”に至る経験を胸に、彼は真実を求めて(=So Let's Get Truth)外へ向かうのだ。
◎“Mirror”の青年は愛の絶望を胸に“So Let's Get Truth”を歌う
アルバム『深海』は“名もなき詩”で一つの区切りを迎えることにより、
“So Let's Get Truth”はそれまでの曲とは切り離された印象が強い。
しかし桜井氏のインタビューにあるように、
「次の“名もなき詩”へと、世界が徐々に広がり、大きくなっていきます。
男と女の枠から、外へ出るわけですね。『♪街の風に吹かれて唄いながら……』の歌詞と、
その次にくる“So Let's Get Truth”は、僕のなかではこのようにつながっていく──。
外に向かう。しかしそれは、この男にとって、同時に内に閉じこもることでもある。
それは一人の呟き、嘆き……。」[3]
と、“手紙”から“名もなき詩”までの物語と主人公は同じである。
そう、純真無垢な心で街角で愛する人に“Mirror”を歌っていた彼が、
今は愛の苦い真実を噛み締め“So Let's Get Truth”を歌っているのである。
このように「『深海』のA面全体が“Mirror”の主人公を、
“So Let's Get Truth”を歌うまでに変えてしまった」ととらえると、
この“So Let's Get Truth”もまたズッシリとした重みのあるものになる。
そして桜井氏が“So Let's Get Truth”で再び外へ向かった彼を
「この男にとって、同時に内に閉じこもることでもある。それは一人の呟き、嘆き……。」[3]
と評したように、「真実を探す」という内的な行動へと向かわせることになっていく。
この“So Let's Get Truth”は単体の曲としては比較的印象が薄いが、
「真実の深い愛ですら簡単に壊れることを示すA面」に対して、
「それを受けて真実を求めていくB面」を象徴するタイトルでもある。
前半において「壊れるはずのない真実の愛すら壊れた」事実があったからこそ、
彼はこの“So Let's Get Truth”から始まる真実を探す旅へと出るのだから。
もちろんそれはこの主人公という一人の人間の呟きでもあるが、
同時にこのアルバム『深海』を聴く人達へのメッセージでもある。
「これまで誰もが賛美してきた愛の現実はもうわかっただろう。
だから、それを受け入れたうえで真実を探すんだ」というものである。
◎「真実」に目を向けろ
この“So Let's Get Truth”は一般的に『深海』『BOLERO』期の中の
社会風刺系の曲の一つとされるが、たとえば“タイムマシーンに乗って”
などに比べると、深刻さは薄く、どこかトーンが軽くなっている。
しかしよくよく歌詞を読むと、「真実から目を逸らす人達」や
「真実を探そうとしない人達」が全体的に描写されており、
そこから最後に向けて「真実を探そう」という流れになっている。
「ゴミのようなダンボール そこで眠る老婆 錆びた夢の残骸」[0]は、
『深海』の大きなテーマでもあり、アルバム前半でも愛をテーマに描かれた
「あらゆるものは壊れゆく」「メメント・モリ」と通じる内容である。
そしてそれは当然自分にも振りかかるのだが、「素通り」[0]して目を逸らすのである。
これは次曲である“マシンガンをぶっ放せ”の
「やがて来る“死の存在”に目を背け過ごすけど」[4]
の箇所にそのまま通じるものがあると言えよう。
そして表層的にしか社会を語らず真実を求めない「社会派」や、
ただ通りを練り歩くだけ(「walking in the street」)の若者達、
互いに顔色を見て利口なふりをするだけの子ども達を描写しながら、
しかしいずれ「矛盾を知り苦悩したり試行錯誤する」ようになり、
真実を探しに行くであろうことを示唆して締めくくられている。[0]
◎『深海』の中での位置付け - 社会的なテーマへの切り替え
アルバム『深海』の中でのこの曲の意味合いとしては、
“手紙”から“名もなき詩”まで描かれた「男女の物語」から、
「社会的なテーマ」への切り替えをする目的を持っている。
平たく言ってしまえば、“名もなき詩”から“マシンガンをぶっ放せ”に
直接繋ぐわけにもいかないので、間に入っているという意味合いが強い。
そのため「アルバムの流れをスムーズにするための曲」という感もある。
しかし一方においては“Mirror”と同じ主人公が同じように外で歌う曲なのに、
テーマ性が大きく変わっている、その対比を描き出すなどの効果も見せていたり、
また「真実を探す」というアルバムのテーマの提示の役割も担っており、
比較的地味な立ち位置の曲ではありながら、果たしている仕事は少なくない。
◎音楽的に見て
ほとんどの人が「長渕剛みたい」と思っているだろうが、
実はもともとボブ・ディランをイメージして作った曲である。[3]
その経緯については桜井氏もインタビューで、
「これはやっぱり“LIVE UFO”で桑田佳祐さんがボブ・ディランをやってたのを聞いて、
思ったんですけど。日本の中で“言葉”を伝えようと思った場合、ヒップホップっていうのも
いいやり方だけど、どうしてもファッション先行になる傾向があるから、そうじゃなくて、
ボブ・ディランのような在り方のほうが、きっと“言葉”を伝えるということでは
僕らとしてもあり得るし、僕らがやってちゃんと伝わる方法だろうななんて
思いながら作ってたら……長渕剛さんに。」[5]
と語っている。
ただし「長渕さんの真似をしようと思って歌ったわけじゃない」[5]そうで、
デモテープのときの歌い方の癖が抜けたかったためにこうなったとのことである。
◎“臨時ニュース” - “マシンガンをぶっ放せ”とのつなぎ役
この“臨時ニュース”のトラックについてはインタビューでもほぼ言及がなく、
中川氏が「これは基本的にエンジニアの方が」、鈴木氏が「これはお遊びということで」
と触れたのみで、メンバーや小林氏が深く関わったわけではないようである。[3]
おそらくは次曲の“マシンガンをぶっ放せ”がイントロの無い曲であるため、
上手く繋がるようにこの“臨時ニュース”をはさんだということなのだろう。
この『深海』という作品が全体的にプログレ的であることを考えれば、
こうした工夫を入れるのはそうした点からも面白いとは言えるだろう。
◎おわりに
あまり意識せずに聴くと、「あぁ、ここから少しテーマが変わるんだな」と
感じる程度の曲ということで終わってしまいがちだが、
「A面全体を受けて“Mirror”の主人公がここに至っている」
ということを意識すると、『深海』らしい重みを感じることができる。
果たして彼はこの後、どのような「真実」を見出していこうとするのだろうか。
◎出典
[0] “So Let's Get Truth”の歌詞より
[1] “Mirror”の歌詞より
[2] “名もなき詩”の歌詞より
[3] 『月刊カドカワ』 1996年7月号より
[4] “マシンガンをぶっ放せ”の歌詞より
[5] 『PATi・PATi』 1996年7月号より
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