11月が終わりました!
いつも月末記事を書くときは、先月末の記事を読み返してから
書いているのですが、10月とはまるで別世界に来たみたいです。
10月末と同じ地平に住んでいるという感覚があまりしないですし、
あれから1ヶ月しか経っていないというのもどこか信じられません。
たしかに10月中旬の時点で母は助からない可能性が高いことがわかっていましたが、
それでもまだ生きていたときと、本当に亡くなってしまったあとでは
やっぱり何もかもが違うのだなとこの記事を書きながら感じています。
ちょっと話が前後しますが、今月はまさにその母の死から始まったのですよね。
病院から「もう長くはもたない」と電話があったのが11月1日の午前3時で、
亡くなったのは病院に向かう途中の同日の午前4時30分頃でした。
表面的な形だけを見れば、母が入院した10月3日以降と
母が亡くなった11月1日以降の生活はほぼ同じはずなのです。
どちらも母が家にいない状態での暮らしという点では同じですから。
でもやっぱり母の入院下での10月の生活を過ごした10月末の感覚と、
母が亡くなってからの11月末の今の感覚は全くもって異なります。
一つの時代が完全に終わって、違う時代に入ってるという感覚があります。
普段の生活の中では10月までの延長線上のようにも感じるのですが、
こうして1ヶ月を振り返り、10月はどうだったかも振り返ったうえで、
今を見つめてみると、あまりにも変わっていることに驚くのですよね。
それだけ11月の30日間の歩みは自分に大きな変化をもたらしたのでしょう。
たしかに死期が近くとも母が生きていたときと、母が亡くなった今とでは
交流のあった人と会うときでもその意味というのが全然違いますからね。
そして同時に11月は母が亡くなったことにともなう手続きに追われた1ヶ月でした。
まず4日に葬儀があって、11日に樹木葬の場所の見学に行って、
そして他の記事などでも書いたようにいろいろな手続きをしました。
市役所での手続きに必要な書類などを調べて作業を済ませてきて、
また四十九日までに必要となる仏壇・位牌・仏具もそろえました。
そして最も面倒だった年金関係の手続きについても28日に終わりました。
年金の手続きは住民票の除票や戸籍謄本などが必要になりますからね。
うちの場合は本籍地が奈良県なので、戸籍謄本に関しては
奈良の市役所に郵送で手続きをしないといけないですからね。
ただそれらもきちんと揃えて、年金の手続きも何とか終わりました。
そして公共料金関係などについてもきちんと済ませてきました。
あと残っているのは納骨までの手続きぐらいでしょうかね。
父は四天王寺でのお経木流しもしておきたいとのことなので、
それについても12月の予定には入ってきますね。
ちなみに父と天王寺方面にいろいろな手続きなどに行くときは、
帰りにラーメン屋に寄るようにしています。
そうすることで手続きで気持ちが重くならないようにするとともに、
手続きを済ませる中で少しでも楽しめるものを取り入れたいからですね。
今月に入ってラーメンの食べ歩きが少し増えているのはそのためです。
まぁ父と一緒にラーメンに行くということで、
父の好みにあるラーメンのあるお店には限られますが。
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ブログに関しては母の葬儀後の手続きで一時的に止まりましたが、
その後は10月に作ったいい流れを上手く継承できたと思います。
先ほど書いたようにラーメンの食べ歩きも少し復活しているので、
ラーメンの記事も今後はちょくちょく登場することになりそうですし、
そこそこバランスのいい記事更新ができるような感じがしますね。
洋楽ロック関連の記事はだんだんと軌道に乗ってきた印象ですね。
やりたいことがずいぶんと形に出来てきたという感があります。
問題はここからどのジャンルを扱っていくかということですね。
自分が最も好きなグランジも大きな候補となってきますし、
時系列を調べるのにやや骨が折れる感じはありますが、
ロック史上最大のムーブメントであるサイケデリックロックは
12月か来年1月あたりには取り上げたいとも思っていますね。
また書きやすさに関して言えばサザンロックも候補になりますね。
あとはパンクロックはすでに書いたので、続編的にポストパンクも、
またドゥーム/ストーナー/スラッジも取り上げたくはありますね。
このあたりは自分の気持ちに任せて進めていきたいところですね。
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そして我が家の名物(?)となっている、
お菓子をもらいに来る近所の小学生の姉妹さんですが、
最近はさらにグレードアップして楽しませてくれています!
自分の呼び名も「にぃに」、父への呼び名も「じぃじ」に昇格しました!(●・ω・)
特にお姉ちゃんのほうは自分にベッタリになってきて、
自分が行くと「にぃにー!」と手を引いたりしてきます!
おかげですっかり「大きなにぃに」へとなってしまいました!
そしてこれまではお菓子だけをもらいに来ていましたが、
最近は100均で売ってるおもちゃもねだるようになりました!笑
最初は「折り紙買ってきといて!」だったのですが、
最近は風船などもよく欲しがるようになっていますね!
そしてお姉ちゃんはそうしていろいろこちらが世話をすることに
感謝しているようで、本人なりにお礼をしてくれるのですよね!
ある日にはどこかで見つけた(?)造花の束をプレゼントしてくれました!
そして別の日には、
「これ私のお気に入りのやつをにぃにとじぃじのためにコピーしてきてん!」
と、なんと・・・塗り絵をくれました笑
「小学生の女の子から塗り絵をもらうおじさん」、
という構図だけで我ながら笑ってしまいます!
「何やて、塗り絵やて?
自分達みたいなおっさんが塗り絵をもらってどうしろと!?」
となるのですが、そこを無邪気に
「よし、にぃにとじぃじに塗り絵をプレゼントしよう!」
と思って実行してくれるというのがかわいいですよね!
そして面白いことに父はその翌日にクレヨンを買ってきて、
頑張って塗り絵を1日で完成させていました笑
それをお姉ちゃんに渡してあげると満面の笑顔でしたね!笑
自分はまだ完成させてないので頑張ろうと思います!(`・ω・´)
普通に見ると、こちらがその子達にお菓子やおもちゃをあげて
世話をしてあげているという構図になるのですが、
自分達としてはむしろこちらが元気をもらっている感じですね!
母が亡くなって家全体がしょんぼりしているところもありますし、
でもそこで元気で無邪気な子達がストレートになついてくれると、
それのおかげで気持ちが回復するところがあるのですよね!
なので、自分としてはこの子達にすごく感謝していますね!
ほんと笑顔を届けてくれるわがまま天使さんという感じです!
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[今月の1曲]
ということで、今月も最後に1曲貼って記事を締めようと思います。
今月の曲はもう中旬ぐらいの頃には決めていたのですよね。
Temple of the Dogの"Say Hello 2 Heaven"という曲です。
この曲はもともとMother Love Boneというバンドの
フロントマンであるアンドリュー・ウッドが亡くなった際に
そのルームメイトだったクリス・コーネルと
Mother Love Boneの元メンバーが彼の追悼のために書いたものです。
もちろんここでそのような追悼の意味を持つ曲を選んだのは、
亡くなった母に対する追悼の気持ちを込めてのものです。
ちょっと音楽の話に戻りますと、
この曲で一番聴いてほしいのはクリス・コーネルのヴォーカルなのですね。
クリス・コーネルは長いロックの歴史の中でも5本の指に入るヴォーカリストで、
太くて渋い声質、そしてただごとではないレベルの音域の広さもすごいのですが、
非常に高い音になっても金属的なキンキンとした声になることなく、
中音域と同様の太く艶のある声を維持できるのが素晴らしいのです。
この曲でも後半にかけてハイトーンのメロディになるのですが、
そこでも全くブレることなく太さがそのまま維持されているのですね。
無理をして喉を絞って高音を出しているようなところが全くないのです。
クリス・コーネルもこの曲の前年ぐらいまでは高音ではやや金属的になっていたので、
この1991年以降の声の伸びは丁寧なヴォイストレーニングがあったのでしょうね。
この声だけで聴かせる力、それを一度味わってみてほしいと思います。
ということで、12月もどうぞよろしくお願いいたします!(゚x/)モシュッ
Temple of the Dog - Say Hello 2 Heaven (1991) [Grunge]
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手続きに追われてます;
そろそろブログも平常運転に戻したいと思っていましたが、
思っていた以上に手続きが多く忙しいままとなっています;
葬儀が終わったときは、
「あとはもう市役所での手続きぐらいだろうし、
それも保険証関係の返却とかばかりだから、
大した手間にはならないだろう」
と甘く見ていたら他にもいろんな用事がありました;
まずは仏壇・位牌・仏具セットなどの購入ですね。
どれも基本的には父が納得することが最優先になるので、
自分が勝手に判断するわけにはいかないのですよね。
なので、販売サイトやカタログなどをもとに
それを父に見てもらってどんなデザインやサイズがいいか聞き取って、
それを改めて確認したうえでネットで最も価格が安いところを探して購入、
こんな感じの手続きになるのですよね。
それでも仏壇と仏具セットについてはかなり迅速に決まり、
何とか注文も完了し、手続きについてはとりあえず終わりました。
位牌もデザインと購入するところは決まっているのですが、
位牌は文字入れの詳細を決めたうえで購入する必要があって、
なおかつ文字入れの希望がわかりやすく伝わるように準備しないといけないので、
それが終わったら実際に注文するという段階に移る予定にしています。
でもこれらについてはおおむね順調に進んだ感じですね。
そして次に重要なのが納骨などの手続きですよね。
でもこれはすぐに申込用紙も記入して発送も終わりました。
あとはお寺との間で納骨日に関しての具体的な話をして、
その日に納骨に行くという手続きが残る感じですかね。
納骨日をいつにするかはまた父との相談が必要ですが。
四十九日に近い日にするのか、できるだけ早くするのか決めないといけないですしね。
そして市役所での手続きについては数日後に予約を済ませてますが、
こちらはあと少し必要な書類を整理すれば特に問題はなさそうです。
「じゃあ手続きは多くても、それぞれは意外に簡単なのでは」
と思えてきそうですが、厄介なのが一つあって、それが年金関係です;
最初は年金関係の手続きも市役所で済むと思っていたのですが、
年金事務所に行って年金の受給権者死亡届を提出したうえで、
未支給年金の請求手続きをする必要があるのですね。
年金事務所に行く面倒さもありますが、そんなのは別にいいとして、
必要な書類が市役所での手続きなどに比べてややこしいのですよね;
まず年金の受給権者死亡届を出す際に、
死亡を明らかにすることができる書類として
「戸籍抄本または住民票の除票など」が必要だそうです。
「なんで市役所にちゃんと死亡届を提出してるのに、
改めて別の証明する書類まで持って行かないといけないんだ」感もありますが、
この「住民票の除票」も本人以外が請求する際には
どうもちょっと手続きか証明が少し面倒ぽいのですよね。
そのあたりを事前に調べておかないといけないのもなかなか厄介です。
それでも戸籍抄本を本籍地から取り寄せるよりはまだマシでしょうし、
市役所での手続きに行く日までにそのあたりを調べておいたうえで、
同じ日に住民票の除票(の写し)ももらってきたいと思っています。
そして未支給年金の請求には戸籍謄本が必要になるみたいですね・・・;
未支給年金は家族が受け取ることになるわけですから、
その家族と本人との関係を証明する書類が必要ということで、
それにあたるのが戸籍謄本になるということのようです。
そのあたり市役所でもらえるもっと簡単な書類で済まないのですかね;
本籍地からの戸籍謄本の取り寄せというだけで面倒な感覚が数割増えますね;
年金関係で必要な書類や手続きはまだ完全に調べ切ってないので、
もしかすると他にも面倒な必要書類や手続きがあるのかもしれないですし;
というか、この手続きや必要書類のややこしさを考えるに、
家族が亡くなった後に年金事務所に何回も足を運ぶことになった人って
たぶんかなりいるのではないでしょうかね;
自分はそこはさすがに1回の訪問で済ませてしまいたいので、
必要書類や手続きはしっかりと調べたうえで行こうと思います。
というか、今はそのあたりの情報がネットですぐにわかるからいいものの、
昔の時代の人ってどうやっていたのだろうと考えさせられてしまいますね;
たぶん市役所で「年金事務所にも行かないといけませんよ」と教えてもらって、
年金事務所で「○○と△△の書類が必要です」と言われたうえで、
それらの書類を集めてもう一度事務所に行くみたいな感じだったのですかね。
それを考えれば、自分で調べられる今はまだ恵まれているのかもですね。
ということで、いろんな手続きが一段落ついたらブログも復活しようと思います。
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母の葬儀が終わりました
これから母の死去に伴う市役所などでの手続きが必要になりますが、
とりあえずは葬儀が終わったことで一段落はついたと思います。
母が亡くなった11月1日から葬儀のあった4日までは、
精神的な面よりも肉体的な疲れのほうが大きかったですね。
打ちひしがれてる暇もないぐらいに予定が立て込んでいる感じで、
特に1日は午前3時に病院に電話があって昼の12時から葬儀会社との打ち合わせと、
全く寝ることなくひたすら何かに対応していないといけなかったですからね。
2日も3日の葬儀にかかわる用事があり、
また葬儀当日にお棺に入れるためのものを探しに行ったりと、
この2日間もまたゆっくりできるような感じではなかったですからね。
そして葬儀当日はその後のイベントも含めて時間が非常に長かったですし、
家に帰ったときにはもう完全に疲れ果ててしまっていました。
ただ今後は手続きなどの予定は残ってはいるものの、
この数日のような忙しさになることはないので、
少しは落ち着くことができるだろうなとは思います。
2日は亡くなった母の体をお風呂に入れてあげて、
化粧をほどこしてあげるという儀式だったのですが、
最初はかなり複雑な気持ちでそれを見ていたのですよね。
亡くなった体をバスタブに動かすような場面を見てると、
「遺体には酷なことなのではなかろうか」と思ったのですが、
最終的に髪の毛などもきれいに整えられたことを見て、
「あぁ、天国に出発させてあげられる準備ができたな」と
安堵するような気持ちにたどり着きました。
3日は1時間ほど母のなきがらと時間を共にできる機会でしたが、
1日も2日も4日も葬儀関連のイベントとしてしか母を見られないのに対して、
この日はほぼフリーで母と接することができたので、
自分としてはけっこう貴重な時間を過ごせたと感じました。
4日の葬儀当日はお棺に花を入れたりする場面も印象的でしたが、
最も記憶に残っているのは火葬する直前ですね。
いくらもう命がないとはいえ、まだこの段階では体はありますし、
火葬場に入るということは身体を焼くということですから、
「あぁ、ここに入るともうこの顔は見てあげられないんだな」
「これによって身体はもう完全にこの世からなくなるんだな」
と、そうした感情が強く湧き上がってきたのは事実ですね。
そして葬儀が終わって家に帰ると、
今度は母のものを処分いていく段階に入るわけです。
今はまだ母の生活のためのものが家に多く残っていて、
家での生活そのものは母の入院中とほぼ変わらないのですが、
ものを処分していくと母の生活の面影が家からなくなっていくので、
そのときは否応なく「母のいない生活」の実感が湧いてくるのでしょう。
かといって、もう使わないことがわかっているものを
いつまでも家に置いておくのも違和感がありますからね。
いずれにしても時間というのは進んでいかざるをえないですからね。
この記事をアップしたのが11月7日と葬儀から3日経ちましたが、
葬儀が終わってからもやはり肉体的な疲れが残っていたのでしょうね。
すぐに記事を書く力が出ず、無意識に時間が経ってしまいました。
気付いたら思っていた以上に長時間眠っていたこともありましたし、
やはり11月1日から葬儀までの4日間に疲れがたまっていたのでしょう。
とはいえ、まだ全てが片付いたというわけでもないのですよね。
これから入院費の支払い、役所での手続き、お墓の下見、
仏壇仏具について、介護用品の返却など、やるべきことが多くあります。
それが進むにつれてさみしさも出てくると同時に、
新しい生活への一歩一歩踏み出すことにもなるのでしょう。
ブログについても徐々に更新を復活させていきたいと思っています。
今の段階では決してものすごく塞ぎこんでるとかいうことはなく、
どちらかと言えば肉体的な疲れが残っているという感じなので、
あと数日もすれば再び元気に活動できるようになると思います。
それでは、これからも自分なりに何とかやっていきます。
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母が亡くなりました
11月1日の午前3時頃に病院から電話があり、
「脈が落ちてきていて、いつ心臓が止まるかわからない状態です」
との連絡があり、すぐに兄に連絡を取って一緒に病院に向かいました。
もうすでに「いつ緊急事態になって電話するかわからないので、
いつでも連絡が取れる状態にしておいてください」と言われていて、
そのうえで午前3時という時間に電話がかかってきたので、
もう電話を取る前からそういう意味の連絡であることは覚悟ができていました。
兄からも事前に「そのときはどの時間帯でも電話してきてくれてかまわない」と
言われていたので即座に連絡しました。
正式には自分達が病院に着いて、医師と死亡を確認した午前5時1分が
死亡時刻ということになってはいますが、
実際には病院に向かう途中の午前4時15分ぐらいに再び電話で連絡があり、
脈が止まったと伝えられていたので、最後の瞬間は見届けることはできませんでした。
とはいえ、3週間ほど前からずっと意識が飛んだ状態が続いていたので、
その場にいたとして意思の疎通は出来ず、
ただ呼吸と脈が止まるのを待つだけの時間になったとは思いますが。
10月31日あたりから妙な不安は感じていたのですよね。
もういつ心臓が止まってもおかしくない状態だとは思っていたので、
10月の月末記事を書くにあたって、
「10月中にその連絡がある可能性があるから、
記事を書くのはできるだけ10月31日までは大丈夫だと確信を持ててからにしよう」
と考え、それゆえに10月31日は不安を感じながら過ごしていたのですよね。
それで何とか10月31日は病院からの連絡はなく済みましたが、
その数時間後に連絡があり、嫌な予感は当たる結果になりました。
母が亡くなったことについては、正直なところまだあまり実感がないのですよね。
もう回復は難しいだろうというのは10月19日の面会の時点で強く感じていて、
ある意味ではそのときに覚悟に関してはできていたのですよね。
それゆえ直接的なショックはそのときのほうが大きかったかもしれません。
とはいえ、病院からの電話を受けたときには少なからず動揺はしましたが。
ただ、身近な存在の死のショックって、
必ずしも死の瞬間に全てが訪れるわけではないですからね。
今はまだ実感はなくても、
時間が経つにつれて喪失感にさいなまれることはありえますし、
これから自分がどう感じるかはそのときにならないとわかりません。
ただ現時点で不安なのは自分以上に父の心境ですね。
父はもともとめったに涙を流すタイプではないのですが、
母が亡くなって以降は母のことを誰かに話すたびに涙声になってるのですよね。
やはり母と一番長く過ごしてきたのは父ですから、
その喪失感は自分が思っている以上に大きいものなのでしょう。
今回の母の死のきっかけは母を含む家族全員がコロナになったことでしたが、
肺に持病のある母にはやはりコロナは非常に厳しかったのかもしれません。
全国的にコロナへの警戒心が弱まり、感染する人が増えてくると、
結果として母のような身体の弱い人が辛い思いをすることになるのでしょうね。
そして昨年から導入した在宅酸素も一長一短があったように思います。
在宅酸素がなかったときは、軽い風邪にかかったような状態でも、
急激にSpO2が下がり、家では対処できなくなってしまうので、
すぐに救急車を呼ぶしかなかったのですよね。
しかしながら、そうであることで早めの入院ができて、
病気が重くなる前に対処ができるという利点もあったように思います。
それに対して今回は酸素に関しては在宅酸素で対応できてしまうため、
「何とか自宅で乗り切ることを考えよう」と早期の入院は考えず、
それが高度脱水などの重い状態悪化を招いたのも事実なのですよね。
とはいえ、家族全員がコロナの状態で救急車を呼んで対応してもらえたのか、
在宅酸素があってコロナ以外の異常が見えない段階で対応してもらえたのか、
特に今は病院がどこもベッドがないという状態のようですし、
どうするのが正しかったのかは正直なところ、よくわかりません。
脱水にはもう少し早く気付いてあげるべきだったのだろうとは思いながらも、
昨年の入院以降はほぼ半分寝たきりに近いぐらいの状態の悪さだったので、
もう何かの病気になった時点で回復は難しかったのかもしれません。
今はまだ自分の中で明確なものが言葉に出来ないですが、
時間が経てばそのあたりがクリアになってくるかもしれません。
これまでみなさんには母の状態や自分の心境を心配していただき、ありがとうございました。
こういう結果にはなってしまいましたが、本当に感謝しています。
また母のことについては何らかの機会に報告したいと思います。
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10月が終わりました!
自分の中では5月と同じぐらいに重い1ヶ月になったと思います!
今月と言えば、やっぱり何と言っても母の入院と状態の悪化ですね。
10月3日に入院して、そこから10日ぐらい病院から連絡はなかったので、
「順調に回復してるのかな」と楽観的に思っていたら、
面会したときに意識が飛んでいて手や脚が凄まじく膨れ上がっていて、
「これはかなり厳しいと思わざるを得ない」となったのですよね。
正直なところ、回復するのは非常に難しいとは考えていますが、
ただ2回目の面会から今日で10日にはなっているのですよね。
その間は病院から連絡はないので、最悪の事態はまだ避けられていて、
とはいえ回復してるかどうかもわからない、状態は横ばいなのか、
改善しつつあるのか徐々に落ちているのか、何もわからない状態です。
最初に面会したときはもう諦める以外の選択肢がない感じでしたが、
今は「もしかしたら」とうっすらと奇跡を願いながら過ごしています。
覚悟はしつつ、ただ一方でかすかな希望を持っていたいと思っています。
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そして今月はこのブログでもかなり大きな動きがありましたね!
ここ1年ぐらいはこのブログはほぼ完全に休止状態でしたが、
この1ヶ月はかなり復活して更新頻度も2日に1回を超えました!
事実上のブログの復活が達成できたと言ってもいいと思います!(●・ω・)
そのかわり、ブログのカラーはこれまでとは完全に変わりましたね!
カップ麺の記事はほとんどなく、ほぼ洋楽ロックブログになりました!
昔から洋楽ロックの記事はずっと書きたいとは思っていたのです!
とはいえ、カップ麺ブログとして運用しているときは、
「どう考えても今の読者の人達にはニーズはないよな」ということが気になり、
開設当初は「どんな話題でも扱おう」という意気込みではいたものの、
そのあたりが気になり洋楽ロックの記事は最小限にとどまっていました;
またカップ麺の記事に比べて、洋楽ロックの記事は書く手間が多く、
それゆえに記事を量産しにくいという問題もありましたからね!
ただもうこのブログは一度休止状態に陥ってしまいましたし、
「だったら別にニーズのない記事でも休止してるよりはマシでは?」
と思い、以前のような躊躇をせずに書けるようになりました!
またブロ友さん達がそれらを快く受け止めてくれたおかげでもあります!
この大きな方向性のチェンジのきっかけは先月の月末記事でした!(=゚ω゚)
ここでいつものように月末記事向けの洋楽ロックの動画を貼ったのですが、
いつもは「ニーズがないだろうから」とそこに説明をつけなかったのが、
今回はもう開き直って詳細な解説をつけることにしたのですよね!
それで一気に吹っ切れたというのが大きかったです!
そしてもう一つ大きかったのは以前に書いた「ロックの歴史」の文章ですね!
これはもともとブログと関係なく書いた文章だったのですが、
「洋楽ロックブログにするなら公開すればいいじゃん」と公開し、
これがちょうど洋楽ロックブログとして勢いをつけてくれました!
ブログで公開するにあたって不十分なところなどはいくつか書き直しましたが!
今後の更新で考えているのは、主に次の3つのタイプの記事なのですよね!
(1)それぞれのジャンルの成り立ちに関する解説
(2)それぞれのジャンルの音楽性の解説と大量プレイリスト
(3)洋楽ロックの曲の歌詞対訳
(3)はすでにやっているので説明は割愛するとして、
(1)は「フォークロックができるまで」みたいな記事のことですね!
他のジャンルについてもこのスタイルの記事を書きたいと思っています!
(2)は「(1)と何が違うんだ?」と思われてしまいそうですが、
(1)はあくまで成り立ちについてのみ焦点を当てたものなのに対し、
(2)はそのジャンルの全体像がはっきり見えるものにしたいのですね!
そして(2)はそのジャンルの楽曲を大量に集めたプレイリストをつけて、
「このプレイリストさえ聴けば、このジャンルの全体像はほぼわかるぞ」
というぐらいのものにしたいのですね!
だから(1)は「なるほどこのジャンルはこういうふうにできたのか」がわかるように、
(2)は「なるほどこのジャンルはこういう音なんだな」がとことんまでわかるように、
そんなふうに育てていきたいと思っています!
問題はどのジャンルについて(1)や(2)の記事を書くかですね!
サイケデリックロック、サンシャインポップ、サザンロック、
パンクロック、ポストパンク/ニューウェイブ、グランジ、
ファンクメタル、ドゥーム/ストーナー/スラッジ、
アメリカントラッド/アダルトオルタナティブと、
このあたりが候補に挙がってますが、さてさてどうしましょうか!
でもこんなふうに更新の方向性で悩めるのは楽しい悩みでもありますね!(*゚ー゚)
そして以前に紹介した「うちの家にお菓子をもらいに来る小学生姉妹」ちゃん達は
今も元気に自分と父に懐いていて、お菓子をもらいにやってきます!
この子達のおかげで、うちは年中ハロウィンみたいな感じになっています!笑
毎日「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!」と言われてる感じですね!
最近はお菓子を自由に貯められるように専用のボックスを用意してあげたのですが、
今はそのボックスを秘密の宝箱のように大事に扱ってお菓子などを貯め込んでいます!
小学生のときって自分も秘密基地みたいなのを作って楽しんでましたし、
こうした「自分達だけの秘密のもの」があると楽しいのでしょうね!(*・ω・)
こちらもこの子達のおかげで元気をもらうことができますしね!
人生に疲れているときでも子どもの無邪気な声や笑顔は楽しいですからね!
[今月の1曲]
さて、ここからは月末記事に貼る1曲の紹介をしたいと思います!
いつもはそのときの心境に近い曲を貼ることが多いのですが、
今月はそれとは特に関係なくDepeche Modeの曲を選びました!
Depeche Modeは今も活動は続けていますが、
80年代のポストパンク/ニューウェイブムーブメントを支えた
シンセポップ系のバンドの代表格と言っていいでしょう!
今回はそこから最大の代表曲の一つである"Enjoy the Silence"を選びました!
この曲は「ややダークな80年代シンセポップの完成形」とも呼べる曲で、
80年代のシンセサウンドが好きな人なら確実に気に入ると言えるほどだと思います!
そして同時にDepeche Modeは90年代のオルタナティブロック好きにも人気が高く、
実際にThe Smashing Pumpkinsなどの90年代のバンドに与えた影響も多大で、
90年代好きの人にもオススメできる、幅広い間口を持っている曲ですね!
「別に洋楽好きじゃないし、貼っている曲までは興味がないなぁ」という人でも、
「まぁそこまでオススメして、5分程度の曲なら聴いてやるか」ぐらいの気持ちで
ちょこっとボタンを押してもらえるとうれしいです!
ということで、11月もどうぞよろしくお願いいたします!(゚x/)モキシュール
Depeche Mode - Enjoy the Silence (1990) [Synth Pop / New Wave]
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入院中の母に面会してきました
「むくみが起きているので、気を付けながら体勢を少し変えたりします」
と連絡があり、また昨日に担当の医師から
「血液検査の結果から重い貧血なので、輸血をしようと思うので、
輸血の同意書を書くために病院に来てほしい」
と連絡があったので、急遽病院へと足を運んできました。
そして病院で輸血の同意書を書き、その際に看護師さんに状態を聞き、
「状態は少しずつ落ちている」ということと、
「尿があまり出なくなっており、それがむくみにつながっている」
ということを伝えられました。
面会は本来事前にネットで空いている日に予約しないといけないのですが、
以前に「面会できるようになった」と連絡を受けたときに、
「前日や当日に希望を伝えてくれても面会できます」と言われていたので、
無理を承知でそこで「面会することは可能ですか」と尋ねてみました。
すると特別に許可が出たので、病室に行って母と面会してきました。
そこで会った母は自分が想像しているよりも遥かに悪い状態でした。
目は開いているものの、意識は完全にどこかに飛んでしまっていて、
父と自分が病室に入ってきたことも全く認識できず、
話しかけても何の反応もなく、何も認識できていないような状態でした。
以前の連絡で「意識がはっきりしている日とそうでない日でムラがある」
とは聞いていて、自分はそれをコロナにかかっていた頃の
反応が鈍い状態がまだ治り切っていないのかなと思っていましたが、
そのときよりも遥かに悪く、意識がそこにないような感覚でした。
ただいわゆる昏睡状態とも違っていて、
「起きてはいるようだけど意識が飛んでいる」ような感じでした。
意識がもうろうとした状態が極限まで行っているような感じです。
そして手は普段の2倍ぐらいはあるほどに膨らんでしまっていて、
ひざのあたりも大きな水ぶくれがあるような状態になっていました。
「むくみ」という言葉で想像するレベルよりも遥かに上のものでした。
また普段は酸素吸入は鼻につけるカニューラというもので行っていますが、
このときはもうカニューラではなく酸素マスク的なものになっていました。
この母の状態は「たしかに呼吸はしているし心臓も動いているのだろうけど、
これは果たしてまだ生きていると言っていいのだろうか」と迷うほどのもので、
「これはもう良くてあと数週間だろうし、退院に至る可能性はもうほぼゼロで、
はっきりとした意識を取り戻す可能性もないだろう」と確信するものでした。
入院直後で何かの明確な病気があって、そこで意識混濁状態であるなら、
「今の病気が治れば回復する可能性もある」と思うこともできますが、
入院の直接の原因だったコロナと高度脱水はすでに治っているはずで、
そうでありながら意識などの回復が見られず、むしろ状態の悪化が続き、
尿が出にくくなってるなどの腎機能などにも影響が出ているような
症状が出ていることなどを考えると、回復を期待するのは非常に困難です。
この母の状態を見て、これまでの病院からの連絡などを聞いて、
「なぜだろう?」と感じていたことの全部が頭の中で繋がりました。
「面会ができるようになった」と伝えられたときに、
本来はダメなはずの前日や当日での連絡でもいいと言われたこと、
そこでむしろ病院の側がいやに面会を促すような言い方をしたこと、
これは状態が非常に悪く、いつ何があってもおかしくないがゆえの特別措置だったのでしょう。
そしてむくみの連絡を受けたとき、
自分は最初「なぜむくみぐらいのことで連絡を?」と思ったのですが、
母の姿を見て「あぁ、連絡が必要なほどのむくみだったのか」と納得できました。
「貧血なので輸血」という話を聞いたときも、
「輸血が必要なほどに重度の貧血?」という疑問が湧きましたが、
まさしくそれが必要なぐらいに血液の状態が悪いのでしょう。
面会の直前に「家から病院までかかる時間はどれくらいなのか」
「いつでも連絡を受け取れる状態にしておいてください」と言われたのも、
もういつ亡くなる瞬間が来てもおかしくないからだったのでしょう。
入院する前から要介護5で、入院するたびにいつも状態が一段階落ちることから、
ある程度の危険性があることは理解していましたが、
もうすでに「あと1回入院したらアウト」の状態だったのでしょうね。
ましてや肺に持病のある人のコロナ感染だからなおさらだったのでしょう。
すでにある程度の覚悟は持ってはいましたが、
実際に母に会って「もうほぼ間違いなく近いうちにその日が来る」
ことは完全に確信させられました。
ある意味ではもうすでに心の中で死を受け入れているに近い状態で、
「意識がはっきりしていた時期の母に会えたのは入院直前が最後だったのだな」
と飲み込むところに達しています。
病院からは余命がどれくらいということは聞いてないですが、
おそらくはそう遠くない時期に悲しい報告をすることになりそうです。
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母の病状経過と今後の介護方針
10月3日に入院してから病院から連絡がなかったので、
どのように病状が推移してるのかわからなかったのですよね。
病状経過の連絡で良かった点と心配な点をまとめると次のようになります。
[良かった点]
・コロナは治った
・隔離の必要が無くなったので大部屋に移ることになった
・短時間の面会もできるようになった
[心配な点]
・意識がはっきりとしているかが日によってムラがある
・呼吸(酸素飽和度)に一定の波がある
・心臓の状態にもちょっと波がある
・急変が起きる可能性もまだ否定できない
トータルとして見ると、入院の直接の原因となった
コロナと高度の脱水状態については治ったと思われますが、
まだ退院して自宅で過ごせる状態にはなっていないと見られます。
急変の可能性がなくはないこと、そしてコロナになる前より
全体的に状態が一段階ほど悪くなっていることを考えるに、
そろそろ寿命というのもありえることは覚悟が必要なのでしょう。
その可能性を頭に入れておくことももちろん大事ではあるのですが、
より大きな課題として立ちはだかるのが
「退院することになったときにどう対処すればいいのか」
という点です。
今回の連絡を受けたときの不安感にはその点もありました。
自分として考えるほぼベストな状態は、
・飲み物を飲んでも特にむせない状態に回復すること
・自分の意思で飲み物が飲めるようになること
・介助すればベッドの横の椅子に移動させられること
の3つなのですよね。
もうすでに要介護5なので、それ以上のことを求めるつもりはないのです。
この3つさえできれば、栄養と水分に関しては
医師から処方される高栄養ドリンクで全て賄えるのです。
なので、生きるうえでの最低限のことは何とかなるのですよね。
ここで入院に至るまでの経緯を振り返ると、
最大の失敗はコロナにかかったことそのものよりも、
脱水への対策が全くもって上手くできなかったことなのです。
コロナによる発熱などで体力や意識が弱まる
→ ベッドの横の椅子への移動やドリンクを飲むことが難しくなる
→ 脱水と低栄養が進む
→ さらに回復が遅れ、意識も弱まることで悪循環に入る
この結果、高度の脱水状態に至って入院せざるを得なくなったのですよね。
そうすると、退院後に最も重要なのは「脱水への対策」になるわけです。
コロナになって以降はドリンクなどを飲むのが難しくなったため、
ゼリーなら何とか飲めることから、それで対処しようとしたのです。
しかしこれは実際にはかなり非現実的な対応でした。
自分の意思でドリンクを飲んだりゼリーを食べたりできる状態ではなかったので、
ゼリーを食べるには、誰かが介助して口に運んであげるしかないわけです。
それで人間が1日に必要とする水分、1.5Lぐらいの水分量を
与えることができるかと言えば、これは非常に難しいわけです。
しかも当時はこちらも脱水に対する意識がかなり低かったため、
実際には1日に200mLの水分ぐらいしか取れていなかったと思います。
意識がボヤッとしていて、体力も落ちてしまっている状態では、
ゼリーを1日1.5Lぐらい摂取させるなんて現実的には難しいのですよね。
なので、退院することになったときに最も不安なのは、
心臓の状態や酸素の状態よりも、意識がはっきりしているかどうかなのですよね。
意識がはっきりしていて、先に触れた3点が何とかできるならば、
水分もカロリーもきちんと取らせることはできるのですが、
それが難しい状態で退院した場合にどう対応するかについては
あらかじめ考えておかないと、こちら側が潰れてしまいかねません。
そのことについて頭の中で整理したところ、対応は次の2つのどちらかになりそうです。
・介護施設に入ってもらって、そこに任せる
・在宅点滴を導入する
母はさみしがりやなので、本当はできるだけ施設には入れたくないのですが、
家にいると脱水になってしまうのが確実視されてしまう状況であるなら、
施設に入れて介護士さんや看護師さんに対応してもらうほうが遥かにいいでしょう。
では、在宅では何ができるか、ということを考えてきたときに、
思いついたのが「在宅で点滴はできないだろうか」ということでした。
これは調べてみると、ちゃんとできるみたいですね。
普通の点滴から、24時間単位での高栄養の点滴も在宅で可能なようです。
点滴が在宅でできるなら、これと高栄養ゼリーなどを組み合わせながら、
在宅で脱水を防ぎつつ最低限の生活をさせることも何とか可能になります。
すでに要介護5なので、介護費用の枠はかなり大きな方ですから、
このあたりの対応も介護保険の中で何とか実行はできるでしょう。
もちろん理想としては意識がはっきりした状態まで回復してからの退院ですが、
やはりそうならない場合の対応策が頭の中できちんと決めておかないと、
こちらの不安感なども増大してしまって動きが取れなくなりますからね。
とりあえず在宅点滴の選択肢があるのを知ることができたのは収穫でした。
このあたりは退院時にケアマネさんや訪問看護師さんと相談しつつ、
回復度合いに合わせてどんな介護計画を立てるかによるでしょうね。
自分達も潰れず、母にも少しでも長生きできるようにさせてあげたいです。
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母が入院しました
自分や父はコロナ感染しながらも順調に回復したのですが、
母は全快とはいかず、回復傾向にあるようには見えながらも、
微妙に回復しきらない状態が続いてはいたのですよね。
そのため9月の月末記事でもあまりすっきりした書き方ができず、
「10月もどうなるか見守りたい」というところだったのですが、
10月3日に問題が起きて結果的に入院することになりました。
母の症状の経過をざっくりと書くと次のような感じになります。
9月21日(木)
夜にコロナの症状が出始め、ここから飲食がほぼできなくなる
9月25日(月)
コロナの抗原検査で陽性が出る
9月28日(木)頃
熱は下がりつつあるものの、まだ微熱は続き飲食もあまりできない状態が続く
10月3日(火)
手の震えが酷くなり、酸素の状態もいつもよりやや低下し、
呼吸の頻度が高まり、脈も乱れていたので訪問看護師さんの判断のもとで救急車を呼ぶ
病状をおおまかに説明すると、
・今もコロナ陽性で、肺にもコロナウイルスが見られる
・高度の脱水状態
の2つが直接の入院の理由で、他にも
・おそらく脱水状態が原因で、血液のナトリウムとカリウムが異常な高値を見せる
などの問題が起きているようです。
なので、大きな流れとしては、
コロナ発症→飲食ができず脱水が進む→コロナと高度脱水で入院
と見て良さそうです。
ただこの入院先が決まるまでが本当に大変でした;
昨日の午後2時ぐらいに父から母の様子がおかしいと呼ばれて、
それで見たところたしかに手の震えや脈の動きが異常なので、
訪問看護師さんに連絡を取ったところすぐに来てくれました。
そこで訪問看護師さんからも救急車を呼んだ方がいいということで、
午後3時ぐらいに救急車を呼んだのですが、
今ちょうどどこの病院も病床がほとんど埋まり切っているのですね。
しかも12日前の時点でコロナを発症しているとなると、
受け入れてくれる病院はさらに限られてくるわけです。
そのため前回入院した病院にも今回は入ることができず、
とりあえず「満床で入院はさせられないけど、
検査などを行ったうえで、必要なら入院先病院をこちらで探す」
という病院が一つ見つかり、そこに搬送されたのです。
その病院で今もコロナ陽性であることや、血液検査の結果などが判明し、
脱水の緩和のための点滴治療を行ってくれながら、
その病院が新たな転院先の病院を探してくれたのですが、これが大いに難航しました。
たしかこの病院に到着したのが午後4時ぐらいだったと思うのですが、
転院先の病院が決まったのがなんと午後10頃だったのですよね;
救急車で運ばれてるわけですからこちらも不安感はありますし、
しかも正式な入院先が決まらないことも当然不安になりますし、
でもってそういう状態で病院に6時間もいると体力的にも疲れます;
しかも母が手の震えの関係で点滴が上手く落ちなくなってしまうので、
自分と父が交替しながら手を握ったりしてあげてましたからね。
でもってコロナ陽性だから当然転院先は見つかりにくいわけです。
なので、その病院側もかなり苦労されたとは思いますね。
気付いたときには病院内のコンビニも営業終了していたので、
当然ながら夕飯は抜きで、ときどき甘いジュースで糖分補給をしつつ、
クタクタになりながら転院先が決まるのを待っている状態でした。
そして転院先が決まって、再度救急車でそちらに運ばれたわけですが、
まぁ・・・新しい病院でもやっぱりいろいろと手続きに時間がかかるわけです。
新しい病院でも検査が必要で、その結果の説明なども受けないといけないですし、
さらに入院の手続き、病院側もどの病棟に入れるかなどを決めたりするわけで、
病棟が決まったときには午前1時、家に着いたときにはもう午前2時でした;
救急車を呼んでから11時間後の帰宅、この日は本当に大変でした。
内容が内容だけに、精神的にも肉体的にも完全に疲弊しましたね。
もともと肺が弱くコロナということで、急変のリスクはありますが、
高度脱水とコロナの2つを脱すればいいと目的は見えているので、
「病状がわからない」というような不安はない点はまだマシですかね。
ただやはり入院となると、何があってもおかしくないというのはありますし、
もともと体が弱いだけに100%安心というわけにはいかないですよね。
それでも一番大変な1日は乗り切ることはできましたし、
病院なら最善の対策はちゃんと取ってくれるでしょうから、
あとは病院を全面的に信頼して待っておこうと思います。
昨日記事が書けなかったのはほとんどこんな経緯で家にいなかったためでした。
それでは、また明日からちょくちょく普通の記事を更新していきます!
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9月が終わりました!
ついにうちの家にまでコロナがやってきてしまいましたよ;
9月18日の月曜日に父が軽く咳をし始めたのですよね;
あと火曜日ぐらいにはのどの痛みや熱が出始めていたはずです;
このときに父が39.0℃出ていたので少し不安はあったのですよね;
「ちょっと普通の風邪にしては熱が高いな」と;
で、水曜日(20日)に母の介護にいつもの訪問看護師さんが来てくれて、
そのときに父が体調不良を訴えるとコロナを心配してくれて、
その場で抗原検査をしてくれてすぐに陽性が出たのですよね;
翌日の木曜日には母の抗原検査もしてくれたのですが、
そのときはまだ陽性は出なかったのですよね;
ただその日の夜になると母の調子が微妙におかしく、
熱をはかると38.0℃と危険な雰囲気が漂い始めます;
とはいえ、この時点では母と自分は陽性は確定しておらず、
父は確実に陽性なので母の介護は自分がするしかないわけです;
月曜~水曜までは自分も父と普通に接していたうえに、
母のこの熱がコロナだとすると自分が発症するのも時間の問題です;
そして23日の土曜には自分も咳が出始め「あー;」となってきました;
解熱剤を飲んでいたのでこれといった高熱は出なかったのですが、
日曜日には喉も痛みも出て、咳もさらにひどくなり、
症状が父と同じだったことでコロナがほぼ確定しました;
そして25日の月曜日には訪問看護師さんが
母の抗原検査をしてくれ、母も陽性が確定しました;
自分は検査はしてないですが、まぁ症状から見て確定でしょう;
なんとか今日(30日)で発症から1週間が経ち、
咳とのどの痛みが軽く残っている程度でかなり回復し、
自分に関しては特に後遺症らしいものも残ってはいないです。
最初に発症した父もずいぶんと回復してきたみたいです。
体の弱い母が多少心配ですが、熱は下がりつつあるようで、
まだ食欲が回復してないですが、どうも回復傾向ぽくはあるので、
様子を見ながら少しずつ元気が出るのを見守りたいところです。
コロナに関しての詳細については10月の月末記事で報告したいと思います!(*・ω・)
コロナにかかっている間は家で延々とスマホで音楽動画を観ていました;
もちろん自分のことなので、洋楽ロックの動画ばかりではありますが!
コロナなので当然ながら出かけるわけにはいかないですし、
かといってパソコンを動かす気にもあまりなれなかったので、
スマホをいじって音楽動画を見てひたすら時間を潰してましたね;
ただこれが自分としてはなかなかの発見になったのですよね!
カップ麺も食べなくなり、以前ほどラーメン屋にも行かなくなり、
その結果としてブログのネタなどもなくなってしまってましたが、
それでもがっしりと残っている大きな趣味が音楽ですからね!
自分の洋楽ロック熱がふつふつと湧き上がる力を感じましたね!(●・ω・)
ブログの更新停止後は自分の内面的な問題を書いたり、
あとはせいぜい月末記事を書くというぐらいでしたが、
「自分で楽しいと思って書ける話題」といえば、
やっぱり音楽ということに帰着していくのですよね!
これまでブログを続けるうえで何度か音楽系の話題は出してますが、
自分のブログを読んでくれている人の間でニーズがないという実感はあり、
それゆえにせいぜい何も言わずに動画を載せるぐらいだったのですよね;
でも今はもうブログだって一度は停止してしまってるわけですから、
歌詞対訳や音楽紹介などを中心にしてそうした記事を書いたって
何も書いてないよりはよっぽどいいのではないかと思い始めました!
これが今後のブログの大きな指針の一つになっていくかもですね!
そもそもこのブログのタイトル"He can eat anything but himself!"は、
「このブログでは何も怖れずに自分の好きな話題を何でも扱うぞ」
という気持ちを示したものだったわけです!
今になって、そこにやっと帰っていけるのかもしれないですね!
ちなみに自分はずっとスマホよりもPC派だったのですが、
コロナの時期の影響でずいぶんとスマホ寄りになりましたね!
PCはどうしてもパソコンの前にどかっといないとダメですが、
スマホはどこでもどんな姿勢でも見られるのはやはり強いですよね!
長めの文章を書く際は圧倒的にPCのほうが有利ではありますが、
単に情報を得たいときはスマホでも十分にできるものですね!
[今月の1曲]
もともと月末記事には音楽動画を1つ貼るのを定番にしてましたが、
その曲に関する紹介はほぼほぼ書いてこなかったのですよね!
「書いても需要がないだろうな」と思っていましたので;
「独り善がりだから書いても仕方ないな」という感じですね;
でももう一度ブログを停止してしまった後ですし、
「ブログなんて独り善がりでもいいじゃん」と思いつつあるので、
だったらきちんと紹介も好きなように書こうと思った次第です!
ちょうどコロナの間にGin Blossoms, Toad the Wet Sprocket,
Counting Crowsといった90年代のオルタナティブだけどポップ性もある
そうしたアメリカンロックバンドをよく聴き直していたのですね!
その流れでふとR.E.M.を聴き直すと、いや素晴らしいじゃないですか!(*・ω・)
こうしたアメリカンオルタナティブの偉大なルーツがR.E.Mである、
ということは頭では当然よくわかっていたのですが、
その流れでR.E.M.に帰ってくるようにして聴くと、
「これこそがまさに90年代型アメリカンロックの原点であり、
最高品質なアメリカンロックじゃないか」ということを
ものすごく痛感させられたのですよね!
R.E.M.なしにこうした90年代型アメリカンロックの隆盛はなかったし、
それらの音楽を語るうえでR.E.M.は絶対に欠かせないと思いましたね!
なので、今回はR.E.M.の曲を1つピックアップすることにしました!
R.E.M.はほんと素晴らしいバンドなうえに活動歴も非常に長いので、
1曲だけを選ぶのは難しいのですが、今回は"Bad Day"にしました!
この曲をR.E.M.の代表曲に選ぶ人って少ないとは思うのですが、
もともとはインディーズ時代の"Lifes Rich Pageant"の頃(1986年)に書かれ、
でも発表されずにお蔵入りになっていたものが2003年のベスト盤リリースの際に
改めてレコーディングされ、シングルとしてもリリースされたのですよね!
それって初期のR.E.M.と円熟期の彼らの両方の要素を持っていることでもあり、
ここで紹介するのにちょうどいいのではないかと思って選びました!
今ではこうしたサウンドは世界的にスタンダードなものになってますが、
このような音楽性を世界に定着させたのは間違いなくR.E.M.なのですよね!
「なんか音楽でも貼ってるからとりあえず一度聞くか」という感じで流してみてください!
R.E.M. - Bad Day (1986/2003) [Alternative Rock / College Rock]
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阪神優勝に寄せて ~岡田監督の凄味について語る
現監督の岡田彰布さんの監督としての能力の高さについて語ります!
自分は1992~2011年まで中日ファン(今は贔屓球団なし)だったので、
中日の元監督の落合博満さんがものすごく大好きなのですよね!
そして落合ドラゴンズにとっての最大のライバルが岡田阪神でした!
落合さんも監督としての岡田さんの能力は非常に高く評価していて、
ファンとしても「岡田阪神は手強い」という印象を強く持っていました!
そうしたこともあって、自分は岡田監督への評価は第一次政権から非常に高く、
「岡田監督はこういうところが優れているな」と思う面が多くありました!
それゆえ岡田監督は大好きで、岡田さんが阪神を再び優勝に導いたのは
「どうだ!これが岡田さんの力だ!」という思いがあります!
ということで、自分の考える岡田さんの凄さをいろいろ語っていきます!
◎岡田監督の最大の強み - チームの形を作る能力
野球の監督の能力について語るとき、多くの場合は各試合における采配、
スタメン起用や、代打、継投、このあたりが成功するかどうかで語られます!
でも監督としての本当に大事な仕事は実はここではないと思うのですね!
とりわけ代打や継投があたるかどうかは確率論に大きく依存しますし、
結局は「振ったサイコロがたまたま良い目が出たか」でしかなく、
「代打的中」なんてのは大抵の場合はただの運でしかないわけです!
では、最も大事な監督の仕事とは何かということを考えると、
「チームの形を作ること」と「1年を通したチームのマネジメント」
にこそあると考えています!
そしてこの「チームの形を作ること」にこそ、岡田監督の強みがあります!
岡田監督が就任したときにまず重視するのは、
・それぞれのポジションをどの選手に競わせるべきか
・それぞれの選手に最も適したポジションはどこか
ここをはっきりとさせたうえでチーム作りに臨むということです!
第一次政権のときにもこの方針は非常にはっきりしていました!
まだ新人だった鳥谷をショートに固定するのを決めるとともに、
今岡選手をセカンドからサードにコンバートさせて、
そうすると空きができてしまうセカンドには
それまでショートを守っていた藤本選手と
たしかサードがメインだった関本選手を回して、
この2人によってセカンドを回すという方針で固定します!
そのため第一次岡田政権時代はショート・セカンド・サードの役割が明確で、
内野手がコロコロと変わるというようなことがありませんでした!
「今のチームではどんな形を作るのがベストか、
それぞれの選手には現状どこのポジションがあっているか」、
この2点を頭を巡らせながら、ガッチリとベストの形を見据えて固定するのです!
これは投手陣の整備に関してもそうでした!
第一次政権のときはまず抑えだった安藤投手を先発に転向させ、
逆に先発だった久保田選手を抑えへと回します!
そして少ない球数ならすごい球を投げることから藤川投手を
勝ちパターンのセットアッパーとして抜擢し、
あのJFKという3人を確立したわけですね!
これも「ベストの形を作って固定する」という岡田さんらしいやり方です!
このように「ベストの形を作って固定してどっしり戦う」という方針のため、
それがハマれば数年間はその形のまま戦うことができるようになります!
この安定感が第一次岡田政権の安定した成績を支えたのもたしかでしょう!
そしてそうしたスタイルであるため、岡田さんが監督を務めている時期は、
一人の選手がコロコロと複数のポジションをたらい回しされることが非常に少ないです!
また特定のポジションのレギュラーが曖昧という状況もあまり生まれません!
このあたりは今回の第二次政権でもきちんと踏襲されていて、
大山選手や佐藤選手のポジションの固定などにも繋がっていますね!
今年見ていて役割の固定に多少苦しんだのは投手陣の抑え(岩崎投手or湯浅投手)ぐらいで、
ここが固まって以降はチームの形がブレるということはほとんどなかったように思います!
本当に強いチームって岡田阪神に限らず、落合中日、黄金時代の西武でも、
各ポジションがガッチリと固まってチームの形ができているのですよね!
もちろんそれはある程度の選手層の厚みがあってのものですが、
「それを目指し、確立する監督としての力があるかどうか」も大事で、
岡田監督はそれをきちんと遂行できる人物なわけですね!
だから岡田監督の最大の仕事はシーズンインする前、
チームの構想を練ってそれを実践するまでにこそあるわけですね!
そうした「チーム作りという視点からの技術」にも目を向けると、
野球を見る楽しさがさらに増していくのではないかと思います!
◎岡田監督の進化 - シーズンを通してのマネジメント
もう一つ、なかなか注目されにくい監督の役割は
「シーズンを通しての選手起用などのマネジメント」です!
これはマラソンなどにたとえれば、
「ゴールまでどのようなペース配分で走っていくか」
ということですね!
前半飛ばし過ぎて後半にバテて落ちていっては元も子もないですし、
野球も長丁場ですから、そうした配分が実はかなり重要なのです!
でもファンはどうしても一試合一試合にばかり目を向けるので、
こうしたペース配分の重要さにはなかなか目が行かないのですね!
この「シーズン通してのマネジメント」が非常に上手かったのが
中日ドラゴンズの元監督の落合博満さんでした!
キャンプで12球団一の厳しい練習でシーズンを戦う体力をつけさせ、
前半はどの投手が先発ローテを任せられるかを試すように起用し、
後半でも長いイニングを投げられるようにあえて前半は継投を遅めにする、
そして中継ぎについては僅差の勝ちパターンとそれ以外で役割を明確化し、
大事な中継ぎ投手がシーズン後半に疲弊しないようにペース配分をして、
他のチームにバテが見られてくる9月以降に猛スピードで勝利を重ねます!
これが大成功したのが2010年と2011年の落合中日の2連覇でした!
落合ドラゴンズのファンだった自分は、こうしたところを見るのも楽しみで、
「あぁ、今は先発の見極めをしてるから負けるのはいいか」みたいに
落合監督・森ヘッドコーチの戦略を読みながら楽しんでいました!
さて、ここで今年の岡田監督の話に戻りますが、
岡田監督はどちらかというと鞭を入れるのがやや早いタイプで、
最後の最後にややバテが来てしまうということがありました!
第一次政権だと2005年と2006年は最後までバテはきませんでしたが、
2007年と2008年は最後に徐々に失速してしまい、
特に2008年はそれゆえ大逆転で優勝を逃すことになりました;
とりわけ2008年の大逆転V逸と監督辞任は岡田監督にとって最も苦い記憶なのでしょう!
そうしたこともあってか、今年は「いかに最後までバテずに戦えるか」を
重要視しており、勝ちパターンの中継ぎの起用なども以前よりかなり穏やかでした!
第一次政権時代の岡田監督は「中継ぎを酷使してる」と言われることも多く、
このあたりがシーズン後半での失速の原因になることもありましたが、
今年は「それだけは絶対に避ける」という意思の強さを感じました!
これによって「シーズンを通していかにバテずに戦うか」の上手さに磨きがかかり、
第一次政権時代の弱点を克服するという進化を見せてくれたのですね!
この2つのポイントがどちらも完成されたこともあり、
岡田さんは監督としてかなりスキのない存在になりました!
◎動かないのは考えがないわけじゃない
「岡田監督はチームの形を固定することを重視する」ことは既に述べました!
それはスタメンなどで「動く」ことをあまりしないということでもあります!
岡田監督に対して不満を挙げられるのもおおむねこの点だったりします!
要は負けが込んでいるときでも、打順を大幅に変更したりだとか、
選手の大幅な入れ替えなどはあまりしないタイプなのですよね!
でもファンは負けているときはどうしても動いてほしいと思いがちで、
こうした「負けても動じない」姿勢にいらだちをおぼえることがあります!
ただ自分としてはこうした岡田監督の姿勢は正しいと思うのですね!
もちろん一時的に形を変えて連敗が止まることはあるでしょう!
でも「ベストの形を崩す」場合と「ベストの形を貫く」場合の
どちらが安定的に勝率を確保できるかを考えるなら、
「ベストの形を貫く」ほうであることは間違いないのです!
下手に動けばチームのベストの形を崩すことになるので、
一時的に連敗から脱してもいつまでも調子をつかみきれない、
そういう状態になってしまうこともよくあるのですよね!
どんなチームでも不調になってしまうことはあるので、
そこは辛抱して調子が戻ってきたときにベストの試合ができるように
ベストの形をあえて維持する、これも大事なことだと思いますし、
そうした岡田監督だからこそ、連敗が少なかったとも言えると思います!
(もちろん先発陣が整っていたからというのも非常に大きいですが)
◎来年の展望
[外国人選手]
来年の阪神で最も上がり目として期待できるのが外国人選手でしょう!
というのも、今年はあまり外国人選手が活躍しなかったので、
いい助っ人を獲得することができれば確実にプラス要素になります!
特に野手の外国人はとてもじゃないですが活躍したとはいえず、
かつてのブラゼル選手のような4番を張れる長打のある選手がいれば、
打線に大きな厚みが出るのは間違いないところですからね!
投手の外国人は全く活躍しなかったわけではないものの、
主力になったとまではやはり言えないところなのですよね!
なので、特に勝ちパターンを任せられる中継ぎ投手が一人増えれば、
これもまた大きな戦力になってくれるのは間違いないでしょう!
[野手陣]
野手も今年より大幅に悪くなるような雰囲気はないのですよね!
というのも、正直なところ今年もそこまで打てたわけではないですからね;
ただ今年の阪神がすごく良かったのは
「打てないなりに塁に出る、点を取る」
ということができていた点です!
これは岡田監督の四球への意識付けが功を奏したとよく語られていますね!
このあたりのチーム方針の定着も監督の重要な仕事なのですよね!
全く打てず点も取れない今年のセリーグ某チームとはそこが大きく違います!
近本選手と中野選手の1・2番コンビは今後もチームを引っ張るでしょうし、
ここが確立されるとチームというのは大きく安定しますからね!
問題は3~6番あたりで、まだ正直なところ長打が足りないのですよね;
やっぱりここは大きいのを打てる外国人バッターを一人獲得することと、
あとは佐藤選手の確実性がより上がってくればより良くなりそうですね!
[中継ぎ・抑え]
ここも正直、来年大崩れするような感じはないのですよね!
とはいえ、第一次政権のJFKほどの安定感があるわけではないので、
まずは岩崎投手が不動の抑えとして君臨できるかが鍵でしょうね!
あとは湯浅投手が万全の状態で復帰できるかも重要でしょうね!
湯浅投手が勝ちパターンの中継ぎとして定着すれば厚みも増しますし!
[先発陣]
来年の不安要素を挙げるとしたら、ここになるのですよね;
本当は今年も岡田監督の展望とはズレてたはずなのですよね!
普通は青柳投手と西勇投手を軸に他の投手たちでローテを回す、
と考えたはずなのですが、この2人がどうにも調子が上がらず、
そのかわり村上投手、大竹投手、伊藤投手、才気投手などが
思いがけない大きな活躍をして1年間ローテを守ったのですね!
来年難しいのは、この4人が今年と同じレベルの活躍ができるかどうかですね!
当然研究はされますし、好調をそのまま維持できるのか、
ここが大崩れするとちょっと危険なところはありますね!
逆にここから2人、3人と安定した投手になることができれば、
これから数年は先発が安定して見られるようになっていきますね!
また逆に青柳投手や西勇投手は復活することができれば、
先に挙げた4人が全員活躍できなくてもその分をカバーできるので、
この6人が来年どうなるかというのが鍵にはなってくるでしょうね!
いずれにしても先発陣は数に関しては他球団より充実してるので、
ここから何人が来年もローテを守れるかが重要になるでしょうね!
というわけで、自分なりに岡田監督を語る記事でございました!(゚x/)モキュショッ